心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

夏の終わりに思うこと

2010-08-29 15:52:43 | Weblog
 猛暑日が続いていますが、お盆を過ぎた頃から心なしか秋の気配を感じるのは私だけでしょうか。早朝、愛犬ゴンタとお散歩をしていると、そぉっと爽やかな微風を肌に感じます。芙蓉や百日紅の花もかつての勢いはありません。一番大きな変化は夏蝉です。ここ数日、夕方になるとヒグラシの鳴き声が心地よく聞こえてきます。あの物悲しい響きが、四季の移り変わり、人生の移り変わりを思わせます。夏を惜しむ、いや過ぎ去りし日々を惜しむ?そんな夏の終わりの休日に、家庭菜園の一画で実ったカボチャを一個収穫しました。今夕のメニューに加わります。
 ところで、一昨日、家の周りを散歩していたときのこと。お隣の石垣下の傍に何やら動くものを見つけました。小さな隙間から顔を出し、あたりを見回している獣(けもの)の姿。野良猫?いや違います。イタチ?いや違います。そおっと近づいてよく見ると、なんと狸さんでした。私と目が合っても動じることなく何かに警戒しているご様子でした。
 狸さんのことは、このブログでも以前何度か紹介したことがあります。この街は、ひと昔前まで山あり谷ありの里山だったようですから、その当時から棲みついている狸一族なのでしょうか。ひょっとしたら、原住民は人間様ではなく狸様であったのかもしれません。そんな里山を人間様が高度成長期の勢いに乗って土地を造成し、家を建て、引っ越してきた。時々、自転車や自動車が通るようになった。そういえば丘の上を走るバス道で、数年前お父さん狸の交通事故がありました。
 狸さんたちは、いったい何を食べて生きているのでしょうか。どこに住んでいるのでしょうか。頭数からすれば圧倒的に人間様が多いはずですが、その生命力たるや並大抵のものではないはずです。関係が希薄になった人間社会とは異なり、親子、家族関係のみならず狸族はみんなで集落を形成し、自然の厳しさに耐え、人間様の暴力に耐え、しかし強かに生きている。その絆たるや人間様よりも数倍も上ではないかと思ったりします。
                 
                 
 そんな8月も下旬の週末、今年は仕事の関係でお盆に帰省できなかった長男君一家が、もう少しで2歳を迎える孫娘を連れて帰ってきました。仕事から帰ってきた私を見つけて少し戸惑っていた孫娘ですが、1時間もすれば何事もなかったように「おじいちゃん、おじいちゃん」と、私の後を追いかけてきます。ふだん遠く離れて過ごしていているのに、ひとつの家族のなかでの人間関係、位置関係がそれとなく判るのでしょうか。おばあちゃんにも同様にひっつきまわっていました。
 昨日は、孫娘を連れて海遊館にでかけました。冷房が利いて子供も楽しむことができる水族館は恰好の遊び場になります。案の定、多くの入場者で賑わっていました。物事に関心を持ち始め、言葉を理解し始める時期ですから、目の前で遊泳する魚や海亀などの動きをいつまでも目で追ったり、話しかけたりしていました。その場に立ち止まって離れようとしない孫娘の姿をみていると、その好奇心の旺盛さに驚かされます。これが次への成長の糧になっているのでしょう。そういえば、こうした強烈な好奇心、大人たちはいつの間にかどこかへ置き忘れてきた感がないでもありません。少し考えさせられました。
 そんな長男一家をさきほど送り出して、今夏の予定はすべて終了しました。身も心も、いよいよ秋の陣に向けて動き始めようとしています。

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CD「十字軍の音楽」

2010-08-22 09:53:57 | Weblog
 うっすらと雲が浮かぶ夜明けを迎えました。今日こそは雨が降ってくれるのかと期待させましたが、時間の経過ととともに淡く白い雲の向こうに青空が見え隠れしています。きょうも、暑い暑い一日になるのでしょうか。
 気がかりなことがあります。バス停近くに聳える三本の大きな柳の木のうちの一本が、葉っぱのすべてを落としているのです。あとの2本は元気そうですが、それでも何カ所の枝先には葉っぱがありません。暑い暑い天候のせい?家内の話では、樹木を枯らす細菌が広がっているという新聞記事を最近見た気がするのだと。大人二人でやっと抱えることができるほど大きく育っている樹木が、枯れた?それとも病気に罹った?暑い夏には耐えられなかったのでしょうか。何十年何百年もの間、人間世界を鷹揚に見つめてきたであろう大樹の生命の愛おしさを思います。秋になったら元気な姿を見せてほしいものです。
 話は変わりますが、先日、仕事帰りに、大阪・梅田の阪神百貨店で開かれた「中古&廃盤レコード・CDセール」に行ってきました。8階催場の一画には、中高年を中心に多くのお客さんでごった返していました。1時間ほど物色して手にしたのは、なんとレコードではなくCDでした。タイトルは「十字軍の音楽」(デイビッド・マンロウ指揮・ロンドン古楽コンソート)です。塩野七生さんの「絵で見る十字軍物語」のなかに、十字軍時代のシャンソンをレコードで聴きながら考えたというくだりがあって、いちど中世古楽の雰囲気を味わってみたいと思っていたところ、多くの商品がずらりと並ぶ陳列台を覗いたとき、私の前にすうっと浮かび上がってきた、そんな出会いでした。帯には「中世ヨーロッパの戦争の歴史。十字軍の聖地遠征時の哀歌、モテット集」とあり、全19曲で構成されています。
 ナッカラと呼ばれるアラビア・ペルシアの太鼓、カラムスという管楽器、レベック、リュート、ハーブ、オルガン、リコーダ...。それらを伴奏に、ソプラノ、カウンターテナー、バリトンの歌が流れます。少し聴きなれない音調ですが、部屋中に一千年前の音楽が充満する不思議。第二次遠征に参加を呼びかける「騎士たちよ」、愛人の出征を悲しむ乙女の歌「私は心のなぐさみに」、獅子心王リチャードの囚われの身の悲しさを歌った「囚われ人は」...。異教徒を憎み殺戮を繰り返す人間の心、愛おしい方との別れの辛さを歌う人間の心、聖地奪還という大義名分があるとはいえ、あまりにも異なる心の有り様に、複雑な思いがします。いや、これも現実なのでしょう。現在も世界の至る所で戦争が燻ぶっていることを思うと、人間存在の不思議を思います。
 CDの解説書によれば、デイビッド・マンロウ氏は、英国バーミンガムに生まれ、バーミンガム大学などで学んだあと音楽学校で教師をしていました。でも33歳の若さで亡くなったとあります。彼が、どんな思いで十字軍の音楽をレコーディングしたのか、彼を古楽の虜にしたのは何であったのか、知りたいと思いました。バーミンガムといえば、以前にいちどお邪魔したことがあります。のっぽの時計台が印象が残るバーミンガム大学の宿舎に一泊して、早朝街をぶらり散策したことがあります。このCD、いろんな意味で親近感をもってしまいました。
 
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60歳の夏

2010-08-16 11:10:33 | Weblog
 昨夜、愛犬ゴンタと夜のお散歩にでかけたら、遠くから盆踊りの歌声が夜風に揺れながら聞こえてきました。その合間を縫うように打ち上げ花火の音も微かに聞こえました。そんな夏の季節に、私は60回目の誕生日を迎えました。





 さて、先日、京都・宇治に鵜飼を見に行きました。ここにアップした写真は、中村藤吉平等院店でいただいた「うじきん氷”抹茶黒蜜”」です。元来、甘党ではないのですが、なかなか美味しいものでした。この暑い夏に宇治に行ったもうひとつの理由は、平等院の鳳翔館に展示されてある雲中供養菩薩をもう一度眺めてみたいと思ったからでした。平等院が建立されたのは天喜元年(1053年)のことです。世の中が騒々しくなってきた頃で、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。ちょうどその頃西欧では、第一次十字軍がイエルサレムを奪還し、そこにキリスト教国を建てた時期(1099年)と重なります。「神がそれを望んでおられる」という宗教心をもって馳せ参じた10万のキリスト教徒が、聖地奪還をめざしてイスラム教徒と熾烈な戦いを繰り広げました。極楽浄土を夢見る民がいる一方で、聖地奪還をめざして殺戮を繰り返す民がいる。その両者に共通しているのは、敬虔な宗教心が人間を心底から突き動かしているということでした。
 奇しくも昨日は65回目の終戦記念日でした。あの戦争はなんであったのか。そこに宗教が介在したか否かは別にして、とめどもなく大きな力に振り回された時代、国家主義のもとに人間は非力でした。紙切れ1枚に抵抗する術もなく有為の若者たちが戦場に赴きました。尖鋭化する一握りの人間の意思が、いつの間にか大きなうねりとなって人々の上にのしかかってきた時代、気がついたときには誰も止めることはできなかった、そんな悲しい歴史がありました。
 いったい人間を心底から突き動かすものは何なのか。崇高な宗教心?それとも国家への帰依?保身?それとも私利私欲?戦後の民主教育とやらを受けてきた私たちの世代は、宗教に警戒心を抱き国家に忠誠を果たすことを躊躇させました。しかし、自己主張が大手を振って歩いている一方で、確実に人の絆(きずな)が失われていく。それを見て見ぬふりをする。新聞紙上を賑わす子殺し、親殺しの風潮、行方不明のお年寄り....。道徳というものが軍国主義復活に繋がると危惧する声はあるけれども、古くはアニミズム、多神教を底流とする社会の中で、道徳観や倫理観に蓋をしてしまって、ほんとうに良いのかどうか。他人事のように澄ました顔をしていられるのかどうか....。



 宇治に行った翌日は、私の還暦祝いを兼ねて家族みんなで京都・貴船の川床料理を楽しみました。その夜は市内のホテルで寛ぎましたが、なぜか寝苦しい夜を過ごしました。還暦という節目にあたって自らの気持ちの整理がつかないのです。私を心底から突き動かすような強い宗教心は持ち合わせていません。リタイアする年齢が近づいてくると職場は人生のひとつの通過点にすぎないと思えてくる、いや意識的にそう思うようになる。仕事がすべてなどとは考えたくなくなってきます。あまりにも仕事中心に生きてきたから。
 そんな折、本棚から1冊の本を取り出しました。マックス・ヴェーバーの「職業としての政治」でした。彼はそのなかで「政治家には、情熱、責任感、判断力の三つの資質が重要」と説きます。事柄に即するという意味での「情熱」、つまり事柄(仕事、問題、対象、現実)への情熱的献身。燃える情熱と冷静な判断力を一つの魂のなかでしっかりと結び付けていくこと。....社会人になって数年後、私は社内の研修報告にこの本を取り上げて一文を書いたことがあります。もちろん、政治家という言葉は一般的な職業人に言い替えての論でした。それを目にされた同業他社のトップから直々にお電話をいただいたこともありました。その本を久しぶりに読み返してみて、ひょっとしたらこのあたりに私の生きる指標があるのではないか、と気づきました。私の「生」そのものに対する情熱と責任感と判断力。残された人生に悔いのないよう、もういちど襟を正したい。そんなことを考えました。と同時に、この本を翻訳された私の恩師に改めて感謝しなければなりません。
 6日ほどのお盆休みも、きょうが最終日です。仕事を離れ、家族に囲まれて一人の人間の生きざまを考える、そんな日々を過ごしました。そのためか今日のブログ更新は、掲載した写真とは異なり何とも堅苦しいものになってしまいました。でも、これも通過点なんでしょうよ。きっと。

写真説明
上段:中村藤吉平等院店さんの「うじきん氷”抹茶黒蜜”」
中段:宇治の鵜飼風景。若い女性漁師さんの手さばきは鮮やかでした。
下段:恒例となった京都貴船の川床料理店
おまけ:京都国際マンガミュージアム(烏丸御池)の「こども図書館」で孫と遊ぶ。小学校の跡地を利用したこのミュージアム、日本を代表する漫画が勢ぞろい。たくさんの外国人観光客で賑わっていました。
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人と人を繋ぐもの

2010-08-08 09:49:01 | Weblog
 暑い暑い日が続きますが、立秋を過ぎてほんの少し気温が下がったと思うのは気のせいでしょうか。きょうも蝉時雨のなかで目覚めました。愛犬ゴンタとの早朝散歩では、天から蝉の声が降ってくるような、騒々しいけれども決して嫌ではない空間に身を置きながら、ふと幼少の頃を思い出したものです。やはり夏生まれのせいなんでしょう。
 そういえば早朝散歩のとき、毎日通勤で利用するバス停のベンチに小さなチラシが貼ってありました。「携帯電話を拾ってくださった方、お心配りありがとうございました」。実は、このベンチには数週間前「ここで携帯電話を拾いましたので、駅に届けています」というチラシが貼りだされていたのです。落とし主の方が気づかれたようです。買い物帰りに土砂降りの雨のなかバスを降りて、そこで携帯電話を落とされたご様子が綴られ、ちゃんと手許に戻ったことに感謝の気持ちが述べられていました。昨今の新聞記事を見ていると、人間関係が希薄になり家族関係が崩壊の危機にあることを実感しますが、匿名とは言えチラシによるコミュニケーションに、なんだか心温まるものを感じました。こんなちょっとした心配りが、なかなかできなくなったように思います。
                     
 愛犬ゴンタとお散歩をしていてもそうですが、こちらが挨拶しても全く無視する方がいらっしゃるかと思うと、ついついペットを間に話しこんでしまうことも。おじいさん、おばあさん、おくさん、だんなさん、高校生・・・・、なかには英会話学校で教えている外国の方も。いろいろ話し合ううちに、次回のお掃除当番のことやら廃品回収のことやらに話題が弾みます。そうそう、真向かいの若いご夫婦に待望の赤ちゃんができたのもニュースになりました。久しぶりに我が街に赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。これも、嬉しいニュースです。
 と書き綴ったところでLPレコード(バッハ「パルティータ」)のA面が終わりました。B面に替えて何気なくこれまでの内容を読み返します。例のごとく、思いつくままの自由なラフスケッチ風の内容に、しかたないなぁと苦笑しながら、さて次に何を書こうかと。でも、難しいことは何も浮かびません。きょうはこの後、長椅子に身を委ねならがグレン・グールドのLPに耳を傾けることにいたしましょう。
 そうそう、先日、東京・神保町の古書店でジョルジュ・ルルー著「グレン・グールド~孤独なピアニストの心象風景」を見つけました。独特の楽譜解釈によるピアノ演奏が気になってしようがないグールド。時々演奏のなかで彼の歌声(鼻歌?)が聞こえてくる。低い愛用の椅子に腰かけてピアノに向かう姿。指の動きが鍵盤と一体化したとき、グールドが描くバッハの世界が目の前に現れます。身体全身でバッハの世界に、あるいはモーツアルトの世界に入り込んでいる、そんな彼の演奏に惹かれます。コンサートを嫌い、録音技術を駆使して矢継ぎ早に発表していったLPレコード。ちょうどLPがCDに置き換わる時期、そう私が社会人になって最初の頃です。その10年後に、彼は50歳の若さでこの世を去っています。書名にもあるように彼は「孤独」だったかもしれません。しかし、生涯、音楽を楽しんだ人でもあります。音楽どころか、彼独自の視点で世の中を見つめる、夏目漱石の「草枕」を愛読し、ある種の哲学性すら感じさせます。だから、学生の頃に初めて彼に出会って以後、決して離れることのできない存在、我が人生と照らし合わせながら、近づいてみたり、離れてみたり。そんな不思議な関係を、そう40年も続けています。
 そんな私の60歳の誕生日も刻一刻と近づいています。
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真夏の夜の読書

2010-08-01 10:00:57 | Weblog
 今朝は蝉時雨のなかで心地よく目覚めました。長い年月にわたり地中深くで大きく育った蝉たちの晴れ姿なんです。そんな生命力に励まされます。さあ、いよいよ生まれ月の葉月8月を迎えました。ここ大阪では数日前にざぁっと雨が降って、いくぶん過ごしやすい夜を過ごしましたが、翌日からは猛暑日に逆戻りでした。かのロシアでも史上空前の猛暑に襲われているご時世ですから、贅沢は申しませんが、私の耐久力がどこまで続くのか少し不安ではあります。
 ところで、7月最後の土曜日だった昨日は、午前中、職場で書類の整理をしました。継続中の課題5件分を除いて、机の奥に眠っていた多くの書類をごっそり廃棄しました。前の任期中に完遂できなかった仕事はどこかに問題があったわけですから、ここでいったん過去を断ち切る、というわけです。書類を惜しげもなくシュレッダーに投入する清々しさ。デスクだけでなく、心の奥の蟠りもなくなって、新しい気持ち、新しい視点で新しい任期を迎えることになります。
 書類の整理といえば、先日、梅棹忠夫先生がお亡くなりになりました。直接お目にかかったことはありませんが、著書「知的生産の技術」(岩波新書)は、発想法(川喜田二郎)、整理学(加藤俊秀)、超整理法(野口悠紀雄)などと共に、私がパソコンを日常的なツールとして使い始めた頃、ずいぶんお世話になりました。いま紐解いてみても、「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が個人の基礎的素養として大切」「個人の知的武装が必要」「たえざる自己変革と自己訓練が必要」「カード法は歴史を現在化する技術であり、時間を物質化する方法である」「生産的読書法」.....。鉛筆の走り書きが残ります。
 案件ごとにクリアファイルに書類を納めていく手法も、それを時系列に並べていく分類も、さまざまなことを見よう見まねで試しながら自分にあった整理法を考えてきました。節目節目で行う書類の廃棄も、その発展型といってよいでしょう。人間の脳の許容量を考えると自ずから限度があると思うからです。第一、改めて一から考え直すことで妙な拘りを断ち切ることができます。ときたま「あの書類があったら」と思うこともありますが、なければないで別のことを考える、すると新しい発見がある。その瞬間を楽しむ。お気軽なものです。
                   

                   
 きょうは、もうひとつ本のお話をします。待ちに待った塩野七生さんの新シリーズ「十字軍物語」が先週発売されました。題して「絵で見る十字軍物語」、本編に先立っての入門書です。見開き2頁の左頁にギュスターヴ・ドレの挿絵、右頁の上部には挿絵に象徴される当時の地図を示し、その下にエピソードを添えるという形で構成されています。本編は9月以降、来年にかけて3冊刊行の予定なのだそうですが、この暑くて寝苦しい夜に眺めるにはちょうど良いものでした。キリスト教とイスラム教、共に一神教にしてその立場を譲らず、今日に至る長い歴史を背負っている人類史に思いを馳せながら眠りにつく毎日です。
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