心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

オスカー・ピーターソンに感謝

2007-12-30 09:24:37 | Weblog
 昨日は、雨の一日でした。そのためか妙に真剣に今年1年を振り返る時間をいただいたような、そんな年末休暇を過ごしました。そして今日は、朝から青空が広がっていますが、しかし年末寒波の到来なんでしょうか。北風が舞うなかを愛犬ゴンタとお散歩をしてきました。公私ともに慌ただしい1年が、幕を閉じようとしています。
 ところで、今週の25日、職場の食堂でいつもどおりワイワイがやがやと昼食をとっているとき、遠くにあるテレビ画面にオスカー・ピーターソンがピアノを弾いている姿が目にとまりました。コンサートでもするのかしらと、ぼんやり考えながら、すぐにみんなの輪の中に戻っていったのですが、帰宅して夕刊をみて驚きました。ジャズピアノ界の巨匠『オスカー・ピーターソンさん死去』の見出しが躍っていました。
 実は、先週の23日に、わたしは久しぶりにオスカー・ピーターソンが聴きたくなって、ソロ・アルバムのLPを聴いたばかりでした。「やさしき伴侶を」「身も心も」「A列車で行こう」.....。虫の知らせだったんでしょうか。彼がカナダ・トロントの自宅で亡くなったのは、その23日だったと新聞は報じています。
 ジャズにのめりこんでいるわけではないのですが、不思議なことにジャズピアノのLPとCDが、棚に並んでいます。人間って面白いもので、時に自分の『論理』を壊したくなるものらしく、わたしも、すべてをデフォルトしてしまいたいという思いに駆られることがあります。混沌として出口が見えない隘路のなかで、もがき、不安に苛まれる。そんなときに、わたしの心に「やすらぎ」と「勇気」を与えてくれるのがピーターソンでした。何も考えず、ただ、ぼんやりと音の渦の中に身をおいて、硬直した脳みそを物理的な音の振動に晒す。すると、いつの間にか、見失いかけていた出口がぼんやり見えてくることがある。以前にも書いたかもしれませんが、わたしにとってジャズは「座禅」のようなもの。ピーターソンとは、そんなお付き合いをさせていただきました。感謝です。
 さて、このブログの更新も、今年最後になりました。いつも「いったい誰に向って語りかけているの?」と自問しながら、今年も性懲りもなく、「心」の風景を綴ってきました。そんなブログをご覧いただきました方々、そしてコメントをいただきました方々には、この場をお借りして厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。本来なら、もっと踏み込んでお話ができればと思いますが、スパムメールまがいのコメントをいただくようになって以後、少しコメント反映の制限をさせていただく失礼をしております。申し訳ありません。ネット社会の光と影を思い、一抹の寂しさを感じながら、しかし時代の進展を見つめていきたいと思っております。
 最後になりましたが、皆様には、どうか良いお正月をお迎えになりますように。 
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クリスマス・イブ、仕事納め、そして休暇

2007-12-23 09:30:58 | Weblog
 昨夜遅く、ほろ酔い気分で帰宅すると、オーストラリアのパースで暮らす姪からクリスマス・カードが届いていました。そう、クリスマスなのです。夫婦二人暮らしの我が家には、いま、昔と違って手のひらに乗るほど小さなクリスマス・ツリーが飾ってあります。明日は、愛犬ゴンタと3人で楽しめる程度のかわいいクリスマス・ケーキを買ってくることにしましょう。
 ところで、我が家のもう一組の住人である亀五郎夫妻は、とっくに冬眠体制に入っています。飼育箱に庭の落ち葉をたくさん入れてあげました。その横で、ヒーター付き豪邸住まいの熱帯魚さんは、悠々自適の毎日です。3匹とも南米アマゾン産で、セルフィン・プレコ、アストロノータス、別名オスカー、そしてゴールデン・セベラムの三種ですが、プレコはすでに30㌢級で我が家の主(写真中央)。みんな食欲旺盛ですが、なかでもオスカーは大食漢で、写真撮影中も食事に忙しくて画面に登場しておりません。いずれにしても、みんな揃って健康に過ごせたのですから、今年は良い1年であったということなんでしょう。
 今年もあと数日、仕事納めも間近に迫りました。頑張ったこと、やり残したこと、いろいろあります。でも、例年になく年越しの案件が多かったようで、超整理手帳を開くと既に1月の予定がびっしり書き込まれています。これでは、お正月もゆっくりしておれない気持ちになってしまいますが、ここは割り切っていきましょう。これ以上、仕事とお付き合いをしたら、ほんとうに病気になってしまいますから。
 で、のん気に年末年始休暇の過ごし方を考えてみるのですが、まずは年賀状の作成。これはこの連休に片付けましょう。あとは、この1年間に買い漁ったLPレコードの整理がまったく手つかずの状態なので、この整理に1日。部屋の掃除に1日。庭の掃除に1日。子供や孫が帰って来るまでに、ここまでは終えておきたい。そのあとは御屠蘇気分で過ごす毎日としたい。......と考えながら、明日は、クリスマス・イブ。街に出かけてLPレコードやCDを物色しよう。オーディオショップやPCショップも覗いてみたい。書店にも立ち寄って来よう。もう、初っ端から浮気心です。まぁ、これが休日なんでしょう。整理手帳は机の中に仕舞い込んで、行き当たりばったりの日々を楽しむことにします。(^^♪
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いろいろなマネジメント

2007-12-16 10:28:17 | Weblog
 先週の日曜日は神戸に出かけて潰れました。その後、1泊2日の出張を2回こなして、やっと迎えた日曜日。なんだかほっとした時間を過ごしています。部屋の窓をあけると、ひんやりとした空気。暖房が必要になりました。きょうは、クリスマスも近いことだからと、久しぶりにアンドレア・ボチェッリ(テノール)のCD「セイクリッド・アリアズ」を聴きながら、更新作業をしています。
 ところで、先週は、いろいろ考えさせられたことがありました。ひとつ目は男女雇用機会均等法のこと。週の初めに、関係機関のヒアリングがありました。法改正に関連しての一般的な実態調査で、特段のご指摘はなかったものの、たくさんの課題を認識できて有意義でした。週の半ばには、女性の方から深刻なご相談を受けました。じっくりとお話を伺いました。対応の難しさを感じながら、しかし働きやすい職場をめざさなければなりません。そうこうしているうちに週末を迎え、今度はお付き合いで夜の街に。そこでは、いかにもわたしは女性ですと言わんばかりの方々がやってくる。何度行っても馴染めないお店でした。ふだん、頭の片隅でダイバーシティ・マネジメントを意識しているわたしにとっては、限界の極みです。 
 ふたつ目は、駐大阪・神戸米国総領事のダニエルR・ラッセルさんのご講演です。とある会合で「国際貢献と日米同盟」というテーマでお話をうかがいました。そのなかで、ハードパワーとソフトパワーという耳慣れない言葉に接しました。どうやら、国際政治に関する言葉のようで、ハード・パワーが軍事力や経済力といった対外的な強制力であるのに対して、「ソフト・パワー」とは、「その国が有する文化、政治的価値観、政策の魅力などに対する支持や理解、共感を得ることによって、国際社会からの信頼や、発言力を獲得し得る力」、これがソフトパワーなのだそうです。現在の複雑な国際政治の世界では、単なる強制ではなく、相手国の自律・主体的な行動に問題解決の糸口を見つけるべきであり、日本も固有の文化・価値観に自信をもって政策判断をすべき、というご主張のようでした。で、ふと思ったのは、以前、このブログでも紹介した鶴見和子さんの「内発的発展論」のことでした。結局、こうした概念は、国際政治だけでなく日頃の組織マネジメントの世界にも通用するものなんだと改めて思ったものです。
 きょうは、ちょっぴり先週の仕事をひきずった内容になってしまいました。今週は忘年会(懇親会)が3回あります。このまま、慌ただしく年末を迎えそうです。
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それぞれの晩秋

2007-12-09 23:50:19 | Weblog
 通勤途上の公園に聳える一本の銀杏の樹が、きれいに黄色に染まります。でも、次の朝には、地面いっぱいに黄色い葉っぱが敷きつめられて、銀杏の葉っぱの一生は終わります。その落差に、いつも心が痛みます。手許に「葉っぱのフレディ」というCDがあります。大きな樹の1枚の葉っぱの生涯をメルヘンチックに綴ったものですが、「こころ」が萎えているときには、わたしのような大の大人でも、感動をもって聴くことができます。
 いずれにしても、「落葉」の儚さは、桜花とは違う意味で、ずきんと心に迫ってくるものがあります。その落差が嫌だから、わたしは小さいときから、楽しいときも目いっぱい楽しもうという気持ちにはなれなかった。この卑屈さが今もわたしの心の奥底に巣食っています。幼少の頃、わたしは企業戦士だった父親と離れ、母親と兄弟と田舎で暮らすようになりました。妻子は仕事には足手まといだったのでしょう。そのぶん、お正月や5月の連休や、我が家の守護神を祭る夏祭・秋祭には、1週間ほど休暇をとって帰ってくる父を、わたしは、指折り数えて待っていました。帰ってくると、それまでの出来事を報告し、父親の意見を求めました。父も真剣に聞いてくれましたから、ほんとうに楽しいひと時でした。でも、そんな楽しいひと時も、1週間ほどで終わる。その落差が怖くなって、ある時期から、再開の喜びを自制するようになりました。別れの落差が怖かったからです。
 ふと、思います。銀杏の葉っぱの落葉も同じなのです。まっ黄色に染まった美しい紅葉が、この激動の1年を思わせます。でも、次の一瞬に、さあっと落葉してしまう。わたしの、この1年っていったい何だったんだろうかと、急に寂しくなってしまいます。そう、秋の儚さを実感する瞬間です。楽しいことと、寂しいことの落差、そのあまりにも大きな落差に、わたしは耐えられない。いつまでも、大人に成りきれない、わたしが、そこにいます。
 きょうは、めずらしく日曜日の夜の更新作業になりました。家内と二人、神戸界隈を散策したあと、「神戸ルミナリエ」を見学して、さきほど帰宅したところです。特設サイトには、「阪神・淡路大震災犠牲者の鎮魂の意を込め、都市の復興・再生への夢と希望を託し、大震災の起こった1995年の12月に初めて開催しました。以来、神戸ルミナリエは震災の記憶を語り継ぎ、都市と市民の希望を象徴する行事として、毎年開催しています」と、紹介されています。暗闇に浮かぶ光の芸術を堪能してきました。と同時に、「生きる」ことの意味を考えました。
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「こころ」の棚卸

2007-12-02 10:44:59 | Weblog
 1か月ほど実家に帰っていた長女が、きのう初孫を連れて自宅に戻りました。そのためか、きょう日曜日の朝は、静かな空気が我が家に漂っています。晩秋の明るい陽光が、私の部屋に静かに差し込みます。目の前の梢では、シジュウカラが慌ただしく飛び交っています。どこからか犬の鳴き声が聞こえてきます。ほんとうに静かな朝です。そんな朝の空気のなかに、グレン・グールド奏でるバッハ「イギリス組曲」が静かに溶け込んでいます。
 ここ一か月、子育て指導に明け暮れた家内も、やっと平常に戻って、ほっとしたり、急に寂しくなったり。複雑な気持ちなんでしょうが、これも致し方ありません。それを察してか、遠くにいる子供たちから久しぶりに電話があります。それぞれに母親を思う気持ちが伝わってくるので、わたしとしては、子供たちの優しさに安堵しています。
 それにしても、初孫と暮らした1か月、子供の成長の早さを改めて思いました。生まれて1週間ほどで我が家にやってきた時に比べると、ずいぶん大きくなったし、表情も豊かになったし、何よりも目が透き通って見えるようになるから本当に不思議です。これから、80年も90年も生きていくことを考えると、不確実な社会を生き抜いていく「強かさ」と「温かい心」を身につけて大きく育ってほしいと願っています。
 さて、ことしも、いつの間にか師走を迎えました。帰宅途中に商店街を通っていくと、いたるところにクリスマスの飾りつけがあります。年末商戦の籤引会場や、年末宝くじ売り場には人の列です。そんな人ごみを避けて、少し足を延ばしてLPレコードショップに立ち寄って帰りました。そこで見つけたレコードに、オットー・クレンペラー指揮のマラー作曲交響曲第4番があります。第4楽章の歌曲を歌うのは昨年亡くなったエリザベート・シュワルツコップです。実はこれ、わたしが初めて手にしたレコードで、手許にあるものはずいぶん聴きましたら摩耗が激しく、探していたものでした。それほどに、クレンペラーの第4は、わたしにとっては思い入れのあるものでした。およそ半世紀前の1961年4月にロンドンで録音されたものです。
 十数万年前、原人から別れてヒトが誕生したといわれます。それを思うと、50年、100年なんてほんの一瞬の出来事でしかない。そのひとつひとつを繋いでいくものは何か。ある種普遍的な「こころ」のあり様を、わたしたちは忘れてはならないのだろうと、最近多発する悲惨な事件に接して思う、今日この頃です。年末を迎えて、そろそろ「こころ」の棚卸をしなければ。
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