心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

アナログとデジタル(続)

2014-10-26 00:18:25 | Weblog

 久しぶりに「日本の七十二候」を開くと、第五十二候 霜降 初候 「霜始降」とあります。霜が初めて降りる意味だそうです。厳しくも美しい晩秋の初霜でしょうか。都会にいるとそんな感覚はありませんが、先週兄の三回忌で田舎に帰ったとき、早朝の気温が3度と聞いて納得した次第です。
 いつものように途中で姉夫婦らと温泉宿に立ち寄りました。肌にまとわりつく透明な泉質(単純アルカリ泉)が、私たち夫婦のお気に入りです。夕食前のひととき宿の周囲を散策していると、八重の秋明菊を見つけました。野生?いやいや、これは人為的に移植したんでしょうよ。おそらく。床の間にも添えてありました。
 話はがらりと変わりますが、おととい仕事帰りに駅前のヨドバシカメラに寄って、PCオーディオ用のUSBケーブルを買って帰りました。パソコンとDAC(デジタルをアナログに変換するコンバーター)を繫ぐものです。70センチほどの電線が5700円。高いと思いましたが、陳列棚には数万円もするものもありました。帰宅して、DAC付属のケーブルと取り換えて驚きました。がさつきが気になっていた音が、なんと汚れのない素直な音に変わりました。この音であのお値段なら文句は言えません。
 家内から思い切って買い換えたらというお話しもいただきますが、今ある装置に少しずつ手を加えながら音の変化を楽しむのも良いものです。ちょうど今、ラザール・ベルマンのLP「カーネギーホール・コンサート」(2枚組)を聴きながらデジタル音源に変換中です。
 さて、きのうは京都国立博物館で開催中の「国宝鳥獣戯画と高山寺」展に行ってきました。京都国立博物館を訪れたのは、そう、2001年の特別展覧会「ヒューマン・イメージ」以来です。朝10時に家を出ると11時15分過ぎに到着しました。が、構内に入って驚きました。土曜日ということもあって長蛇の列です。最後尾のプラカードの所に並ぶと90分待ちのアナウンス。う~ん。でも、辛抱しました。その間、塩野七生さんの「ローマ人の物語」(35巻)を読み終えました。ディオクレティアヌス帝が退位した西暦300年当時のローマ帝国の世界にのめり込んでいました。
 長い長い行列を終えて、やっと館内に入れたのは午後1時前でした。途端にローマ帝国の「石」の世界から、中世日本の「紙」の世界に場面が変わります。平安、鎌倉時代の1200年の頃の、紙に書かれた文字が目の前に広がります。文書の意味は判りませんが、現代科学の粋を集めて施された保存技術によって、紙と墨の文化が一千年後の今に浮かび上がってきます。
 ふと思いました。現代の「心」は一千年後にはどういう形で残るのだろうかと。紙に文字を書く習慣が廃れ、文書の大半がデジタル媒体としてPCの中に蓄積されていく。目の前の「形」が数字の羅列に置き換えられ、「形」から「心」を読み解くことが難しくなった。停電によって一瞬のうちにパソコンのデータが消去されてしまうことだってある。
 モノとしての文字と情報としての文字。ディオクレティアヌス帝が2千年前に発令した価格統制勅令は石板に刻まれて、今日に伝えています。2千年という時間軸を思うと、現代のパソコンなんてどうなっているかさえ判らない.....。そんなことを考えていると眠れなくなってしまいます。
 そして、なによりも驚いたのは、平安、鎌倉時代の人々の「遊び心」でした。鳥獣戯画、正確には鳥獣人物戯画というのだそうです。動物たちの生き生きとした姿。兎組と蛙組が争う賭弓の儀式、蛙の田楽踊り、兎と蛙の相撲、........。こういう滑稽さ、明るさ、心の豊かさ。そして当時の人々の屈託のなさ。暗闇に浮かぶ墨絵の世界から、当時の人々の生き生きした姿、心が浮かび上がってきました。
 大きな課題をいただいて博物館を跡にしました。ちょうどこの日に発売された「芸術新潮」今号の特集は「大人の修学旅行は、京都国立博物館で。」でした。

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秋の「古本祭」

2014-10-12 08:56:49 | 古本フェア

 強烈に強い台風19号が本土上陸を伺っています。でも、ここ大阪は、いくぶん風音が目立ってきたものの、秋の肌寒さを感じる程度です。台風がやってくるまでに庭の掃除でもすませておきましょう。
 夏を挟んで横道に逸れていた私の読書遍歴、ふたたび塩野七生さんの「ローマ人の物語」に舞い戻ってきました。先週半ばから読みかけの第34巻「迷走する帝国(下)」を手にとり、きのう読み終えました。いよいよ、ユダヤ教から独立したキリスト教がローマ帝国に定着していく時代に入っていきます。さっそく本屋さんに走って、「最後の努力」の上・中・下の3巻を買ってきました。塩野さんの歴史観にふれながら、全43巻を読み切るのは年末?浮気心いっぱいの私ですから、年を越すかもしれません。このブログで探してみると、2006年に17巻「悪名高き皇帝たち」にふれていますから、第1巻「ローマは1日にしてならず」を起点にすれば、10数年をかけて、その時々の現実社会に翻弄されながら読み進んでいることになります。
 そんな秋の3連休ですが、昨日は朝から関西古書研究会共催の「四天王寺秋の大古本祭り」に行ってきました。今年のテーマは「”明治”日本を知るには、明治が最高!」です。遠くにアベノハルカスが見える四天王寺さんには、今年も多くの古書店が出店していました。9時過ぎに家を出て10時半に境内に到着、古本の量に圧倒されながら各店舗を回っていたら12時半を過ぎていました。新刊書店のようにテーマごとに本が並べてあるわけでもありませんから、選書も時間がかかります。そんな本の山からお目当ての本を探すのは大変です。お目当ての鶴見和子曼荼羅は見つかりませんでしたが、小泉八雲の「日本瞥見記」(上下)を見つけることができました。
 実はこの日は、古本祭のハシゴをしました。同じ日程で大阪天満宮境内で大阪古書研究会主催「天神さんの古本祭り」を開催しています。地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ケ丘駅から南森町駅に向かいました。駅を降りて地上に上がると、日本一長い「天神橋筋商店街」を歩いて天満宮をめざしました。出店数は四天王寺さんの3分の1程度ですが、私の関心を誘う本が多かった、というよりも量が少ないので目移りしなかった?のかもしれません。ここでも1時間あまり見て回り、アンドルー・カズディン著「グレン・グールド アットワーク」、吉田秀和著「新・音楽展望」、ウォルター・ワンゲリン著「小説”聖書”」、そして「アンネの日記」をご購入でありました。四天王寺さんも、天神さんも15日までの予定でしたが、台風の影響もあって今日12日までに短縮されるようです。
 当分は積読ことになりますが、昨夜は遅くまで「日本瞥見記」を眺めておりました。本を読む時間がほしい!でも、目の前に自由な時間をたっぷり差し出されると、それはそれで困ってしまうかもしれません。でも、何歳になっても好奇心だけは旺盛な初老としては、まんざらでもないかもしれません。晴耕雨読、私の理想郷です。(笑)

 昨日、家内から京都国立博物館の特別展覧会「国宝鳥獣戯画と高山寺」のチケットをいただいたので、台風の様子をみながら可能なら明日でかけようと思っています。そして週末は兄の三回忌法要のため田舎に1泊2日の小旅行です。よって来週のブログ更新はお休みになります。きょうは館野泉さんのピアノで、セヴラックの「ひまわりの海」を聴きながらのブログ更新でした......。

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秋明菊の花言葉は「忍耐」

2014-10-05 08:54:53 | Weblog

 台風18号が本土上陸を狙っています。でも、きのうの夕焼けは、街全体が茜色に染まり、秋の深まりを感じさせました。庭の片隅には、秋明菊(シュウメイギク)がひっそりと花開いています。花言葉は「忍耐」です。夏の初めに売れ残った苗がタダ同然に並べてあったものを植えてみましたが、なんとか育ってくれました。
 そういえば昨日、秋茄子を2個収穫しました。夏の終わりに切り戻しをしておいた株に、その後花芽が出来て小さな実をつけていたのです。昨夜は焼き茄子にしてただきましたが、それはそれは美味しいものでありました。
 「秋茄子嫁に食わすな」という諺があります。広辞苑によれば、秋茄子は「身体を冷やすから」あるいは「種子が少なくて子種がないと困るから」大事な嫁に食わすな、という嫁を労わる意味もあれば、逆に「種子が多くて妊みやすいから」あるいは「こんなにうまいのだから」憎い嫁に食わすな、といった意味もあるのだとか。言葉が、「使う人」あるいは「使われる場」によって正反対の意味を内包していることの不思議、人の世の複雑さを思います。
 さて、先週は中国研究をご専門とされる方と一献傾けました。話題はもっぱら香港のことでした。多様性の時代に、一党独裁の巨大国家が制度疲労を起こしています。表向き異なる政治体制を保証するかのごときトリックを弄んでいるとしか言いようのない国の運営に首を傾げます。
 2千年の歴史を謳歌した古代ローマ帝国を支えたのは、「多様性」に象徴される国体でした。しかし、多神教から一神教へと動く歴史の流れのなかで、滅びて行きました。一見矛盾するかようにみえますが、決してそうではありません。一定の緊張感をもった関係性の中で、人は自律的にものを考え、判断し、行動していきます。持続可能性を現実のものにしていくことができます。
 初期の段階ならば国造りのためにエネルギーを集中させる一党独裁もそれなりの機能を果たすでしょう。でも、国の黎明期にあって多様性を拒否し、独裁の道を選択すれば、必ずや組織の硬直が肥大化します。思考停止がすすみ、賄賂の文化が蔓延します。
 香港の政情は予断を許さない状況にあります。巨大国家・中国に対峙するデモ隊(個)は無力でしかありません。にもかかわらず、何もしないではいられない若者たちは立ちあがった。その心が痛いほど伝わってきます。40年も前の日本の学生運動とは若者が置かれている環境が全く違います。もっともっと切実なものを彼らは感じ取っているからこそ、動いたのです。こうして外野席から評論家のようなことを綴っている私自身の不甲斐なさを思わざるをえません。
 先週は、小学1年生の孫長男君の空手の試合を見に行きました。いつも甘えている孫君ですが、試合場に上がると、なんと凛々しいことか。型が型らしく見えます。親馬鹿ならぬ爺馬鹿でしょうか。つぎに浮かんできた言葉、それは「守破離」でした。先行き不透明な時代環境の中にあって、国体にも組織にも「守破離」の姿勢が求められているのかもしれません。その意味での強かさが必要なんだろうと、今日は旧約聖書に因んだ「エレミアの哀歌」を聴きながらのブログ更新となりました。

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