心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

臨場感

2011-08-28 10:17:00 | Weblog
 季節の変わり目は移ろいやすいものです。暑さが収まったかと思うと、いつの間にか汗だくの一日。ところが夕方になると、決まってお空のどこかでゴロゴロと雷鳴が轟く。最寄駅に着いた頃には土砂降りの雨。こんなことを繰り返しながら、徐々に初秋のお空に収斂していくのでしょう。

 そんな8月の下旬、市内某ホテルでのこと。仕事の合間に、1泊50万円のスイートルームなるものを拝見させていただきました。36階の大きな窓から遠くに大阪湾を一望できる贅沢なお部屋でしたが、いったいどんな御方がお泊りになることやら。人生いろいろ、人さまざま。この世はなんとも不思議なところです。
 この日は、ホテルの一室で、夕刻、ささやかなお食事会がありました。初めにソプラノ歌手のミニコンサートがあって、ジャンニ・スキッキ「私のお父さん」ほか数曲を聴きましたが、昼間の熱い議論で昂った心を和ませるに十分なおもてなしでありました。美味しいワインをいただきながら、テーブルではいつの間にか音楽談義に花が咲きます。某氏いわく、「マリア・カラスには及ばないけれども、生(なま)の歌声を聴くのは何ものにも替えがたい」。すると「どんなに高価なオーディオ機器も、生演奏にはかなわない」との意見。「震えるような感動、鳥肌が立つような感動。これはコンサートホールでなければ味わえないね」との声も。
 話題はどんどん広がっていきます。「科学の進歩は、我々の生活を豊かにしてくれたけれども、果たして、それが人間にとって幸せだったかどうか懐疑的にならざるを得ない」「豊かさに反比例して、何かが退化してはいないか」「若者たちはネットをみて判った気持ちになっていないだろうか」。話題は教育論にも。「ゲームというバーチャルな世界での経験と、自然の中でリアルに経験する感動は、違う。」「生きることの臨場感って大事だと思う」「それが今の教育にあるか」などなど。還暦を過ぎたお年寄りの話は尽きませんでした。
 農耕・土着の精神を忘れ、自然界への畏敬の念を忘れ、手足を使って汗を流す労働の喜びを忘れ、3Kなどと言っては仕事を蔑み嫌う。隣近所の人間関係が希薄になって「無縁社会」という言葉まで現れる。.....このままではいけないだろうと薄々気づき始めているのに、時代のパラダイムシフトが見えない。それに政治の混乱、脆弱性が拍車をかける。今朝のTVで民主党代表候補者の所信を聞いても、かつて革新政党を標榜していたはずなのに、いつの間にか物知り顔に終始して、時代の大きな方向性を示せないでいる。
この日の私たちの答えは、「終戦後、今日に至る生きざまを思えば、日本人も捨てたものではない。悲観することはないさ。頑張るのみ」。果たして、どうでしょうか。「震えるような感動」「鳥肌が立つ感動」を求めて、最後の力を振り絞って働く.....。そんなことを考えながら、ネオン輝く週末の街を跡にしました。


 話題は変わりますが、長男君の第2子が生まれて1カ月。近く上京の予定をしているのですが、昨日、長女から第2子ができたかもしれないとの電話がありました。少子化の時代に嬉しいニュースです。お婆さんがまたしてもそわそわし始めました。昨夜は、家内お手製の器に焼酎を注ぎ、その上に我が家で収穫したスダチを浮かべました。芳しい酸っぱさが口いっぱいに広がり、なんとも幸せな気持ちになったものです。この日の焼酎は、ネットで注文した薩摩焼酎「田苑」。発酵タンクや樽に特殊なスピーカーを取り付けて、クラシック音楽の音の振動で熟成させたものとか。情けないことに、美味しいお酒に酔って、バーチャルもリアルもとろけてしまいました(笑)。
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無心であること

2011-08-21 10:42:19 | Weblog
 暑い暑い夏だったのに、お盆休みを過ぎた頃から、ずいぶん過ごしやすくなりました。特に今朝は、時々雨が降ったせいでしょうか、ひんやりとした肌触りに目が覚めて、しばしベッドのなかで季節の変わり目を思ったものです。
 先週は、火曜日に孫君を連れて京都・八瀬の河原に川遊びにでかけ、それで長期休暇の予定はすべて終了しました。翌日は、市内のホテルのラウンジでの打合せ、次の日は久しぶりの職場で書類の整理をすませ、そして広島に出かける。こうして徐々にエンジンがかかってきます。でも、通勤電車では、時期をずらしてこれから海外旅行にでかける家族連れの姿もちらほら。新幹線はまだまだ子供連れが多くて夏休み状態です。こんな風景も、いつの間にか元どおりになっていくのでしょう。夏休みの終わりとは、歳をとってもなんとなく落ち着かない、淋しいものです。

 そうそう、きのう広島駅の新幹線駅構内で、「おめでとう!なでしこJAPAN! 熊野化粧筆」の幟に人が集まっていました。先日、国民栄誉賞を授与された選手の記念品が、広島県熊野町が世界に誇る化粧筆だったからでしょう。化粧筆がどういうものなのかよくわかりませんが、さぞ肌触りが良いのでしょう。世界の美女たちを魅了するほどですから。いずれにしても、広島が元気になることは良いことです。

 ところで今夏は、ゆっくりした分、グレン・グールドの演奏をずいぶん聴きました。CDも、LPも。評論本はすべて書棚にしまいこんで、とにかく無心に聴きました。部屋中に、彼独特の世界が広がります。目の前に置かれた楽譜を、古い伝統や権威に囚われず自分なりに読み解きピアノに向かうグールド。聴きなれた単調なピアノ曲を一瞬にして壮大なオーケストラに変えてしまいます。大仰なコンチェルトを気品のあるピアノ曲にしあげてしまいます。繊細さと図太さ、弱弱しさと力強さが交差します。それはどこか、グスタフ・マーラーにも通じるものがあります。大袈裟にいえば、現代人に共通する心の在り様なのかもしれません。自らの立ち位置を永遠に追い求め続けているのかもしれません。時々ピアノの旋律に交じって聴こえるグールドの息遣い、恍惚として演奏する姿が、スピーカーの向こうにぼんやりと見えてきそうです。

 手許にあるLP「ゴールドベルク変奏曲」(1955年録音)は2枚組で、1枚目は演奏、もう1枚はCBSディレクターのジョン・マックル―アとグールドとの対話が納められています。多くのファンに惜しまれながらコンサート活動をいっさい止めてしまったグールドは、その後、レコードその他のメディアによる演奏芸術に情熱を燃やします。その制作現場を撮影したDVDをみると、ひとつひとつの楽章を調整しながら最高の作品を作ろうとしているグールドの姿が映し出されています。その芸術論を淡々と語り続けるグールド。そんな拘りがグールドの世界を創っています。その不思議さに心を奪われて40年。私にはグールドについての結論めいたものを見出すことはできません。ただ無心に聴き、何かを考え、何か求めようとしている、そんなお付き合いが続いています。
 この夏は、ずいぶん本も読みました。新しく手にしたもののほか、なんとなく思い出して、かつて読んだ本を再読する、そんな心の余裕もありました。単なる知識欲としてではなく、無心になって文字を追うと、以前とは違う発見があったり、妙に納得したり、感心したりすることがあります。読み返すことで、自らの思考の拙さに気づきます。
 最近、60年あまりの間に滲みついた無機質な知識や柵が徐々に崩れ去っていくのを実感します。というよりも、自分の身体に最後までまとわりつくものって意外と少ない、そんな気がしています。それで良いのでしょう。無理に大きな袋を提げて歩く必要はありません。美しいものを美しいと言える、ただそれだけで良いのです。心の中で、夏の終わりを告げるヒグラシの声を聴きながら、残された人生、そんな生き方がしたいとぼんやり考えています。
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61歳の夏

2011-08-14 08:52:46 | 旅行

 暑い暑い「夏」に生まれて、ことし61回目の誕生日を迎えます。ひと昔前なら隠居の世代なのでしょうが、いましばらく最後の御奉公に汗を流します。それにしても今夏の暑さは尋常ではありません。例年ならクーラーなしでひと夏を過ごしますが、さすがに寄る年波には勝てません。部屋のクーラーがフル稼働です。
 そんな夏の夜のこと、愛犬ゴンタと夜のお散歩を楽しんでいると、お隣の石垣付近でうろうろしている小動物に出会いました。野良猫かと思って目を凝らして、目と目が合ってびっくり。その滑稽なお姿は、紛れもなく狸さんでした。すごすごとお隣の庭の奥に入っていきました。さすがの狸さんも、この夏の暑さには、ほとほと困り果てたご様子でした。

 さて、長期休暇の前半は、予定どおり家内と九州へ温泉旅行に出かけました。阿蘇・内牧温泉、湯布院、別府と回ってきました。途中、宮崎県西臼杵郡高千穂町にも足を伸ばし、神話の舞台となった高千穂峡や天岩戸神社、天安河原など古事記の世界を訪ね歩きました。........

 炎天下、青い稲穂が揺れる田圃、ツクツクボウシが鳴く檜や杉の林。小川には透き通った清水が流れ小魚が戯れている。そんな空間(景色)に身を置いていると、61年間のうち田舎での生活はたかだか18年に過ぎないのに、夏蝉の声で現実と幻想の垣根が掻き消され、古き良き時代を追う自分の姿に気づきます。一方では、我が人生の、その後の3分の2を、時代の激流に流されないよう必死に踏ん張って生きてきた。もちろん独りで生きてきたわけではないけれど、そんな生き様が目の前に浮かんでは消えていきます。......63歳にして他界した母の、「もう そろそろ ゆっくりしたらどう?」と耳元で優しく囁く声が聴こえてきそうでした。

 旅行中、ずうっと多田富雄先生の著書を読み続けました。昨夜は、NHKオンデマンドで「NHKスペシャル 脳梗塞からの“再生” ~免疫学者・多田富雄の闘い~」も視聴しました。リハビリに励みながら精力的に仕事をこなす生前のお姿に、身の引き締まる思いがしました。
 著書「寡黙なる巨人」の中で多田先生は、理学療法、作業療法の現状にふれ「単なる運動機能を回復させる療法ではなく、リハビリテーション医学の視点からマニュアルに頼らない人材育成の努力が足りない」と記しています。「リハビリテーションは、人間の尊厳の回復という意味だそうだが、私には生命力の回復、生きる実感の回復だと思う」とも言います。機能の回復は困難と判ってはいても、自分の足で立ち、一歩でも歩くことで人間存在を意識された。理屈ではない、実際に障害者の立場に立たないと判らない言葉、言えない言葉でした。我が国の医療保険制度がどこまで理解しているのかどうか。
 日本の将来推計人口統計によれば、2005年の総人口が1億2,700万人、うち65歳以上の人口が2,567万人(20%)に対して、25年後の2030年には1億1,522万人、うち65歳以上の人口が3,667万人(32%)、50年後の2055年には総人口が1億人を割って8,993万人となり、うち3,646万人(41%)が65歳以上の人口で占められるとか。逆に言えば、労働人口が全体の半分になってしまうということですが、50年後の日本の姿を具体的にどうイメージしたらよいのでしょうか。
 稲作農耕文化の中で培われてきた家族や地域への幻想が崩れ、それらに求めていた機能が発揮できずに機能不全に陥っている。それを人は「無縁社会」と言って警鐘を鳴らします。そのことの意味を、私たち日本人は東北大震災を通じてぼんやりと気づき始めていますが、工業化社会の先を見据えて、私たちに課せられた時代的課題はあまりにも大きい。残された仕事人生に重たいテーマをいただきました。
 そんなことをつらつら考えながら、夏の休暇を過ごしています。一昨日は、多田富雄先生と鶴見和子先生の往復書簡「邂逅」を読み終えました。お互いに病と闘いながら不屈の精神をもって「自己と非自己」「創造性」「自己と他者」「異なる階層間の接点」など、極めてハイレベルな議論を展開されました。時には南方熊楠まで引用しての論もあり、ついつい時間を忘れて読み耽りました。と同時に、自らの思考の拙さを改めて実感したものです。

 そうそう、11日には、京都・下鴨神社糺の森で開催された京都古書研究会主催の第24回「下鴨納涼古本まつり」(8月16日まで)に出かけました。外の暑さとは別世界、境内のひんやりとした木立の中に出店された古書店を見て回りました。今回は独りでしたから気兼ねすることもなく3時間あまりをかけて一軒一軒じっくり品定めすることができました。この日、手にしたのは、鶴見和子曼荼羅Ⅵ「魂の巻~水俣・アニミズム・エコロジー」、もう一冊は日比野秀男著「渡辺崋山~秘められた海防思想」でした。帰路、寄り道をしてこっそりいただいた冷たいビールのなんと美味しかったことか。

 お盆に次男君が帰ってきました。前夜8時過ぎまで仕事をしたあと、そのまま富士山頂に登り、その足で大阪に帰ってきたのだと。「若い」の一言に尽きます。さあて、きょうは次男君と孫君を連れて義父のお墓参りです。

【写真説明】
上 段:内牧温泉で早朝散歩中に発見した夏目漱石「二百十日」起稿の宿「山王閣」。漱石の胸像が目印です。
中上段:神秘的な高千穂峡
中下段:古い民家の奥座敷に置かれた神楽のお面
下 段:第24回下鴨納涼古本まつり。老若男女おおぜいの人で賑わいました。 

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堂島のワルティさんが新装開店!

2011-08-06 11:23:01 | Weblog
 先日、仕事帰りに堂島のジュンク堂書店に立ち寄ろうと、大阪駅前第一ビルの地下街を歩いていて、中古レコード店DISK J.J.の前を通り過ぎたとき、その2軒先に真新しい看板が目に留まりました。名付けて「WALTY SECONDHAND +(プラス)」。クラシック専門のCDショップでした。......ぬ?.....ぬ?見覚えのあるご主人。そうなのです。昨年暮れに閉店した堂島WALTYさんの復活でありました。

【写真説明】WALTYさんは手前から2軒目の小さなお店です。

 以前のお店から歩いて数分の所にオープンした店舗は、決して広くはないけれど、奥に自慢のステレオを置いて、音楽大好きのご主人と奥様が、にこやかに接客をされていました。「あのワルティさんですよね」。ついつい嬉しくなってお声をかけてしまいました。閉店以来、このコースを歩くことは滅多にありませんでしたが、これを機会に立ち寄るお店がひとつ増えました。ちなみに、この日はグレン・グールドのCD「バッハ:フランス組曲(全6曲)&フランス風序曲」と、アレクセイ・リュビモフが1828年製のフォルテピアノで演奏した「ベートーヴェン 最後の三つのピアノソナタ」を買って帰りました。
 WALTYさんを出て、次の目的地・ジュンク堂書店に向かいました。手にしたのは、多田富雄先生ご自身の壮絶な闘病記を綴った小林秀雄賞受賞作品「寡黙なる巨人」(集英社文庫)、私の尊敬する社会学者・鶴見和子先生との往復書簡「邂逅」(藤原書店)でした。当初は対談をされる予定だったようですが、日程の決まった直後に多田先生が脳梗塞で倒れられたのでした。書棚には他に、お能繋がりでしょうか。白洲正子さんとのやりとりも出版されているようでした。
 小林秀雄、白洲正子、鶴見和子、南方熊楠、柳田國男、相馬御風、.....福岡伸一、多田富雄、柳澤桂子、......。不思議なことに、近年の私の読書歴は徐々に人繋がりの様相を呈してきました。別に気負っているわけではないけれど、還暦を過ぎたあたりから、無意識のうちに自分自身の生きざまを振り返ろうとしている、そんな自分に気づきます。
 さあて、今夏は節電が叫ばれているため、職場も来週から結構長い一斉休暇に入ります。2カ月前には長期旅行にでも出かけようかと思っていましたが、頻繁に大阪と広島の間を行ったり来たりしている間に出不精になり、家でじっとしていたいという思いが強くなってきました。そんな私を見かねたのか、家内が九州の温泉巡りを企画しました。明日から数日間、愛犬ゴンタをペットホテルに預けて、還暦夫婦の珍道中です。

 そんなわけで土曜休日のきょうは、朝から愛犬ゴンタの身体を洗ってやったり、毛並みを整えたり、バタバタしていました。そうこうしているうちに、仕事メールが飛び込んでくる。落ち着かないものです。
 庭に目をやると、ハワイ生まれのプルメリアが大きく茂り、今年も見事に花を咲かせてくれました。このプルメリアは、長男君の結婚式をハワイで行った際、お土産に持って帰って育てているものです。さっそく長男君に開花を報告しました。月末には第2子のお宮参りも予定されています。
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