心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

3代目の冷蔵庫

2009-06-28 09:58:48 | Weblog
 きのうは福井市に出張でした。仕事は午後2時からでしたので、少し早い目にでかけて2時間ほど市内を散策しました。福井駅を降りると、歩いて数分のところにお城の立派な石垣が見えます。福井城でも見物しようかと近づくと、なんと県庁でありました。城そのものはずいぶん以前に焼失したようでした。お堀の周りをぐるり回ってぶらぶら目的地にむかって歩きました。
 実は、その間に地元の古書店2軒を覘きました。そのうちの1軒がメアリ書房さん。ドアをあけるとお店の人もお客もいない。遠慮がちに少し書棚を眺めていると奥からおじさんが出てきて、おもむろにBGMのスイッチを入れる。静かな時間を過ごしました。結果、「相馬御風の人と文学」「柳田國男南方熊楠往復書簡集」を見つけました。冷たいお水をいただいて店を跡にしました。
 ところで、先週は半ば、帰宅が遅くなったので、今晩は冷たいビールで喉を潤したいと最後の力を振り絞って家路についたのですが、帰るなり家内が「とうとう冷蔵庫が壊れてしまった」と。そう言えば、最近、冷えの状態が良くないことに気づいていたのですが、とうとう、という結果になってしまいました。しかたなく何時もの焼酎で疲れを癒しました。
 我が家の冷蔵庫、これが3代目です。といっても1代目は私が独身時代に使っていたワンドアタイプで家庭用ではありませんでした。家庭用冷蔵庫となると2代目。潰れた冷蔵庫は15,6年は経っています。子供たちが無造作に開け閉めするので、ずいぶん苛められたのでしょう。でも、子供たちが巣立ったあとも、なんとか頑張ってくれました。
 2日後に、新しい冷蔵庫がお目見えしました。もちろんエコポイント付きです。家内いわく「壊れた冷蔵庫は綺麗に拭いてリサイクルに回しました」と。何かしら長年連れ添ってきた「もの」との別れを惜しむかのようでありした。まぁ、母親としては傷のひとつひとつに思い出深いものがあったのでしょう。新しい冷蔵庫、あと何年もつのだろう。20年?。とすると、私が先か冷蔵庫が先か、そんな行く末を思ってしまう年代になってしまいました。
 そんな6月最後の日曜日、きょうは久しぶりに長女の孫君がやってきています。ブルーベリーとミニトマトを収穫するためです。嬉しそうでした。ブルーベリーといえば、今年はあまりにもたくさん出来たので、先週の日曜日にはジャムづくりに挑戦しました。指南役は家内でしたが、それはそれは美味しいジャムができあがりました。きょうは、孫君にもパンにぬって食べさせました。
 
【写真説明】
上段は福井城跡にそびえる福井県庁です。下段は1週間後のプルメリアです。開花に向けて着々と育っています。今年は間違いなく開花してくれるでしょう。
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物の大切さと環境問題

2009-06-21 10:03:26 | Weblog
 きのうは5か月ぶりに京都に出かけました。京都国際会館であった内閣府等主催の第8回産学官連携会議に出席するためでした。4千人を超える規模の催しですが、興味深い話題もあって楽しく過ごしました。気分を良くして、帰りは寄り道です。地下鉄を乗り換えて京都市役所前で降り、中古LPショップ「HOT LINE」さんに立ち寄りました。
 そこで1時間ほど物色して5枚のLPを手にして帰りました。最近は、音楽だけでなくジャケットデザインにも関心があって、今回はどちらかといえばそれを優先した選曲。プッチーニの歌劇「トゥーランドット」(ソプラノ:サザーランド、テノール:パヴァロッティー。指揮はズービン・メータ)。他に、シュワルツコップのモーツァルトアリア集などなど。
 ところで、久しぶりに京都の街を歩くと、心の中のもやもや感がどこかに飛んで行ってしまいます。なんとなく脳ミソが活性化するような錯覚を覚えます。終わりのない柵から開放されて、重く感じていた脳ミソが急に軽くなる、そんな感じです。京都は、学生時代を自由奔放に過ごした街です。しばし京都の知的で新鮮な空気を吸いながら帰途につきました。
 帰りの電車のなかでは、鶴見和子曼荼羅Ⅸ「環の巻」を開きました。きょうは上智大学での最終講義「内発的発展の三つの事例」の章です。三つの事例とは「タイの農村の自助運動」「水俣病患者の自助努力と地域再生」「中国江蘇省の小城鎮の工業化」です。アニミズム、仏教、隠れキリシタン、儒教といった、それぞれの精神構造にまで踏み込んだもので、根底には「近代化」をどう考えるのかという鶴見さんのするどい視点があります。
 この章で妙に読み飛ばせなかった言葉があります。タイのお坊さんの言葉として「必要なだけ自分でとって、後は他人に残しておく」。また、当時の水俣患者の方の言葉として「われわれは、物を取りすぎていないか?物を持ちすぎていないか?もっと少ないエネルギーを消費し、もっと少ない物で、もっと豊かな生活ができるのではないか?そして、あり余っている人は、もっとどうしようもない、食べ物の少ない人に届けなくてはいけないのではないか?」。
 環境問題、低炭素社会を考えた産学官連携会議での議論とのギャップの大きさを思いました。何とも不思議な感覚に襲わました。「技術」と「心」の共生といったら大袈裟でしょうか。車窓に輝く街の明かりを追いながら、わたしたちの「物」に対する拘り、それが今の時代を不幸にしている?景気の動向に一喜一憂するけれども、もっと根底にある問題、ものの考え方、そのあたりに楔を打ち込まなければ、とんでもない方向に進んでいきはしないか。連日報道される政治の混乱、経済の混乱、社会の混乱、教育・文化の混乱。親殺し、子殺し、・・・・・・。あぁ、あまりにも悲惨な事件が多すぎます。なぜ、そこで立ち止まらないのか。立ち止まれないのか。・・・・・・きょうは、きのう手にしたLPを聴きながらのブログ更新ですが、ここにもモノに依存する私がいます。

【写真説明】
上段は昨日購入したLP「トゥーランドット」のジャケットです。下段は1週間経ったプルメリアの花芽です、徐々に大きくなってきています。
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プルメリアの花芽

2009-06-14 09:35:49 | Weblog
 梅雨の季節の日曜日ですが、穏やかな朝を迎えました。若干の湿っぽさはあるのか木々の緑が映える気持ちの良い風景が窓の外に広がります。
 ところで、先週の日曜日は少し頑張りすぎたようです。お昼寝タイムのあと、急に腰部に鈍い痛みが走って起き上がれなくなりました。腰を擦りながら恐る恐る階下におりて、少しじっとしていました。お風呂に入って温めても変化はなし。症状は悪化する一方でした。それでも何とか無理をすれば歩ける状態でしたので、湿布を貼って腰痛用のコルセットをつけて、翌朝は通常どおりご出勤でありました。
 さすがにエスカレーターのない駅は堪えました。手すりを使ってなんとか進めたのですが、職場ではそんな素振りは見せられません。むやみに席を立つのは遠慮するなど極力普段どおりの動作に徹しました。しかし、急に立ち上がると平衡感覚を失って、自然に机に手を添える始末。でも、なんとか周囲には気づかれずに済みました。いや、気づかれているかも。
 今も少し痛みは残りますが、なんとか快方に向かっているようです。それにしても、腰というのは歩行を支える重要な部位のようですから、これが損傷すると歩くのはなかなかたいへんなことを身をもって体験いたしました。それなのにそれなのに、先週は広島への日帰り出張、昨日はある団体の懇親会出席の任も果たしました。そしてやっと日曜日を迎えました。
 そうそう、amazonから鶴見和子曼荼羅Ⅸ「環の巻」(内発的発展論によるパラダイム転換)が届きました。もちろん中古品です。資料編を含めて590頁の大書ですから、8月までに読破できたらと気楽なことを考えています。解説は川勝平太氏です。以前、シンポジウムでお目にかかったことがありますが、なかなか面白い方だなぁという印象はもっています。その川勝氏、なんと今回、静岡県知事に立候補するのだそうです。まだまだお元気なようで。
 ともあれ、ここにきて私の読書歴も、少しずつ点と点が結びつきながら最終章に向けて動き出した感があります。この夏59歳を迎えますから、あと長くて20年と考えると、なかなか楽しい人生の最終章になりそうです。それまでは、いつまでも貪欲に、へこたれないで、かといって妙なところに色気を出すことなく、我が道をゆく。そんな平凡な生き方を望んでいます。
 タイトルの話題が一番最後になってしまいました。プルメリアの木に花芽が見えました。このプルメリア、実は長男の結婚式をハワイで行ったとき、帰途につく空港で残りの米ドルを使い果たすために購入したものでした。南国ハワイでは大きな木に美しい花が咲き乱れている風景を何度か見かけ、記念に持って帰りました。あれから3年。夏の間は大きな葉っぱを太陽に広げていますが、寒い冬になると1枚また1枚と落ちて、最後は茎だけになります。それでも今年の冬は、寒暖の差を気にしながらも居間に置場を移したためか、なんとかこの春まで4枚の大きな葉っぱをつけて越冬しました。しかし、温かくなって外に出した途端に落葉してしまいました。その後、例年のように新しい葉が芽生えてきましたが、頭のてっぺんに妙なものが。インターネットで調べてみると、花芽であることが判りました。ひょっとしたら、うまくいったら、今年開花するかも。6月にこの状態なら8月の上旬には開花するのではないかと。いま胸を躍らせています。こんな他愛ないことにも大いなる喜びを感じる自分を、もう一人の私がにこにこしながら眺めています。
 
 最後にもうひとつ。庭のブルーベリーの実がずいぶん色づき始めました。きょうの朝は、初採りのブルーベリーをヨーグルトに浮かべて美味しくいただきました。下段の写真は今朝収穫した実です。30数年間ご愛用のコーヒーカップにいっぱいの実が採れました。家内お手製のフラワーアレンジメント作品の横で、少し気取って記念撮影です。
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クリムトと曼荼羅

2009-06-07 10:04:50 | Weblog
 久しぶりに土日連休をいただいています。初日の土曜日は、ほったらかしだった庭のお掃除から始まりました。この時期、草木の伸びが早いので2週間も放置しておくと見苦しくなってしまいます。石垣を這いあがっての作業に汗を流しました。つづいて花壇と畑のお手入れ、熱帯魚の水槽、亀五郎夫妻のお家のお掃除と続くと、さすがに寄る年波には勝てず、足腰に痛さを感じお祖父さんのように手で腰を叩くような仕草をしてしまうのでありました。
 こんな調子で、午後は休憩タイムです。そうそう、週刊「西洋絵画の巨匠」シリーズの第18巻目はグスタフ・クリムトの特集でした。といっても、この画家の名前を知ったのは今回が初めてでした。表紙をみて手許のLPレコードジャケットの何枚かに登場する気になる絵が彼の作品であることを知ったのです。解説には「魅惑的な女性像を描いて世紀転換期のウィーンを駆け抜けた画家」「世紀末の退廃を描いた画家」。しかし「彼の作品の根底に一貫して流れるのは生命の力強さ」。「旧来の価値観が崩れる一方で新しい価値観を生み出す苦しみに満ちた時代」「価値観の大きな転換期にある今日だからこそ、その姿はより切実で近しく感じられる」と締めくくっています。

 私には、どう見ても世紀末の退廃とは思えない。むしろクリムトの純粋な心を思います。南方熊楠流に言えば、人間を思う心を「萃点」に共感するものがあります。手許のLPレコードジャケットでは、シェーンベルク「浄夜」、これには彼の代表作である「接吻」(写真上)が用いられています。交響詩「ペレアスとメリザント」には、これまた代表作のひとつ「ユディットⅠ」の一部(写真下)。ユディットとは「19世紀末に流行した男性を破滅へと導く女性のファム・ファタル(宿命の女)の典型的なモチーフであると。作品のひとつひとつにクリムトの熱い思いを感じます。
 1900年といえば、確かにポスト・ワーグナーの時代。世紀末ないし世紀転換期の時代。グスタフ・マーラーやシュトラウス、ドビュッシー、さらにはシェーンベルクやストラヴィンスキーなどが登場する時代......。シェーンベルクとのコラボレーションを考えたLPジャケットデザイナーの考えが判らないわけでもない。
 その1900年は、南方熊楠が8年間の滞在を終えて英国ロンドンを跡にした年でもあります。きのうは午後は、読みかけの鶴見和子曼荼羅「水の巻」を読み終えました。この巻は、ずいぶん時間がかかりました。同時並行で目を通した本が数冊あったためですが、それでも楽しく読み終えました。以前にも紹介したとおり「水の巻」は、南方熊楠のコスモロジーがテーマでした。「人間と思想」「生涯」「仕事」「現代性」と読み進んで、南方の偉大さを改めて思ったものです。小難しい理屈ではなく、実践・経験に光を当てて道先案内人のような形で、私の行動に迫ってくる。
 この「水の巻」を読んでいると、これまでバラバラに考えてきたことが、南方流に言えば、ある種の「萃点」を通って迫ってくる。柳田國男、一度お会いしたことのある今西錦司、記号論に登場するパースまでが南方曼荼羅の関係性のなかで浮上してくると、鶴見和子曼荼羅の世界からもう一歩踏み込んで、私自身が曼荼羅の世界に入り込んでいく兆しをぼんやりと思います。曼荼羅、そう。私の実家で、仏事があると必ず床の間に飾られる仰々しい曼荼羅の掛け軸。それを恐る恐る覗き見した子供の頃を思い出します。
 きょうは、シェーンベルクの「浄夜」を聴きながらのブログ更新となりました。
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