心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

大阪の『夏』を楽しみながら想うこと

2024-07-26 23:17:30 | Weblog

 連日、暑い日が続きます。地域によっては未曾有の雨が降っているというのに、ここ大阪は2週間あまり雨らしい雨も降ることなく、毎夕庭に水撒きをしても焼け石に水。草木もぐったりしています。可哀そうではありますが、こうして生き残った草木が庭を独り占めしていくのでしょうか。

♪♪♪♪ 打ちましょ♪♪♪  チョンチョン♪♪♪♪。
  昨日、NPOの帰りに仲間と冷たいビールで喉を潤したあと、京阪電車天満橋駅に向かっていたら駅に近づくにつれて何やら人の群れ。そうでした。この日は「天神祭」の船渡御の日でした。長く大阪に暮らしていながら天神祭を見るのは初めての私は、仲間と別れたあと酔い覚ましに大川沿いに向かいました。
 案の定、大川に向かう道は大勢の見物客でごった返しています。DJポリスまで登場する賑わいでした。これが大阪の天神祭りか......。河畔にはたくさんの屋台が立ち並び、大変な賑わい。川岸に近づこうにもひと苦労。何とかスマホカメラを向けることができました。それにしても外国人観光客の多いこと。日本の「祭り」を楽しんでいる様子でした。
 陽が落ち、日中のうだるような暑さが収まって涼やかになったところで、篝火や提灯が川面を照らします。鉦や太鼓の音と共に舞台船、供奉船が繰り出します。打ちましょ♪チョンチョン♪。
 そんな風景を眺めながら、ふと、玉岡かおるの小説「負けんとき~ヴォーリズ満喜子の種まく日々」の中に描かれていた「浪速の夏」の章がぼんやりと浮かんできました。やはり天神祭りは大阪の夏の風物詩のひとつでした。

 さて、今週は暇に任せて結構出歩きました。先週末には、シンフォニーホールに出かけて、ブラームスのヴァイオリン協奏曲(郷古廉)、サン・サーンスのチェロ協奏曲第1番(横坂源)、リストのピアノ協奏曲第1番(横山幸雄)を聴きました。午後2時の開演でしたが、なんと聴衆のおよそ7割はシニア世代。時間を持て余している世代なんでしょうか。それともクラシックに対する思い入れが世代によって違うのでしょうか。若者たちの志向の変化。人口減少。これからのクラシックを支える裾野の在り様。なんとなく考えてしまいました。
 その翌日は、熱中症アラートが発令されているにも関わらず、暑い暑い京都の東寺に行ってきました。弘法市がお目当てではありましたが、この日は私一人で出かけたこともあって、真言宗総本山「東寺」に心の拠り所を求めた、というのが正解かもしれません。最近、四国遍路に行くこともないので、堂内の静かな空間にほっとひと息でした。金堂の薬師如来さん、講堂の立体曼荼羅、なかでも大日如来像に対面し、堂内の縁に座って暫しゆったりとした時間を過ごしました。
 と言いつつ、弘法市では5万円の能面に心が動きました。これまで手にしたものとは明らかに違う迫力に負けそうになりましたが、今回はスルーしました(笑)。

 夏祭り、コンサート、骨董市。こうして1週間が慌ただしく過ぎていきました。そんなに急いでどこに行く??。秋からは少し場面転換をはかろうとしていますが、風景の中に身を置いて新しい生き仕方を考えるきっかけになればと思っています。これこそ、「心の風景」の原点でもあります。

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夏本番!怪談話に涼を求める。

2024-07-19 21:47:59 | Weblog

 今週の水彩画教室の画題は夏の野菜「ゴーヤ」でした。日除けのためプランターで育てている中から2個だけ摘んで持っていきました。うちひとつは、まだ大きくもないのに熟れ過ぎています。お隣の女性の方が熟したゴーヤの中身が見たいというので、ナイフで切ってもらったら、中にはひとつひとつ真っ赤な袋に包まれた種がいくつも入っていました。その女性はその美しさに心が動いてその種を画題にしました。中身の写真を撮るのを忘れてしまいました。

 さてさて、梅雨明けも間近い大阪の夏の夕暮れどき、「堺で江戸中期に生まれた怪談本『沙界怪談実記』にお連れします」と題するナカノシマ大学講座(講師:陸奥 賢さん)を覗いてきました。堺に伝わる怪談話です。いつの間にか心の中にひんやり感が漂い始めました.......。
 『沙界怪談実記』は、安永7年(1778)に鉄方堂という人物が書いた、堺の様々な場所で起きた怪異なお話49編を収録した本です。それをテキストに、「万代庄金口村の異獣」「川尻の上下に夜々怪あり」「戎町の土蜘蛛の陰火」「大小路浜の首なしの死体」「雷公内船の漬物を喰う」「狐架空の津波を告げる」「古室の怪異主人を苦しむ」「新田橋下の河童人を咬む」「大山陵に大鯰出現す」などについて、堺の古地図で場所を確認しながらお話しいただきました。
 その数日前には、山本能楽堂の「伝統芸能塾」にも顔を出してきました。講師は観世流能楽師シテ方の山本章弘さんです。改めて能楽の歴史とお能の魅力について語っていてだきました。最近少し遠ざかっていましたので、触発されて多田富雄の「能の見える風景」(藤原書店)を開いたりしました。
 お能も、鬼や幽霊、もののけや怨霊、老婆、神さまや精霊など、主人公の多くは「死んだ人」、この世に未練がある人物が登場します。
 来週は「土蜘蛛」の公演がありますが、なんとチケットは完売したのだとか。抽せんで天神祭の船渡御乗船券がいただけるとのことで人気が高まったようでした(笑)。聞けば来年の関西国際万博では、何やら面白い企画を準備中とか。期待しています。

 ここ大阪も暑い「夏」を迎えます。朝、近くの不動尊にお散歩に出かけると、境内には蝉の鳴き声が充満し、不思議にも全く何も聞こえない真空の世界に誘われます。摩訶不思議..........。
    明日はコンサート、明後日は東寺の弘法市に出かける予定ですが、連日、熱中症アラートが発令され続けています。それに最近、身近でコロナに罹る方がちらほら。落ち着きのない夏でもあります。皆様にはご体調にくれぐれもご留意のうえ、暑い夏をしっかりと乗り越えてください。

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梅雨にあれこれ ~ グレン・グールド、須賀敦子

2024-07-12 23:25:22 | Weblog

 雨の日の昼下がり、何気なくレコード棚を眺めていて、グレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」に目が留まりました。グールドが22歳の頃の1955年録音盤です。その後グールドは50歳で亡くなる前年の1981年にも同じ曲を録音しています。
 26年の歳月を経て、私たちはまったく異なる「ゴールドベルク変奏曲」を楽しむことができます。グールドの生き様がそのまま演奏に反映されているように私には思えます。
 2枚組のレコードのもう1枚には、当時CBSのディレクターだったジョン・マックルーア(M)の取材を受けたグレン・グールド(G)の生の声が録音されています。題して「演奏芸術における感覚の拡張と発展について」。時折、グールドのピアノが入りますが、A面B面ともに英語で淡々と対話は進みます。
 バッハの「ゴールドベルク変奏曲」で華々しく登場した若きグールドが、10年後にコンサート演奏を辞め、当時としては先端技術であるレコード録音およびラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場としたことはよく知られています。

G「マーラーの第8番は、コンサートホールよりも、家庭で本格的に、しかも、しっとりとした気分で、しずかに、心をこめて聴いた方が、はるかに圧倒的な効果を創ることができるにちがいない」
「君はコンサートのステージからレコーディングやテレビという電子的なメディアへ自発的に切り替えた」「多くの批評家は、この種の行為を、良心的に認めがたいことだという」
G「彼らは何かたくさんのごまかしが行われていると感じるんです。もちろん、レコーディングというものは、きわめて綿密に継ぎ合わされているテープの断片を集めたものからできているんですからね。①指のミスなど不正確なものを取り除くこと②もっと重要なことは、集めた個々のテープを組み合わせて一つの統一したものにまとめあげること」

 コンサート会場に行かなくても家庭でレコードやラジオ、テレビを楽しむ時代がぼんやり見えてきた黎明期のお話です。今日では、当たり前のように、高度なデジタル技術を駆使した素晴らしいCDやデジタル音源が街に溢れています。音楽の楽しみはいろいろあっていい。私も来週末は、久しぶりにシンフォニーホールに出かけてきます。

◇   ◇   ◇

 そうそう、昨日、NPOの帰りにジュンク堂書店に立ち寄った際、発行されたばかりの文春文庫「精選女性随筆集『須賀敦子』」(川上弘美選)に出会いました。
 真新しい帯には、イタリアを愛し稀有な人生を歩んだ彼女の、魂の旅路を辿る名随筆とあり、漫画家文筆家のヤマザキマリさんの「あらゆる感情と丁寧に接し、言葉という品格をまとわせる。そんな須賀敦子の、深く、しなやかな知性がここに象られている」という言葉が記されていました。ヤマザキマリさんと言えば、今年5月に読んだ漫画「プリニウス」の作家でもあります。
 三部構成になっていますが、いずれも「ミラノの霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」などの須賀さんの作品の中から選りすぐりの章が散りばめられています。帰りの満員電車の中で、優先座席に座って須賀敦子の世界を彷徨うお爺さんとなりました。
 グレン・グールド、須賀敦子、南方熊楠、鶴見和子、空海、村上春樹、塩野七生、トーマス・マン.....。私の本棚に並ぶお歴々を見ると、何やら破茶滅茶な読書歴が浮かんできます(笑)。

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時代はどこに向かっているの?

2024-07-05 20:57:25 | Weblog

 今週の水彩画教室では風景画に挑戦です。トスカーナにあるサンジミニャーノの街角で撮った写真を見ながら素描をして時間切れ。この土日に仕上げに入ります。連日暑い日が続くなか、冷房の効いた教室で楽しい時間を過ごしました。
 そういえば昨日、田舎の実家から笹巻が届きました。笹の葉にお餅を包んだ昔ながらの食べ物ですが、この時期になると母がよく作ってくれました。そんなことを思いつつ、私も今夏74回目の夏を迎えます。
 あれよあれよという間に、今年も半年を経過しましたが、年初に誓ったデジタル終活は一向に進みません。せめて、クレジットカードぐらいは整理しようと、先日2社分を解約しました。面白いと思ったのは、デジタル社会にあって解約はネット上の操作ではなく対面(電話)だったこと。ネットも怖いけど、電話もどうなんだろう。でも他に良い方法がないんでしょうね。さあて次は何に手をつけましょう。

◇    ◇    ◇

 そんなある日、新聞(デジタル版)に目を通しながら、最近の社会風潮に何やら得たいの知れないモノが蠢いているような怖さを思いました。政治と金の問題だけではなく、都知事選に見られる候補者の不可解な行動。国内外で蠢く妙なポピュリズムの台頭。テレビ各局も「政治」をショー扱いにしているし、夜のゴールデンタイムは人を茶化す番組のオンパレード。民放のCMの多さにも閉口します。経営優先のマスコミが社会を壊しているというのは言い過ぎでしょうか。
 救いは、大谷選手、パリ・オリンピックをめざして頑張る若者たちの姿です。その活躍を清々しい気持ちで眺めながら、政治屋たちはいったい何をしているんだろうと。ある意味末恐ろしささえ思います。
 あれもこれも、年老いた私の偏見なんでしょう。きっと。手許にある小林秀雄講演CD第4巻「現代思想について」に、「街の隠居」というくだりがあります。社会から逃げないけれども、街に沈んでいる「隠居」のことを話題にしています。小林さんは「逸民」ともいいます。子どもの頃、縁台に座って煙管を吸っている怖いご隠居さんがいました。いつもぶつぶつ言っていました。叱られたこともありました。ひょっとして私も、そんなご隠居さんの仲間入りしたのでしょうか(笑)。いえいえ、目に見えない何かが時代を動かそうとしています。
 今週も、ぼんやりと須賀敦子の「霧の向こうに住みたい」をパラパラめくりながら過ごしました。40で帰国して20年経った60歳を境に30年前のイタリアでの生活、風景をエッセイにしました。清々しい言葉で人の心と風景をさりげなく表現する須賀敦子さんのエッセイは「心の風景」を支えています。須賀さんの域に近づくことは到底できませんが、文章作法のお手本になっています。そう思っています。まだまだ文章修行は続きます。

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