心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

神保町から市ヶ谷へ

2015-03-29 09:49:51 | Weblog

 3月もあと2日。2015年に入って早くも3か月が経過しました。時の経つのはほんとうに早いものです。そんな3月最後の日曜日、昨日の春めいた陽気とはうって変わって、今日は朝からどんよりとした空模様です。休日ぐらいは晴れてほしいのですが、時々小雨が舞ったり止んだり。近所の公園のお花見もお預けです。今朝は、クラシックプレミアム32号「バロック名曲集」を聴きながらお気軽なブログ更新です。
 ところで、先週の日曜日は、お墓参りにでかけましたが、その足で孫君を連れて天王寺動物園に行きました。ホッキョクグマの赤ちゃんが見たい、という孫君たちのご要望にこたえました。生後4か月が経過したのだそうですが、愛くるしい姿に、しばし時間を忘れて見ていました。
 さて、昨日は所要のため東京にお出かけでした。少し早めに出発して神保町界隈を散策すると、道端に出店があったり、ガレージセールをやっていたりと、古書店街ならではの賑わいでした。ゆっくり品定めする時間はありませんでしたが、「新潮」4月臨時増刊「小林秀雄 百年のヒント」、小林秀雄全作品(1)「様々なる意匠」、新潮古典文学アルバム「能・狂言・風姿花伝」。しめて1500円なり。
 正午を回る頃、九段下から市ヶ谷に向かい、目的地をめざしている途中、ビルの影に隠れるように、路地横に忽然と現れたのが市谷亀岡八幡宮でした。桜も咲き始め、私を呼んでいる気がしたので、寄り道をいたしました。この神社は、「太田道灌が1479年、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まり」なのだそうです。古くは広い鎮守の森があったのでしょうが、先の戦争で消失、その後再建されたのだとか。ビルに囲まれてひっそりと佇んでいました。そんな東京の街を楽しんだあと、目的地のホテルに到着したのは15分前でした。
 所要を済ませると、土曜の賑わいをかき分けながら東京駅に向かいます。もう暗いというのに市ヶ谷駅界隈の釣り堀ではお客が釣り糸を垂れています。都会のど真ん中で、長閑なものです。
 帰りの新幹線の中では、坂本龍太著「ブータンの小さな診療所」を読み終えました。ブータンでの高齢者医療、健康診断に取り組む若い医師と現地の方々との取り組みが描かれていました。日本と同じ医療(健診)を押し付けるのではなく、「村人の村人による村人のための健診」を心がけ、高齢化が進むブータンが自立的に歩んでいけるサポートをしています。
 「村人の村人による村人のための健診」、良い言葉です。その土地の風土・文化・習慣、そういうものを真正面から受け止め、手がけるべきことを押し付けるのではなく、現地の人々が自分たちで取り組んでいける土壌を作る。これが持続可能性ということなんだと、改めて思ったものでした。ただ単に美しいもの、近代的なものを指し示すだけでは、国や組織は長続きしないということです。夜の車窓を眺めながら、意を強くした次第です。

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春分の日の京都

2015-03-21 22:54:54 | Weblog

 長かった雨のトンネルを抜け、春の陽が暖かく降り注ぎます。そんな心地よい週末、久しぶりに京都に出かけました。お目当ては、京都大学こころの未来研究センター主催のシンポジウム「超高齢社会を健やかに幸せに生きる」でした。
 三条大橋から鴨川河畔を歩いて北上し、荒神橋のたもとにある稲森財団記念館をめざします。途中でベンチに座って川面を眺めたりして、のんびりと春の陽を楽しみながら、20分ほど前に会場に到着です。既にたくさんの方々がお集まりでした。そのほぼ全員がシニア世代、さもありなん。
 ここ数年、ブータンの幸福度に関心があって、今回も坂本龍太助教の報告「ブータンからの叡智~幸せに生きるとは~」に興味をそそられての参加です。発表のスライドを見ていると、古き良き時代の日本の現風景とブータンの風景が重なって見えます。急速に進む時代の変化に、ある種の違和感をもつ私にとっては、人生の総仕上げとしての課題が迫ってきます。なによりも、ひとつのプロジェクトに思想がある、哲学がある、そんな印象を強く抱いたシンポジウムでした。会場の入口にあった特設書籍売り場で、坂本先生の著書「ブータンの小さな診療所」(ナカニシヤ出版)を買って帰りました。
 この日は夕刻、先にお買い物をしていた家内と京都高島屋で合流しました。そして、琳派400年記念「細見美術館 琳派のきらめき-宗達・光琳・抱一・雪佳-」を覗きました。私が知っているのは俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一ぐらい。一方の家内はひとつひとつを丁寧に眺めておりました。その横で私は、伊勢物語の図色紙、「大淀」「業平の東下り」などを興味深く眺めておりました。そのあとは、二人で京の夜を楽しみました。
 ところで、今日の鴨川河畔はお天気もよく、水面には鴨の家族が群れていました。すると、どこからともなく聞こえてきたのが童謡「春よ来い」でした。お母さんと一緒に小さな子たちが声を張り上げて歌っていました。シンポジウムの会場をめざしていた私ですが、そのほのぼの感に、しばしベンチに座って家族の様子を伺っていました。
 童謡「春よ来い」を作詞したのは、「カチューシャの唄」や「早稲田の西北」の作詞で知られる相馬御風です。学校の校歌もずいぶん手がけました。6年ほど前になるでしょうか。私は富山に出張した帰り道、大阪とは反対方向に歩を進め、糸魚川駅まで足を伸ばしたことがありました。糸魚川歴史民俗資料館(相馬御風記念館)と御風の生家を訪ねました。一度しか行ったことがない街なのに何とも懐かしい風景が蘇ってきます。その糸魚川に、先ごろ開通した北陸新幹線の糸魚川駅が誕生しています。(2009年5月24日のブログ記事「相馬御風を訪ねて」)

 春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている
 春よ来い 早く来い おうちのまえの 桃の木の 蕾もみんな ふくらんで  はよ咲きたいと 待っている
 
 春は確実に近づいています。我が家の庭も徐々に春めいてきました。しっとりと雨が降ったからでしょうか。レンギョウの黄色い花が開いています。クリスマスローズは三つ目の品種ルーセブラックが見事に咲きました。
 彼岸を迎えて、明日の日曜日は家内の両親のお墓参りです。孫君たちを連れて出かけます。そんな次第で、一足早いブログ更新となりました。

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中世日本に興味津々

2015-03-15 09:29:49 | Weblog

 先週は雨の多い1週間でした。きょうは持ち直したものの、お陽さまは曇の影にお隠れです。でも、今週から気温があがり、桜の開花予報もそろそろお目見えなんでしょう。我が家の庭では、クリスマスローズが開花期を迎えています。
 ブルーベリーやライラックの枝先には、花芽が大きく膨らんでいます。カリンの苗木を寄せ植えした鉢は、早くも芽吹きの季節。知らない間に着実に春は近づいています。3月も半ば、卒業シーズン真っ盛りですが、あと半月もすれば真新しいスーツを着た若者たちが、緊張した面持ちで通勤電車に乗り込んできます。
 通勤電車といえば、ここ1週間、電車の中で、角川文庫「伊勢物語」(ビギナーズ・クラシックス日本の古典)を、ぱらぱら捲っています。隣の御方が日本経済新聞を熱心に読んでいる横で、「からころも 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う」なんて、現実離れした歌を眺めている私がいます。京の都を離れ東下りをする昔男が、八橋という所で、晴れやかに美しく咲く杜若に出会い、都にいる妻を思って歌ったものです。時間と空間の違いは受け止めながら、人の心の奥に在り続ける何か普遍的なものを感じ、また考えたりしている私がいます。この伊勢物語を題材にした能の作品には「杜若」や「井筒」があります。
 手元に別冊宝島「鳥獣戯画の謎」があります。人の思いと行動を、兎や蛙、猿などの動物の行動を通して表現しようとしています。そのタッチの素晴らしさ、表情の豊かさ。作者の時代精神を見る思いがいたします。
 表紙は「誰が何のために、この不思議な世界を描いたのか」と読者に語りかけます。時代に対する痛烈な風刺、批判精神を読み解くこともできなくはありません。作者の心は墨絵を通じて800年後の今も生き続けています。この鳥獣戯画の本物を、私は昨秋、京都国立博物館の特別展で観ました。
 年代を追っていくと、伊勢物語が平安初期、鳥獣戯画が平安末期から鎌倉初期。相前後して方丈記や平家物語が誕生します。西洋は十字軍の時代ですから、グローバルな視点で眺めると、なんとも不思議な、しかし人間の生き様をこうした作品を通じて知ることになります。

 長い仕事人生、様々な人の生き仕方が走馬灯のように浮かんでは消えて行きます。先週は、かつて国の施策の中枢にいた御方と一献傾ける機会がありました。国を動かす者と動かされる者の、哲学、感性の違いのようなものを思いました。両者、いずれも間違ってはいないのだけれども、こうして右往左往しながら人間は歴史を刻んで行くということなんでしょう。

 そう言えば最近、家内がそっと言います。「見てごらん。ゴンタが黄昏れているよ」と。何?覗いてみると、ぼんやりと遠くを見つめているゴンタ爺さんがいます。身動きもせずに、じっと遠くを見つめています。
 広辞苑を開くと、「黄昏れる」とは「たそがれ(黄昏)」を動詞化したもの。夕方になる。「黄昏」を調べると「たそがれどき」の略。比喩的に、物事が終りに近づき、衰えの見える頃。「人生の―」。ゴンタ爺さん、人間で言えば、後期高齢者の仲間入りをしています。でも、元気に散歩もするし、食欲も旺盛。まだまだ元気ではあるのですが。
 ふと、ダニエル・レビンソンの「ライフサイクルの心理学」を思い浮かべました。文庫2分冊のこの書のメインテーマは、中年期(40~60歳)で終わっています。後は、およそ2500年前の古代ヘブライの「タルムード」、古代中国の「孔子」、ギリシャの「ソロン」を引き合いに、人間の年表を紹介するなかで60歳以降のことに簡単に触れています。ゴンタ爺さん、発達段階を超越したということなんでしょうか。黄昏期に入ったと?
 雑文を書き上げアップしようとするこの時間になって、窓の外が明るくなってきました。きょうは内田光子のショパン・ピアノソナタをLPレコードを聴きながらのブログ更新でした。

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忙中閑あり

2015-03-08 09:39:50 | Weblog

 ここ数日、雨が降ったり止んだりで、なにか湿っぽい日が続きます。これも、春に向かってのお天道さまのお目覚めなんでしょう。今日は、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」(アバド指揮、ベルリン・フィル)の演奏を響かせながらのブログ更新です。この曲、知人の遺作展を観たムソルグスキーが亡き友の描き残した絵画の印象に自らの思いを重ね合わせたものだそうです。10曲の小品のひとつひとつに絵画の世界がひろがります。いながらにして、まさに展覧会を覗いているようでもあります。
 そんな休日の朝、雨上がりの花壇を覗いてみると、クリスマスローズが開花していました。2年越しで育ててきた品種も、今年は花芽をつけています。その晴れ姿を見たいものです。
 一方、居間では、生花の梅の枝先に、可愛い梅の花が開き、仄かに春の香りを漂わせています。「蟄虫啓戸」(ちっちゅうこをひらく=冬ごもりをしていた虫たちが動き始める)。春は、もうそこまでやってきています。
 先週は仕事で右往左往させられました。なんとか次のステージに繋げることができましたが、落ち着きのない一週間でした。それでも夜になると、意識的に場面転換をします。
 一昨日の夜は、同業他社の方々との例会に顔を出しました。意を同じくする老若男女の集まりですが、同業とは言いながら、集まったのは多士済済、話が盛り上がります。先行き不透明な時代。我が業界も内側から組織の新陳代謝が進んでいます。場所はアベノハルカスでした。日本一ののっぽビルから大阪の夜景を眺めるのは初めてでしたが、暗闇の中に浮かぶ通天閣、天王寺動物園、御堂筋。足元に大阪の夜景が広がります。
 その翌日は、私にとっては異業種の方々とのお勉強会でした。こちらはややハイレベルな会合です。たくさんの知見をいただきました。その帰り道、某女史と寄り道しました。洒落たレストランでもと思いましたが、知ってる店があるからとついて行くと、勤め帰りのサラリーマンで賑わう新梅田食堂街の居酒屋「三起」さん。この意外性が楽しい(笑)。わいわいガヤガヤと騒々しい店の一画で、美味しい料理とお湯割り焼酎をいただきながら、2時間ばかり話し込んでしまいました。
 その帰り道、本屋さんに立ち寄りました。そこで手にしたのは、発売されたばかりの、多様性を考える言論誌「kotoba」2015年春号でした。今回のテーマは「南方熊楠」。最近遠ざかっていた熊楠ですが、私の拘わりの人物です。昨晩は夜遅くまで眺めておりました。
 特集記事の前文には、こう綴られています。「明治期にアメリカ、イギリスに渡り、ネイチャー誌他に多数の英文論考を発表した南方熊楠。日本の民俗学誕生に決定的な役割を果たし、神社合祀反対運動はエコロジー運動の嚆矢となった」「強烈な独創性に裏打ちされた天才、権力と真っ向から対立した「知の巨人」の全貌に迫る」とあります。3年前のこの時期、別冊太陽が同じく南方熊楠を特集したことがありますが、そのときのサブタイトルは「森羅万象に挑んだ巨人」でした。

 忙しいから、何か新しい知見がほしくなる、勉強したくなる、本を読みたくなる。私の悪い癖です。ひょっとしたら、リタイア後の私は、ゆったりとした時間を持て余して、逆に本を読まなくなるのかも......。
 いえいえ、そんなことはありません。私の家は二つの市の境界線にあって、近くに二つの図書館があります。先週の日曜日、徒歩で20分ほどの所にある隣市の図書館分館に行きました。これまで、お隣の市の図書館は利用できないと思い込んでいたのですが、尋ねると、本のリクエストはできないけれども、借りることはできるのだと。さっそく貸出カードを作っていただきました。
 これで、地元の二つの図書館を利用できるようになりました。リタイアしたら、週1日は図書館でお勉強でもしましょう。もう1日は畑仕事?さあて、残りの5日は何をするか。そんな計画を考える楽しさを最近思うようになりました。
 読みたい本があまりにも多い。聴きたいレコードは際限がない。悶々としているうちに、天からお誘いが来るのでしょうよ。きっと。(笑)

 

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孫君のお泊り。春を探し、レモン風呂を楽しむ

2015-03-01 00:23:49 | Weblog

 今年も早3月。旧暦では第六候雨水末候「草木萌動(そうもくほうどうす=草木が芽吹き始める)」の季節を迎えています。「日本の七十二候」(中経文庫)によれば、「冬枯れの野山や木々に、薄緑色の小さな息吹が現れる時季」なのだそうです。言われてみれば、バス停横の大きな柳の枝先も、ぼんやりと膨らんできたような気がします。
 さて、土曜休日の昨日は、孫君たちがお出ましでした。午前中は孫次男君をお預かり。お昼になると孫長男君がお母さんとやってきて、賑やかに昼食をいただきました。この春小学2年生になる孫長男君、ずいぶん落ち着いた雰囲気で、お祖母さんの甘い言葉には「僕は幼児じゃないよ。児童だよ」と、面白いことを言います。弟の面倒見も良く、お兄ちゃんらしくなりました。そして夜、一人残って我が家にお泊りでした。
 明日は朝早そうだから、夜遅く、こんな時間にブログの更新をすることにしました。でも、習慣って恐ろしいものです。別に義務でもないのに、週一度はブログを更新しなきゃあ、なんて考えるご老人がおります。本当に困ったものです。(笑)
 そんな土曜休日の午後、孫長男君を連れ、春を求めて街を散策しました。まず孫君が見つけたのは、我が家の畑の片隅にあったフキノトウの子供でした。春の陽気に誘われて、少し恥ずかしそうに佇んでいました。その次に見つけたのは、道端にひっそりと咲く菜の花でした。
 この日、孫君を最も感激させたのは、大きなクヌギの木肌を器用に歩き回る啄木鳥の仲間コゲラでした。絵本やテレビでは見たことがあるけど、こんな街の公園にもいるんだ、と興奮気味に話しておりました。よく注意して見渡せば、都会の街にも、いろいろな野鳥に出会うことができます。望遠レンズを忘れたので写真で確認するのは大変かもしれませんが、とりあえずアップしました。
 この日の夕食は、孫君大好きな「手巻き寿司」でありました。その食べっぷりもたいしたものです。大きくなるはずです。クラスでも大きいようで、後ろから4番目に背が高いのだと。お爺さんとは違うようです。
 締めくくりは、孫君と一緒に入ったレモン風呂でした。庭に植えているレモンの実ですが、数年前から実がだんだん大きくなって、レモンらしからぬお姿になっていますが、さあてどうなんでしょう。接木苗の先祖帰りで、別の柑橘類が顔を擡げてきたのかもしれません。でも、味と香りはレモンなのです。毎年40個ほど実を付けますが、食用というよりも、もっぱら入浴剤替わりです。特に寒いこの季節、身体が温まります。温泉大好きな孫君も、まんざらでもなさそうです。
 我が家では、レモンのほかにも、大きく育ったアロエの葉を木綿袋に入れて、アロエ風呂を楽しむことがあります。アロエといっても4種類のアロエを育てていて、昔はアロエ酒をつくったりしていましたが、最近はもっぱら入浴剤です。そして時々、胃薬替わり、肌のお手入れに使います。いずれもお肌つやつや、身体全身が温もり、初老夫婦の健康維持に一役かっています。そんな老人じみた生活を、孫君は楽しんでいるようでもありました。

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