心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

ニッパー君との出会い

2006-09-24 15:31:38 | Weblog
 きのうは午後、京都にお出かけでした。秋の陽にちょっぴり汗ばみながら、それでも時々ひんやりとした微風が肌を覆う、なんとも京都らしい空気を楽しみました。夕刻上演される演劇を観るのが目的でしたが、久しぶりなので少し早い目に京都入り。街並みを散策しながら府立文化芸術会館に向かいました。
 まず立ち寄ったのは、河原町のジュンク堂書店。以前、丸善書店が入っていたところ。そこで、どういうわけか、岩波新書「丸山眞男~リベラリストの肖像」を手にして、書店の喫茶コーナーでじっくり1時間読書。どうも学生時代の癖が抜けません。少し頭を冷やそうと、ぶらぶら歩いていくと、JEUGIA三条本店で足が止まりました。ちょっと寄り道して、3階のクラシックとジャズのコーナーへ。若い店員さんがやってきて、「6階でクラシック・ジャズ輸入盤決算バーゲンをやっています」とご案内。じゃあというわけで会場を覗いてみると、会場の一画に中古レコードコーナーがあって、ものによっては大阪よりも格安の品がちらほら。端から端までぜ~んぶチェックして5枚ほどゲット。気分を良くして河原町通りを北にむかって歩き出しました。
 学生時代には、この河原町通りに市電が走っていました。今では市バスが市民の足になっています。最近、再び路面電車が見直されていますから、京都も復活してほしいなぁと思いながら、京都市役所前を通り過ぎ、そして...。と、そのとき、小さなアンティークショップのショーウインドウから私を見つめているものがありました。足を止めると「ニッパー犬」でした。そう、このブログでも一度ご紹介したことがありますが、レコードのレーベルに印刷されているビクターマークのニッパー君でした。で、連れて帰ってきました。
 というわけで、会場に到着したのは開演10分前。ほぼ満席の観客を前に定刻の5時に始まりました。作品は、ベルトルト・ブレヒト没後50年に寄せて、彼の作品「コーカサスの白墨の輪」。演劇なんて観ることはほとんどなく、昨年の秋にひょんなことから東京上野の博物館で観劇した三島由紀夫の『サド侯爵夫人』以来でした。演劇というと、舞台での大仰な表現に少し戸惑うことが多いのですが、今回は、シナリオの進行に並行して歌のナレーションと古楽器の演奏が流れ、自然に惹きこまれていく感じで、素人のわたしにも楽しめました。全体を流れるテーマは「親と子の絆とは」。最近の世相を思うと考えさせられることが多く、3時間という時間があっという間に過ぎていきました。...長い1日でしたが、私の「こころ」を和ませてくれた京都散策でありました。

《ご参考》
ビクターマーク。ニッパー君のご紹介は以下のサイトに詳しく紹介されています。
http://www.jvc-victor.co.jp/company/profile/nipper.html
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「故郷70年」

2006-09-17 14:16:03 | Weblog
 台風が近づいているからなのでしょうか。真っ青な秋空が印象的です。遠くの山肌が近くに見えるのも、淀んだ空気を台風の余波がどこかにもっていってくれたからなのでしょう。そんな、気持ちの良い朝を愛犬ゴンタとお散歩でした。でも、午後からは、なんだか雲行きが怪しそう。珍しく、松下眞一作詞作曲の交響幻想曲「淀川」を聴きながらのブログ更新です。
 きょうと明日は連休です。今週末もまたまた連休です。そして10月の第2週にも連休があります。といっても、今週はなにやかやとゴソゴソする毎日。来週のお休みには、知人がプロデュースしたブレヒト作の演劇に招待されているので、そちらに顔を出す予定。10月の連休は、とうとう息子の結婚式を迎えます。まぁ、それとなく忙しくも楽しい日々を過ごしているということなのでしょう。
 ところで、きのう帰宅途中に立ち寄った古書店で、柳田國男著「故郷70年」を見つけました。今年の初め、NHKテレビの「知るを楽しむ」シリーズで、白洲正子さんに次いで紹介された柳田國男のひととなりを興味深く学んだのですが、そのなかにこの「故郷70年」の内容が引用されていました。神戸新聞に連載されたものを一冊の本にまとめたもので、発行は昭和34年11月20日。定価550円とあります。ほぼ同じ値段で手にしました。集中して読み込むというよりも、ぱらぱらとめくりながら走馬灯のように映ろう、明治・大正期の播州・辻川と利根川沿いの布川の風景を追いました。そして人の心を思いました。1日中、土蔵のなかの書物に向き合った場面などは、わたしにも共通の体験があります。部屋の壁すべてが本棚という8畳ほどの部屋で、祖父が所蔵していた書籍に囲まれて過ごした日々を思い出したものです。
 と、そんな贅沢な時間を過ごしていると、急に電話がかかってきました。「○○さんからお電話よ」と。○○君?誰だろう?「もしもし...」。そう、ずいぶん昔の旧友からの電話でした。田舎の中学校を卒業して今年で40年を迎えるのだそうです。同窓会をやるから是非帰ってきてくれと。A君、Bさん、旧姓C君、旧姓Dさん...。懐かしい名前がどんどん登場します。あれから40年、みなそれぞれの道を歩みました。多くの者が田舎を後にするなかで、彼ら彼女らは大学を卒業すると地元に戻り、親の跡を継いだ。そして立派に家を継いだ。土地と生活の場が昔ほどに緊密ではなくなってしまった現代社会で、根無し草のように放浪するかのような自らの生きざまを思うと、何かしら落ち着きのなさを感じたものです。
 そんな電話と柳田國男の世界が妙につながって、単なる懐かしさではなく、何かしら怖さのようなもの、自らの存在自体を説明できないもどかしさのようなものを感じました。何か不思議な心の動きを思いました。....でも、友人との電話は延々と続きました。楽しい時間を過ごしました。秋だから、よけに感傷的な思いに駆られるのでしょうか。
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DVD歌劇「フィデーリオ」

2006-09-10 10:33:07 | Weblog
 ときどき小雨がぱらぱらと舞う、そんな初秋の休日の朝を迎えました。花壇を覗くと、1週間ほど前に株を切り戻しておいたハーブの根元に、淡緑の若葉が見えます。暑い夏を乗り越えてくれた証です。一見か弱く見える植物の生命力を思ったものです。
 さて、この夏は塩野七生さんの「ローマ人の物語」をずいぶん楽しみました。「悪名高き皇帝たち」が文庫本で4冊、それに「危機と克服」が3冊。お休みの日には長椅子に座って、ときには大きな氷を浮かべたハーブ酒を楽しみながら、二千年も昔の広大なローマ帝国の歴史を映画でも見るかのように読み耽りました。カエサルが暗殺され、アウグストゥスが初代皇帝に就いてから13代皇帝トライアヌスに至る100年余りの間、基礎固めに翻弄したり、ときには1年に3人もの皇帝が入れ替わる権力争いが繰り広げられたり、また混乱に乗じて西に東に反ローマの動きが広がったり.....。しかし、それをなんとか乗り越えた時代でもありました。ちょうど読み終わった頃、こんどは「賢帝の世紀」が文庫本として出版されましたが、さすがに9月に入ると時間と心のゆとりがありません。来年の夏までお預けです。
 そんな初秋の土曜日、仕事帰りに中古レコード店に立ち寄りました。が、入り口にあったDVD歌劇「フィデーリオ」が気になりました。ベートーベンが作曲した唯一の歌劇「フィデーリオ」です。時代は18世紀、舞台はスペインの国事犯監獄。その所長ピツァロは政敵フローレスターンを不当にも密かに収監していた。最愛の夫フローレスターンを助け出そうと妻レオノーレが男装してフィデーリオと名乗り、看守ロッコの手伝いをしながら機会を窺っている。そこに、密書により不審に思った大臣が視察にやって来ることになる。所長ピツァロは、不当監禁の発覚を恐れ、政敵フローレスターン殺害を決める。暗い地下室で墓堀をさせられた看守ロッコとフィデーリオを前にして襲いかかろうとするその瞬間に、フィデーリオが素性を明かし、我が身を犠牲にして夫を守ろうとする。運良く、ちょうどその時、大臣が到着する。めでたくフローレスターンは自由の身となり、明るい陽の下でフィデーリオと抱き合う。...ざっと、こんなシナリオです。
 このDVDに惹かれたのは、このオペラが上演された劇場が南フランスのオランジュ古代劇場だったからです。今は世界遺産のひとつとなっている古代ローマの劇場だったからです。1977年の上演で、以前からライブ版を探していたのですが、手にしたのは一時流行ったオペラ映画です。その分、臨場感に欠けるのですが、ローマ漬けの夏の締めくくりに相応しいものとなりました。1幕、2幕の監獄の薄暗さから一転して、第3幕は南フランスの太陽が降り注ぐオランジュの舞台で出演者全員が舞台衣装を脱ぎ普段着で晴れやかに終曲の合唱を歌う。これは映画ならではの意外性なのかもしれません。指揮はズービン・メータ、フィデーリオはグンドゥラ・ヤノヴィッツ、フローレスターンはジョン・ヴィッカーズが務めました。
 さぁ、これで、私の「夏」はおしまいです。当分の間、ローマともお別れして現実の世界に戻りましょう。でも、塩野さんの歴史小説から大きなお土産をいただいたような気がしています。
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狸さんの交通事故に思う

2006-09-03 16:32:10 | Weblog
 空気が澄んで見えます。遠くの山肌もいつになく緑が映えて見えます。空の青さも美しく、処暑というドアを開いた途端に秋の風情を感じる、なんとも心地よい休日の朝を迎えました。
 でも、可愛そうな出来事がありました。昨年の秋にも「狸さんと人間圏」と題してご紹介したことがありますが、狸さんの交通事故が起きてしまいました。今朝、愛犬ゴンタと散歩をしていると、街路樹の下に獣臭を感じて目をやると、狸さんの可愛そうな姿がありました。わたしが住む街は、高度成長期の少し前ごろ、大きな里山を造成してつくられた街です。引っ越して来た頃に残っていた里山も、いまではほぼ完全に姿を消し、ほんの数箇所に、その面影を残す所があるのみです。それでも狸さんは家族揃ってよく頑張って生きてきました。夜遅くバス停から我が家に向かう途中、ときどき狸さんの親子に出くわすことがありました。何を食べて生きているのだろうと思いながらも、毎年のように子狸の姿を見かけましたから、それなりの生活はできているのでしょう。でも、車には適いません。ちょうどカーブに差し掛ったところですから、何十キロというスピードで我がもの顔に走る鉄の固まりには、なす術もなかったのです。おそらく、一人で歩いていての遭遇ではなかったと思います。あまりにも急な出来事に、家族たちは泣く泣く最後のお別れをして草むらに帰っていったのでしょう。本当にかわいそうなことをしました。
 ところで昨日、仕事の関係で新聞記者の方とお話しする機会がありました。たまたま彼女の上司と懇意にしている関係もあって、なにやかやとお話しができました。でも、話題はどうしても最近の社会の有様に及びます。みんなが「なにか変?」と思っているのに、適切な手が打てないまま状況は悪化の一途をたどっています。惨たらしい事件の多発を嘆くのは簡単でも、では再発防止に向けてどんな行動を取るべきかを考えようとすると、政党の数だけ話が拡散してしまう。「なにか変」。問題は、わたしたち大人が、次代を担う子供たちに「夢」を提示できていないことに尽きる。生きることの楽しさと知的好奇心を伝えているか。大人自身が「夢」を見失ってはいないか。自信を見失ってはいないか。....なぜか、昨夜彼女と話していた場面が頭に浮かんできました。非常に大切な視点をいただいたような気がします。目先の利益に目を奪われることなく、狸さんと人間の共生、人間と地球との共生といった、もう少し広い視点からものごとを見つめることの大切さに気づいたものです。
 きょうは午後、オックスフォードのニュー・カレッジ・チャペルで録音されたCD「エレミアの哀歌」「アヴェ・マリア」を聴きながらブログ更新を行いました。
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