心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

2+1の「ローマ人の物語」

2009-10-25 10:09:39 | Weblog
 午前5時50分。震度1。震源地は京都府南部。今朝は地震で目覚めました。地面が揺れることを体感すると、人間が地球という惑星に生きていることを実感します。と同時に、宇宙という得体のしれない空間のなかで、悲喜こもごもの人生を送っている人間様の不思議も、また思います。
 さて、きのうの土曜日は、大阪の母なる淀川のお掃除ボランティアに参加しました。軍手をはめて、大きなゴミ袋とゴミばさみを持って、広大な河川敷を歩きます。最初は道端にある煙草の吸い殻といった小さなゴミばかりを集めていましたが、葦の茂みの中に一歩踏み込むと、あるはあるは。ジュース缶、ペットボトル、ビニール袋、....。若い方々は水辺まで進んで、自転車やタイヤ、消火器の類まで。遠くから眺める美しい葦の茂みも、実は人間様の落して行ったゴミの山。なんとも悲しい気持ちになりました。
 先日もご紹介したように、いま、塩野七生さんのローマ人の物語「終わりなき始まり」を読んでいます。皇帝マルクス・アウレリウスがドナウ河畔のゲルマニア戦役に挑むあたりですが、かの黒い森に潜む蛮族と対峙するローマ皇帝の行動ぶりを、2千年後の平和人が、まさに物語として読んでいます。塩野史観に流れるリーダーシップ論から何かを学び取ろうとしています。この本にはそんな楽しさが、あります。
 最近、この物語と重なるように、吉本のお笑いタレントである間寛平さんが、走りながら東ヨーロッパを南下中。さきほどブログ「間寛平アースマラソン」を確認すると、やっとプラハに到着したようです。ライン河より東のエルベ川沿いをひた走っています。掲載されている風景写真と2千年前のガリア戦記、ゲルマニア戦記を重ねて眺めてしまいます。
 ちなみに寛平さんは、ことしの1月に日本を発って、太平洋をヨットで横断、ロッキー山脈を越えてアメリカ大陸を横断したあとは、またもやヨットで大西洋を渡り、フランスからデンマーク、そしていまドイツからチェコスロバキアを通ってオーストリアのウイーンに向かっています。私と同い年の寛平さん。最初は、バラエティー番組ぐらいにしか考えていませんでしたが、とんでもない。初志貫徹とばかりに荒波に揉まれ、走り、そして今は、ヨーロッパをひた走っています。2年をかけて世界を一周するのだそうです。そんな寛平さんの頑張りを拝見しながら、めげそうになる自らを叱咤激励している私がいます。
 こうして、塩野さんのローマ人の物語と寛平さんのブログを楽しんでいるのですが、実は、先週日曜日のETV特集「須賀敦子 霧のイタリア追想 自由と孤独を生きた作家」に触発されて、きのう手にした新潮文庫「地図のない道」。電車の中で読み始めて、座席に座り込んでしまいました。この本は、ローマに住むユダヤ人の歴史に的を絞ったもののようですが、この本を書くことになった背景について須賀さんは、「いわば勝ち組の皇帝や教皇たちの歴史よりは、この街を影の部分で支えてきた、ローマの庶民といわれる負け組の人たち、とくに、いわれのない迫害をじっと耐えながら暗いゲットに生きてきたユダヤ人の歴史が、ひっそりと私に呼びかけているのに気づいたかもしれない」と言います。何かしら重い課題をいただいたような気がしました。
 本を閉じて、車窓に流れる都会の風景を眺めながら、考え込みました。塩野さんの語るローマ帝国千年の物語と、須賀さんのユダヤ人の物語。お二人の異なる視点。この大きな距離感に戸惑いながら、ローマというひとつの世界を、ふたつの視点から眺める。私に欠けていた単眼思考に、大きな風穴をあけるものになりそうな、何かしらそんな予感を抱きました。
 きょうは、少しひんやりとした秋の休日です。ひょっとしたら寛平さんが走るかもしれないハンガリーの、ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団が演奏するリムスキー・コルサコフ交響組曲「シェエラザード」(西本智実指揮)を聴きながらのブログ更新でした。週末には、長男一家がご帰還です。

【ご参考】間寛平アースマラソン応援ブログ http://earth-marathon.laff.jp/
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来年は還暦記念同窓会

2009-10-18 10:02:26 | 愛犬ゴンタ

 きょうは雲ひとつない快晴の日曜日です。窓を開け放った部屋で辻井伸行君のピアノ小品を聴きながらの気持ち良いブログ更新です。
 そうそう、今朝はカメラをもって愛犬ゴンタとお散歩にでかけました。いつもの散歩道にはドングリの実がいっぱい落ちていました。紅葉には少し早いのですが、それでも確実に秋はその深まりを見せています。途中で、茸を探しているおじさんに出会いました。こんな都会地の小さな森の中にも、良く探すと茸があるのだそうです。籠の中にはいくつかの茸が入っていました。
 ところで、先日、田舎で町会議員をしている親友から突然の電話がありました。11月の下旬に大阪で、関西在住の町出身者のネットワークの会を立ち上げるので、是非出席してほしいと。そういえば、数週間前に、そんな案内が来ていたことを思い出しましたが、何日か放置していつの間にか忘れていました。「お前が出席するなら俺も大阪に行く」。と言われると、急に気が変わって出席することに。
 そんなやりとりをした数日後、こんどは中学校同期会の幹事君から、来年6月に還暦記念同窓会を開くので今度こそ出席してほしいと。そういえば、周年記念同窓会は仕事の都合で欠席ばかりでした。還暦なんて一生に一度のことなんだから仕事のことは横において出席したらと家内にも勧められ、こちらも出席の返事をしました。
 そうこうするうちに、今度は大学時代の先輩から、11月のホームカミングデーにクラブの懇親会をするので出席するようにと、こちらは半強制的なご案内。ちょっと待って、その前日の土曜日は、知り合いの演出家から京都で開かれる演劇に招待されているので、これでは休日が潰れてしまう(-_-;)。ジャズコンサートの予定も(-_-;)。.....はい、はい。わかりました。出席しましょう。
 そんな次第で、秋の深まりとともに、やたら休日のスケジュールが埋まっていきます。今月末には山梨在住の長男一家が、子供が小さいのでお正月の混雑を避けての帰省です。こちらは孫の1歳の誕生日と私たち夫婦の33回目の結婚記念日を兼ねて家族勢ぞろいの予定です。
 公私共々何かと落ち着きのない日々が続きます。時間と場所を違えると、まったく別の世界があります。これが現実なんでしょう。きょう日曜日の夜は、NHK教育テレビで、ETV特集「須賀敦子 霧のイタリア追想~自由と孤独を生きた作家~」が放映されます。須賀さんのことはほとんど知らないのに、なぜか気になります。良い機会ですから、すこし勉強をさせていただこうと思っています。ちなみにNHKのサイトには「作家・須賀敦子が亡くなってから10年あまり。須賀は1953年ヨーロッパへ旅立ち、その後イタリアと日本で孤独と向き合いながら生き抜いた。作品の魅力と生涯を描く」とありました。還暦を1年後に控えて、人間の生き方を考えるようになりました。

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気ままな秋の休日

2009-10-12 17:03:50 | Weblog
 昨日が体育の日かと思っていたら、今日がその日のようで、街に点在する小中学校からは一日中、運動会の歓声が風に乗ってやってきます。そんな秋の休日、わたしはすごくゆったりとした時間を過ごしました。
 午前中は、文庫本ローマ人の物語29巻「終わりの始まり」を開き、第一部は皇帝マルクス・アウレリウスを興味深く読みました。出だしから考えさせられるくだりがあります。哲人皇帝が残した「自省録」から塩野さんが引用したのは「人間は公正で善良でありうるかなどと、果てしない議論をつづけることは許されない。公正に善良に行動すること、のみが求められるときがきている」。納得です。言い訳や屁理屈を並べたてて時間稼ぎをする余裕はありません。自ら率先して、行動を通じて検証していくことの大切さを、2000年も前の皇帝が述べている。人間って、その当時から基本的なところはなにも変わってはいやしない。物質的な豊かさが、あたかも進化しているかのような誤解を与えてはいないか。そんなことを考えました。
 午後は気分転換にと、新潮社とんぼの本「須賀敦子が歩いた道」を眺めました。わたしにとっては不思議な存在である須賀敦子さんが歩いたイタリアの街々を写真とエッセイでまとめたものですが、10数年前に訪ねたアッシジ、ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアの風景をぼんやり眺めながら、.....すうっとお昼寝の世界に。1時間ほど眠っていました。
 
 いつまでもだらだらした生活でも駄目だろうと、心機一転、今度はお庭に出て、お掃除でした。伸び放題の月桂樹の剪定をしました。庭中に、キンモクセイの香と月桂樹の葉っぱの香が漂い、なにやらおとぎの国のよう。水に漬けておいた「ひょうたん」を思い出し、恐る恐る蓋をあけると、強烈な匂い。でもほっとけないとばかりに種出し作業に取り掛かりました。開けた穴が少し小さかったようで、悪戦苦闘。やむなくノコギリを持ち出して上部を小さく切断して、やっと中身をすべて取り出すことができました。でも、でも、石鹸でなんども洗っても、とにかく手の平が臭いのです。香水を振りかけてなんとか落ち着いたところですが、匂いが落ち着いたのか、わたしの鼻が鈍感になったのかは判りません。とにかく、当分、乾燥させてから、表面をサンドペーパーで整えニスを塗って完成となる予定です。
 きょうは、めずらしくヴァイオリニスト神尾由美子さんのCD「PRIMO」からカルメン幻想曲などを聴きながら、おまけのブログ更新でありました。今週もいくつかの難題が待ち構えています。落ち着いて、落ち着いて、そして冷静に。などと、自分自身を諭しているところです。
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2歳の孫の運動会

2009-10-11 18:17:30 | Weblog
 台風一過、「香」の文字を冠したわたしの街には、キンモクセイの微かに甘い香りが漂っています。例年のことながら、秋の深まりを感じる今日この頃です。
 きょう体育の日は、2歳の誕生日をまじかに控えた孫君の運動会でした。8時45分に会場正門前に集合ということで、朝早くから出掛けました。両親とその両親の総勢6名の応援団です。父母の仕事の関係で、1歳にも満たない時期に保育園に入園させて、一時は大丈夫なのかと心配もしましたが、ずいぶんと成長しました。やはり人間の成長には集団生活が必要なんだと改めて思ったものです。きちんと挨拶もできるし、お座りをしてきちんと食事もできる。全部残さずに食べることができます。最近は核家族が進んで、しかも町内会の活動も昔に比べて低調になりつつあることを考えると、早く集団生活のなかに溶け込むのも良い選択であったように思いました。そんな孫君の今日の出番は、開会式の行進と駆けっこ、そしてお遊戯でした。といっても2歳にも満たない子たちですから、自由気ままなに動いている。それがまた可愛らしくて、なかなか楽しい運動会ではありました。こうして皆に揉まれながら徐々に成長していくのでしょう。
 ところで話は変わりますが、先週の初めの朝、家を出て最寄のバス停で待っていると、道路の反対側の林の中から、犬でも猫でもない動物らしきものが顔を覗かせたかと思うと、車の往来を見計らって、こちら側の小さな林をめざしてやってきました。なんと、それは狸さんでした。とっさのことだったので、ただただ見つめていましたが、横に並んでいた何人かの方々は一斉に携帯を取り出してカシャカシャと写真撮影でありました。私も撮っておけばよかったと、後悔しています。
 それにしても、狸さん。数年前に交通事故で亡くなっている姿を見つけたことがありました。ブログを調べてみると、2006年9月3日でした。「狸さんの交通事故」と題して掲載しています。あれから3年が経ったわけですが、どっこい狸さんの家族は街の片隅で生きていたわけです。当時のブログに目を通すと、「狸さんと人間の共生、人間と地球との共生」というものに思いを馳せているくだりがあります。
 地球という途方もないエネルギーの塊の上で、人間は世界の征服者のような顔をして生きている?。いや、そうじゃあないだろう。人がいて、夫婦がいて、子供がいて、家族がいて、その延長線上に村があり、街があり、都市があり、国があり、....。すべてが一定の繋がりをもって存在をしていること。まさに人間は環境に「生かされている」ことに気づくことになります。.......帰りの電車の中でそんなことを考えた一日でした。
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ゆく河の流れ

2009-10-04 13:58:38 | Weblog
 ここ数日、雨が降ったりやんだりしていましたが、きょうは久しぶりの快晴です。すると俄然、街の小さな里山に小鳥たちの賑やかな囀りが戻ってきます。そんな清々しい秋の休日、次男君が大学時代の友人の結婚式に出席するために2泊3日のご帰還です。
 ところで、雨が続いて終日小さな犬小屋で過ごしていた愛犬ゴンタ君。可哀そうだからと、しばし居間にご案内をしました。伸びをしたり横たわったりで、ずいぶん寛いだご様子でしたが、温かいタオルで全身を拭いてやりながら、ふと思ったことがあります。「歳をとったなあ」。家内も同じように感じたのだと。毛並みも以前に比べて艶がなくなっています。目元も、お爺さんの風情です。
 ゴンタは11月23日が誕生日です。わたしが50歳になる前の年に我が家にやってきましたから、今年で10歳になります。その倍も生きられない、そんな年齢になりました。公私ともに責任がずしんと迫ってくる、そんな年代であったことを考えると、その後の10年間、わたしを慰め励ましてくれたことになります。そう、セラピー犬の役目を果たしてくれたのです。あと何年一緒に散歩できるかわかりませんが、いつまでも元気でいてほしいものです。
 そんなゴンタを連れて散歩にでかけたとき、近所の本屋さんに立ち寄りました。季刊誌「考える人」秋号を買うためです。今号の特集は「活字からウェブへの・・・・・。」。少し変わったタイトルですが、長椅子に横たわってぱらぱらめくっていくと、グラビアに活版印刷所の風景が飛び込んできました。懐かしいです。20数年前、広報の仕事をしていた頃、タブロイド版の社内報を担当していました。その当時の印刷が活版印刷だったのです。校正方法も独特の決まりがあって、最終校は街の印刷所に出向いて職人さんと一緒に仕上げました。職人さんの仕事は、鉛製の小さな活字を取り出して木枠のなかに埋め込んでいく根気の要る作業ですが、それは丁寧な仕事ぶりでした。その後、印刷方法は活版からオフセット印刷に変わりました。いまでは、原稿をデジタルデータで印刷会社に送る時代です。
 インクの匂いを嗅ぐというよりも、洒落た文字が並ぶ最近の出版物は、何かしら近寄りがたくて、ついつい古本屋さんに足が向いてしまうのは、儚い郷愁にすぎないのでしょうか。いまはインターネット、ウェブの時代だから?????1年ほど前、何十年ぶりかで万年筆を買いました。ま白い紙の上を青いインクが走る。決してきれいな文字ではないけれど、なにか、「私」がそこに生き生きと存在しているような、そんな気がして、ほっとすることがあります。ワードやメールでは感じることのできないものが、そこにはあります。
 この夏の初め、わたしは方丈記を読みました。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとに水にあらず」。中野孝次さんは、「存在するいかなるものも一つの同じ状態でいることはなく、自然も人間も万物は必ず変化し流転してゆく。無常、すなわち常なるものなしというのが、その宿命なのであろう」と解説します。人は、どこかに自分の足跡を求めようとしますが、過ぎ去った日々、古き良き時代は、決して再来することはない。神話の里・鳥上の山懐にある斐伊川の源流を眺めながら、方丈記を思い出したのも、もう40日も前のことです。
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