心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

古典芸能を楽しむ

2017-03-31 21:06:52 | Weblog

 先日、仲間20名ほどで仏像鑑賞会と銘打って京都の千本釈迦堂に行ってきました。快慶作の十大弟子立像、定慶作の六観音菩薩像などの重要文化財の仏像彫刻を拝見させていただきました。いずれも鎌倉時代のものですが、「いま」という時の流れとは異なる時間と空間の中に身を置いて、ただただ見入る私がいました(下の写真「十大弟子立像」は千本釈迦堂のHPから)。
 その帰り道、北野天満宮、平野神社を散策して帰りました。梅の花の季節を終えて、枝垂桜には微かに開花の兆し。ここ大阪でも、きのう桜の「開花宣言」があったばかりです。でも、きょうは昼過ぎから雨模様、お花見はお預けです。明日は晴れそうなので、孫君はじめ長女一家を連れて京の街にお花見に行く予定です。
 さて、今週のテーマは古典芸能です。実は、先週の土曜日と日曜日の両日、能楽堂にでかけました。半年ぶりのことですが、「能楽入門」の授業を受けて、少しずつ鑑賞の勘所のようなものが見えてきたように思います。
 まず土曜日は、大槻能楽堂自主公演:能の魅力を探るシリーズ「邪と悪と激」(その3)を観にいきました。「悠久の歴史の中で人々はこれらの世界をどう生きてきたのだろうか」という副題が添えてありました。
 狂言「鈍太郎」は、訴訟のために京の都から西国に下った男が、その3年間何の知らせも寄せなかったことから、本妻とお妾さんの両方から責められるというお話しでした。終始笑いを誘うお気軽な舞台でした。
 能「鉄輪」は、男に捨てられ嫉妬に燃えた下京の女が、怨念を募らせ鬼の姿となって、男が頼んだ陰陽師と対峙するという悍ましいお話しでした。最後には、鬼と化した女は三十三番神によって神通力を失い、呪いの言葉を残して姿を消しますが、見方を変えれば、身勝手な男に対して真実の愛を求める哀しい女性の一途な思いを描いたと言えなくもありません。なんとも不思議な時空間をさ迷った一日でした。
 翌日は、大槻能楽堂から徒歩15分ほどのところにある、船場・谷町の山本能楽堂に行きました。家内ご推薦の企画で、テーマは「流されて~能と落語と文楽と」。能楽師・山本章弘さんによる仕舞「鵺(ぬえ)」。落語家・桂南光さんの古典落語「質屋蔵」、浄瑠璃・豊竹英太夫さんと三味線・鶴澤清介さんによる義太夫「平家女護島~鬼界が島の段」が演じられました。こちらの能楽堂は、椅子ではなく畳桟敷で、舞台との距離・高さも近く臨場感あふれる舞台でした。
 共通のテーマである「流されて」について、案内チラシにはこう記されてありました。「鵺とは、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の姿をした怪獣で、源三位頼政に退治され、丸木舟に載せられて”流された”」「平清盛に謀反を諮った俊寛は丹波少将成経、平判官康頼とともに鬼界が島に”流された”」「大宰府に”流された”菅原道真公」。それぞれに「流された」ことをモチーフにした演題というわけです。
 人形浄瑠璃はなんどか観たことがありますが、義太夫だけを抜き出しての出し物は今回が初めででした。客席からの掛け声に応える英太夫(はなふさだゆう)さんが、鶴澤さんの三味線に併せて「鬼界が島の段」をドラマティックに語っていきます。言葉の意味はほとんどわからなかったのですが、その熱演ぶりに前のめりになってしまいました。
 アフタートークの時間には、能と浄瑠璃の声の出し方の違いが話題になりました。能は「歌う」、浄瑠璃は「語る」、そして落語は「話す」、そんなまとめ方に妙に納得したものです。ちなみに英太夫さんは、このお名前で舞台に立たれるのはこの日が最後、4月には6代目豊竹呂太夫(ろだゆう)として襲名披露(菅原伝授手習鑑)です。修行生活50年、70歳を迎えてますます円熟度を増す英太夫さんでした。

 ここで話はがらりと変わりますが、大阪城を横目に大槻能楽堂に向かっているとき、目の前に真新しい大きな病院が現れました。看板をみると大阪国際がんセンターとあります。敷地内には2018年の竣工をめざす「大阪重粒子線がん治療施設」の建設も進んでいました。  重粒子線がん治療の優位性について、工事現場の看板にこんな説明がありました。(1)切らずに、痛みなく治療ができます(2)がん細胞をピンポイントで照射しますので副作用が少ない治療です(3)重粒子線は照射エネルギーが大きく、治療回数・日数が少なくすみます(4)身体機能を温存できる可能性が高く、社会復帰が早くなりますーー放射線治療の先進医療機関なんだろうと思います。大いに期待したいところですが、一方で「先進医療の技術料は全額自己負担」の文字。この世は病気も金次第ということのようです(-_-;)。
 看板を見ながら家内に言いました。「ぼくには関係ないね」「延命措置は要りません」と。実は数年前、職場の健康診断で、大腸がんと前立腺がんの「要精密検査」判定を受けたことがあります。両親も祖父母もみんながんで亡くなっているので、ことさらに恐怖心というものはなく、来るべきものが来たと冷静に受け止めている私がいました。
 ただ、そのときに強く思ったのは、仕事中心の生活で人生を終わりたくない、ということでした。それが私のリタイア時期を早めたのでしょう。きっと。........相応のポジションを与えられて仕事に雁字搦めになっている自分を、その呪縛から解放したい。あれから、もう8カ月が経とうとしていますが、時間の「質」がおおきく変わりました。そして、それを良しとする私が、いまここにいます。毎朝お散歩するお不動さんの境内で今朝、桜の開花を確認することができました。 
 そうそう、きのうは年に1回のがんドックに行ってきました。胃がん、肺がん、大腸がん、前立せんがんの定期検診です。「生老病死」は自己責任です。与えられた「生」の意味を自分なりに考え、自然の摂理に従って生きていく。そんな生き方ができればと思っていますよ。
 きょうは3月31日。年度替わりのこの時期にリタイアされる方もいらっしゃるかもしれませんね。長いお勤めお疲れ様でした。新しい人生の門出に乾杯です。 

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春を迎える8分の6拍子

2017-03-24 21:39:34 | Weblog

 森友学園の籠池理事長に関するTVニュースを見ながら、長い仕事人生にはこうした海千山千の危なっかしい人もいたなあという思いを強くしますが、朝から晩まで一人の人物に振り回された日々が続き、なにかしら疲労感のようなものが漂います。
 そんな週末の夜は、気分転換にLPレコードでも楽しみましょう。レコード棚から取り出したのは、エリー・アーメリンクが歌うフォーレ(1845~1924年)の「歌曲集」です。ユゴー、リール、レニエ、マサン、ヴェルレーヌなどの詩を基にした小品を散りばめたもので、ジャケットには「抒情の清冽さにおいてはモーツァルトのそれよりもしなやかであり、南国的である」との記述があります。
 フォーレとの出会いは、なんといっても「レクイエム」です。40数年も前のこと、母が亡くなった頃によく聴きました。手許の「大音楽家の肖像と生涯」(音楽之友社)によれば、レクイエムを発表後、疲れ果てたフォーレは、パリを離れてヴェネツィアに行きます。そこで素晴らしい風景の中に身を置き、再び創作意欲を取り戻しました。人はやはり、置かれている環境、つまり風景の影響を受けながら成長していくんでしょう。フォーレは3冊の歌曲集と5冊の歌曲連編を遺しました。
 フォーレのレコードを手にしたのには訳があります。カレッジの音楽講座です。今回のテーマは「舟歌と子守唄」でした。音大の先生にソプラノ歌手とピアノ奏者を交えて、大学の音楽教室で午前と午後に分けて4時間にわたって楽しい時間を過ごしました。
 ゴンドラの船頭が櫂を漕ぎつつ歌う8分の6拍子の穏やかなリズムが、水の都ヴェネツィアを想起させます。いろんなお話しをお聞きしたあと、メンデルスゾーンやショパンの舟歌を聴きました。授業は舟歌から子守唄に展開していきます。フォーレの「ゆりかご」「子守唄」、ショパンの「子守唄」、そしてスーク、ムソルグスキー。さらにはストラヴィンスキー、トスティ、チャイコフスキー.....。この音楽講座の先生方と若手奏者の方々に惹かれて、来月からは別途課外講座を受講することにしました。
 快いメロディに誘われてもう一枚取り出したのは、アーメリンクが歌うモーツアルトの「アリアと歌曲集」です。先生がおっしゃっていましたが、私たちがよく知っている「モーツァルトの子守唄」は、実はモーツアルトの作品ではなく、フリースという作曲家の作品なんだとか。近年発見された文献で分かったのだそうです。だからといって、この曲の価値が下がるわけではありません。

 ここで話はがらりと変わります。先日、「街歩き」のプレ企画として、JR甲子園口から徒歩10分ほどのところにある旧甲子園ホテルに行ってきました。昭和5年に竣工したライト式建築で、「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」と並び称されるほど当時脚光を浴びたホテルです。残念ながら第二次世界大戦で海軍病院として収用され、終戦後は進駐軍の将校宿舎として使用されたため、実際にホテルとして使用されたのはわずか10数年ほどだったようです。アールディコ文様の壁面彫刻やら特徴的なオーナメントなど、至る所に設計者の思いが詰まった素晴らしい建築物でした。この建物は現在、武庫川学院に引き継がれ、建築を学ぶ学生たちの学舎の一部として今も使われています。そんな空間で学ぶ学生たちを羨ましく思いました。来月は、以前下見をした北浜・船場界隈を歩く企画を準備中です。
 まだまだ知らない世界はたくさんあります。いつも歩いている街でさえ、少し視点を変えれば別の素顔が見えてきます。そんな風景の中に身をおいて、まだひんやりとはしますが、春の穏やかな微風を肌で感じながら歩く楽しさ。沈丁花の香りが漂うなか、お目覚めになったばかりの鶯の囀りに耳を澄ませ、あっちに行ったりこっちに行ったり。
 そうそう、近所の本屋さんで、こんな本を見つけました。「日帰り歩く旅(関西版)」(京阪神エルマガジン社)。道、日本文化、名宝、歴史、名建築などテーマごとにモデルコースが紹介されています。
 暖かい春の陽に誘われて、アーメリンクの歌声をポケットに忍ばせ、ぶらりウォーキングにでかける日も遠くはなさそうです。

注:トップの写真は、旧甲子園ホテルにあったかつてのバー(?)の床です。いろいろな色と形のタイルが、当時の華やかさを微かに伝えています。

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お上りさんの『東京見物』

2017-03-17 21:15:35 | 旅行

 3月も半ば、きょうはぽかぽか陽気の一日でした。お不動さんの境内にある桜の蕾も心なしか膨らんできたようで、開花が待ち遠しい季節になってきました。
 さあて、今週もいろいろありました。先日は、所要のため東京に行く機会がありましたので、家内を同行して少しゆったりとした日程で東京見物と洒落込みました。それも、現役の頃に歩いたビジネス街ではなく、下町の風情が残る両国、浅草、柴又、そしていま話題の築地と東京都庁などを巡って来ました。3日間のうちの1日は、「お上りさん」よろしく、はとバス1日コース「江戸味覚食い倒れツアー」に参加です(笑)。
 泊まったホテルが錦糸町界隈だったこともあり、「すみだ北斎美術館」も覗いてきました。北斎の絵は、3年前に琵琶湖河畔の佐川美術館で開催された「北斎とリヴィエール~ふたつの三十六景と北斎漫画」で初めて原画に出会いました。なんといっても構図の素晴らしさ、そして当時の人々の生活感あふれる表情が気に入っています。美術館の一画には、北斎とその娘の葛飾応為の実物大の人形も展示されていました。絵を描く手先が微妙に動く精密な仕掛けになっていましたが、コタツ布団をかぶって絵筆を取る北斎の姿に、在りし日の人間・北斎を見た思いがしました。案内によれば娘・応為も相当な腕前の絵師だったのだそうです。
 街を歩いていると、北斎通り沿いにビルの間から東京スカイツリーが見えました。あまりにも高いので近場で全景を望むのは大変です。すると「タワービュー通り」と名つけられた通りがありました。タワービューというだけあって電線がありません。小池知事が言うところの無電柱化がいち早く実践されていて、この通りからだと下町に聳えるスカイツリーの全景を望むことができます。心憎い楽しい発見でした。
   はとバスツアーの方は、朝の9時に東京駅を出発し、築地場外市場→浅草観音と仲見世→江戸東京博物館→柴又・帝釈天と、定番のコースに食事付きです。日曜日だったので横浜にいる次男夫婦もお誘いし、東京見物を楽しみました。
 いま話題の築地市場は、確かに老朽化が著しい市場でした。でもねえ、じゃあ豊洲移転しかないかと言われるとなにか胡散臭いものを感じてしまいます。どこの組織にもありそうな話ですが、当事者意識に欠けたビジネスモデル優先の負の遺産になりそうな危うさがあります。
 日曜日だというのに、場外市場は朝から観光客でいっぱいでした。活気にあふれていました。この活気、熱気は大事にしたいものです。築地本願寺にまで足を延ばしてお参りしてきました。
 次に向かったのは浅草。いつもテレビで見る雷門の前で定番の記念写真です。仲見世の賑わいも半端ではありません。江戸東京の風情を体感しました。
 次に向かったのは、両国国技館横の江戸東京博物館でした。北斎美術館の近くでもありました。江戸東京の歴史と文化を実物資料や復元模型で紹介しています。一画には文明開化東京から関東大震災、戦争、戦後の歩みを振り返るコーナーもあって、じっくり見ていたら1時間の自由時間があっという間に過ぎてしまいました。いずれにしても、江戸特有の美意識「粋(いき)」を感じさせる楽しい博物館でした。
 そして最後は、寅さんで有名な柴又・帝釈天です。こちらも浅草に劣らず参道にはたくさんの人出で賑わっていました。これが「江戸」なんでしょうね。人との距離を非常に短く感じました。時代の先端を突っ走る首都東京とは違い、人の顔が見える街、人の呼吸を感じる街、地に足がついた街の様子が、ぼんやりと浮かんでは消えていきました。
 そういえば寅さんこと渥美清さんの急逝を知ったのは、20年前、パリはルーブル美術館界隈の新聞屋さんで手にした朝日新聞でした。1面に大きく掲載された記事を驚いて読んだことを思い出します。 
 江戸川の土手にも登ってみました。大阪の淀川に似た風景でしたが、対岸は千葉県です。遠くに矢切の渡しを眺めることができました。
 帰阪する前に、いま話題の都庁も覗いてきました。45階の展望台から東京の街を眺めたあと32階の職員食堂で人気メニュー「鰻重」を美味しくいただきました。価格はなんと880円でした。
 東京一極集中、地方創生などといった言葉が飛び交うご時世。次代を牽引する「IoT」や「AI」「イノベーション」といった言葉に対する期待は大きいけれど、人の心が追い付いていないもどかしさ。さあてどうなんでしょうね。ビジネスモデルと人の生きざま、夢(いや虚構)と現実..........。温故知新という言葉がありますが、時代の転換期にあって私たちは何か大切なものを置き忘れてはいないか。いやいや、それは加齢に伴う時代認識の脆弱性なのかも?そんなことをぼんやりと考えながら羽田を後にしました。

注記:
上記の花の写真は皇居東御苑で撮影したものです。1枚目はカンヒザクラ、2枚目はニワウメです。苑内には様々な植物が植えられ、カメラマンの恰好の被写体になっています。 カメラをもったお爺さんは、皇居の植物ガイドブックを片手に「毎週来ていますよ」と嬉しそうにお話しになっていました。

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土佐の国から伊予の国へ

2017-03-10 10:44:39 | 四国遍路

 いまにも雨が降りそうな朝、天王寺でバスに乗り込み一路四国をめざしました。バスに揺られて7時間。延光寺に到着したのは午後3時を回っていました。四国八十八カ所遍路の旅は今回、四国の深い山々と美しい海岸線をながめながら足摺岬から宇和島界隈の6カ寺を巡りました。暖かい春の陽気につつまれた気持ちのよいお遍路でした。
   第三十九番札所・赤亀山延光寺(宿毛市)     ご本尊は薬師如来
 第二十八番札所・蹉?山金剛福寺(土佐清水市)ご本尊は三面千手観世音菩薩
 第四 十 番札所・平城山観自在寺(南宇和郡)    ご本尊は薬師如来
 第四十一番札所・稲荷山龍光寺(北宇和郡)      ご本尊は十一面観世音菩薩
 第四十二番札所・一カ山佛木寺(北宇和郡)    ご本尊は大日如来
 第四十三番札所・源光山明石寺(東宇和郡)    ご本尊は千手観世音菩薩
  まず初めにお参りした第39番札所・延光寺は、723年聖武天皇の勅命により行基が建立したと言われています。山門をくぐると、梵鐘を背負った亀が出迎えてくれました。本堂、大師堂で般若心経をお唱えしたあと、先達さんに案内されたのは「目洗井戸」でした。案内板には「延暦14年、弘法大師久しく当山に錫を止め再興の方を修せらるに浄水とぼしきを嘆かれ、本尊に擬して地を掘りて加持すれば霊水自ずから湧き出でる。大師この水を宝医水と名ずけた」とあり、眼病に霊験ありと伝えられています。眼科の精密検査をうけた直後だったので、さっそく小さな井戸からお水を汲んで眼を濡らしました。
 順番は逆になりましたが、次に向かったのは足摺岬にある第38番札所・金剛福寺です。第37番札所の岩本寺からは80余キロ、四国霊場の札所間では最長距離なのだそうです。歩いたら30時間、3泊4日かかるのだと。まさに「修行の道場」です。この日黙々と歩く三組のお遍路さんに出会いました。そのうちの一組は、なんと外国人女性の方々でした。  四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にお寺はあります。ツバキ・ウバメガシ・ビロウ等の亜熱帯植物が密生した遊歩道が続き、弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得したのだそうです。  そうそう、展望台の入口に、ジョン万次郎(中村万次郎=1827年~1898年)の立派な銅像がありました。案内板によれば、万次郎は「近代日本初の国際人。中ノ浜出身。1841年出漁中に遭難するが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号のウィリアム・H・ホイットフィールド船長に助けられ、船長の生地フェアヘーブンで学校教育をうけるとともに見聞を広める。1851年帰国後、その国際知識をかわれて幕府直参となり、1860年には遣米使節の一員に加えられるなど、開国にむけて大役を果た」したのだと。地元ではいま、NHK大河ドラマ化を願って署名活動を推進中でした。ちなみに、万次郎が米国で過ごした時代は、ヘンリー・D・ソロー(1817年~1862年)と重なります。  ここで初日は打ち止め。この日のお宿は「あしずり温泉郷」でした。同宿者は4名。88歳のお元気なご老人は奥様の末期癌が見つかって以後3回目のお遍路だとか。私と同い年の方はリタイア後の生き方を考えるため。離婚を機会に自分を見つめなおそうとしていらっしゃる方もいました。四国お遍路の旅には、人それぞれの思いがあります。この日も美味しいお酒をいただきながら語り合いました。  二日目最初に向かったのは観自在寺でした。「観自在菩薩 行人般若波羅蜜多時....」で始まる般若心経を思います。山門の天井には十二支の方位盤があり、その真ん中に亀が配されています。十二支守り本尊が並ぶ仏像群の中から「丑寅とし 虚空蔵菩薩」を探してお参りをしました。一番札所・霊山寺からもっとも遠くにあり「四国霊場の裏関所」とも呼ばれています。この日は穏やかな春の日差しがまぶしいお参りでした。 龍光寺には山門がありません。鳥居をくぐると仁王像に代わって狛犬が迎えてくれました。境内には狐とお地蔵さんが仲良く並んでいて、仏と神が同居しています。それもそのはずです。明治の神仏分離令(廃仏毀釈令)によって、もとの本堂は稲荷神社となり、その神社の横に新しく本堂が建てられました。なんだか悲しい歴史を思います。帰り際には稲荷神社にもお参りをさせていただきました。  次に訪ねたのは佛木寺です。このお寺の鐘撞堂は立派な茅葺でした。本堂、大師堂などが整然と立ち並ぶ広々とした境内の隅に家畜堂があります。牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれ、かつては農耕を共にした家畜たちの安全祈願の場になっていたようですが、最近はペットなども含めて動物一般の霊を供養しているということでした。愛犬ゴンタのことを思って手を合わせました。   打ち止めは明石寺でした。ご本尊の千手観音菩薩像は渡来仏なのだそうです。案内板をみると、「本来の名は『あげいしじ』ですが、現在は『めいせきじ』と呼ばれています。土地の古老たちは、この寺を親しみを込め『あげいしさん』または『あげしさん』と呼んでいます。この『あげいし』という名はその昔若くて美しい女神が願をかけ、深夜に大石を山に運ぶうち、夜明けに驚き消え去ったという話を謳った御詠歌の「軽く上石」からついたと伝えられています」と記されていました。御詠歌のことは不勉強ですが、この明石寺の御詠歌は「聞くならく 千手のちかい ふしぎには 大盤石も かるくあげいし」とあります。日本むかしばなしのようなお話しです。  境内の裏山にある「しあわせ観音像」に皆で手を合わせて帰路につきました。身の丈2m、長い袂着物姿で左手に水瓶をもつ慈悲深いお顔の観音さまでした。 
 昨年7月から始まった八十八カ所遍路の旅も59カ寺を数え、あと29カ寺になりました。愛媛県6カ寺、香川県23カ寺です。結願までもう一息です。

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老いを愉しむ

2017-03-03 21:40:20 | 歩く

 旧暦では、草木が芽吹き始めるこの時季を、二節気「雨水」第六候「草木萌動」(そうもくほうどうす)と言いますが、我が家の庭でもライラックやカリンが芽吹き、アケビの蔓の先にはもう幼い花芽が顔を覗かせています。あと半月もすれば、もっと風景が変わるだろうと思うと、私の心も弾みます。きょう3月3日はお雛祭り。我が家で祝ったのは何年前だったことか。それでもこの時季になると、家内手づくりのお雛様がお目見えです。
 そんな明るい春の陽光につつまれた日曜日、電鉄会社主催のハイキングに参加してきました。JR西大路駅の近くにある唐崎西寺公園を出発して、羅生門跡→東寺→梅小路公園→島原大門→壬生寺→大極殿遣址道→大将軍八神社→平野神社→北野天満宮→首途八幡宮→白峯神宮→京都御所と歩いて鴨川河川敷にゴール。およそ13キロの道のりでした。途中、壬生寺にお参りしたり、北野天満宮の梅花を愛でたり。京の街角で茅葺屋根のお家を発見したりもしました。みんな思い思いに自分の足で歩く楽しいハイキングでした。あまりにも気持ちが良かったので、さらに三条大橋まで歩き、結局15キロほど歩いたことになります。
 ところで、昨秋から通い始めたカレッジも今月で前期が終わろうとしています。2月は「能楽入門」「能面の歴史と表情」「大阪が生んだ文学者たち」「水辺の中世史」「健康」など盛りだくさん。今週は「狂言入門」と「雅楽」と続きました。篳篥、龍笛、笙の実演もあり、なかでも笙の音色の美しさに聞き惚れました。
 これまで断片的に眺めてきた日本の芸能を、若干の専門性を交えて大学の先生から体系的に教えていただきました。先生からは著書のご紹介もいただき、ときどきクラス会という名の呑み会もあって(笑)、なんとも楽しい学びの場になっています。今月は家内を誘ってお能と雅楽の鑑賞に出かけようと思っています。
 その一方で、ヘンリー・D・ソローに対する関心も深まるばかりです。これまでつまみ食いをしてきた「森の生活」も最初からきちんと再読です。アマゾンから届いたばかりの「ウォーキング」は、なんとも詩的な文体で、数頁読んではその風景を思い浮かべたり考え込んだりしながら、硬直した脳ミソを解きほぐしていきます。ソローの言うところの「野生」への回帰なのかもしれません。少し拾い読みをしてみると、

〇私は人生において「歩く」とか「散歩」の術を理解している人にはほんのひとりかふたりしか出会ったことがありません。こういう人はいわばさすらう才能をもっているのでした。
〇一日に少なくとも四時間、ふつうは四時間以上、森を通り丘や草原を越え、世間の約束ごとから完全に解放されて歩きまわることなしには、自分の健康と精神を保つことができない、と私は思っています。
〇どちらへ歩いていこうか決めるのがかなり難しいときがあるのですが、なぜでしょうか。「自然」の中には微妙な磁力があると私は思っています。知らず知らずそれに従うなら、ふさわしい方向に導いてくれるでしょう。
 ウォールデン湖畔に「幅10フィート、奥行き15フィート、柱の高さ8フィート」の家をつくり、2年間にわたって自給自足生活をしたソローを、私は当初、変人、世捨て人のように受け止めたこともありました。でも、よく読んでいくと決してそうではありません。人間の生きざまを極めて冷静に見つめています。モノが溢れた時代に、ある種の警鐘を鳴らしています。生きることの本質を示唆しています。時代の流れに踊らされることなく、ひとつひとつの言葉を噛みしめていく。今の私にとって「歩く」ことは「生きる」ことでもあるような気がします。
 私が長い間拘り続けている南方熊楠とグレン・グールドとソローの接点を見出したことも収穫でした。お二人ともソローの「森の生活」に少なからず影響を受けていることが分かりました。もうひとつの共通項が、鴨長明の「方丈記」です。一人は生物学者であり民族学者でもあります。もう一人は稀有なピアニストです。私は、そこに弘法大師空海を加えたいところですが、それは独りよがりなのかもしれません。

追記
 3月3日は「耳の日」でもあります。きょうは、先日受けた特定健診で聴力検査に黄色信号がついたので、近くの大学病院に行ってきました。ついでにちょっと気になっていた眼科の精密検査も受けてきました。結果は加齢によるものでしたが、白内障(初期)のお土産をいただいて帰りました。まだまだ元気ですが、老いは少しずつ進んでいます。でも、命果てるまでの間に、もう少し老いを愉しみたいと思っていますよ(笑)。

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