心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

能「屋島」を観る。

2019-02-27 15:24:04 | 四国遍路

 久しぶりに朝のお散歩を楽しみました。少しずつではあっても暖かくなってきて気分も爽快。街角街角で集団登校する小学生の一群に遭遇しながら、今日も何か楽しいことがありそう、なんて子どものような気分でお散歩をしました。お不動さんに着くと四国八十八カ所の祠が並ぶ前を通ってお大師様に朝のお参りをします。花立には菜の花が活けてありました。
   さて、先週の土曜日は大阪城の近くにある大槻能楽堂の
自主公演能「四国巡礼」を観に行きました。まずは内田樹さんから「海民と騎馬武者~源平合戦のコスモロジー」についてお話がありました。お能は世阿弥の「屋島」です。
 季節は春、四国行脚の僧が讃岐国屋島を訪ね、老漁師に一夜の宿を所望します。最初は躊躇した老漁師でしたが、僧が都から来たと聞き招き入れました。その夜、僧に求められて屋島の合戦の話をした老漁師は、何を隠そう、源義経の亡霊だったのです。真夜中、僧の前に甲冑姿で現れた義経の亡霊は、屋島の合戦の折に弓を海中に落としながら、貧弱な弓ゆえ敵に取られまいと危険を顧みず取り戻した話などを語って聞かせました。そして、.......夜明けととともに消え失せる、そんなあらすじでした。

 屋島といえば一昨年の夏、バスツアーで巡った四国遍路の旅でお参りした八十四番札所・屋島寺を思い出します。展望台から壇ノ浦あたりを見渡しながら、その昔、源平合戦が行われたのが信じられないほど穏やかな海だったことを覚えています。園内には源平合戦の絵図がパネル展示してあって、まさに義経が海中に落とした弓を取り戻すお話は能「屋島」と同じ場面でありました。
 ところで、大槻能楽堂でお隣にお座りになった九州は福岡からお越しのご婦人、席に着こうとされて何故か座席が下に降りないアクシデントがありました。なんど試してもだめ。ならばとりあえずその隣の席にお座りになってはと促しましたが、しばらくしてその席のお客様がお越しになって、さあ大変。急ぎ、フロアー係の方を呼んできて対処していただきました。この日は満席とかで座る席が確保できない。何度も座席の下のネジを調整していただいて、なんとかお座りいただくことができました。そういえば大槻能楽堂、今夏から改修工事に入るそうです。座席を一新されるのでしょう。きっと。
 そんなことから、休憩時間にお隣のご婦人といろいろお話をすることになりました。聞けば、翌日は京都でのお茶会があって、そちらがメインの来阪ですが、せっかくだからと能楽をお楽しみになるのだと。でも、話していると出演者のお一人お一人のことをよくご存じで、博多だけでなく関西、関東の主だった能楽堂に足を運ばれているご様子でした。千駄ヶ谷駅から徒歩5分のところにある東京の国立能楽堂をぜひ一度おいでくださいと勧められました。いずれ機会をみて覗いてみたいと思います。
 とりあえず4月は、家内と一緒に、山本能楽堂の「たにまち能」で能「熊野」(「くまの」と読みそうですが「ゆや」と読むのだそうです)を観に行く予定です。

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好評だったコンサート

2019-02-20 21:14:19 | Weblog

 先週の水彩画教室は人物画がテーマでした。それも実物のモデルさんを囲んでの写生とあって、みんなどきどきそわそわ。モデルさんを囲んで椅子を2列並べましたが、いざ座ってみると前列は男性陣が陣取り、みんなで笑ってしまいました。20分おきに10分の休憩を4回、2時間の設定でしたが、デッサンまでで終わり、色づけは帰ってからになりました。写真を撮ることはできませんから、あとは自分の感性に頼るしかありません。

 話は変わりますが、先日、コンサートの裏方の仕事をしました。なんとホールは現役時代に若干の関わりをもった都市型の中規模ホール。この日の役割は観客誘導、HP用の写真撮影、そして記録用のビデオ撮影と盛りだくさんでした。ビデオなんて子どもが小さい頃のホームビデオ以来触ったことがありません。SDカードを初期化したのはよかったのですが、写し終わって再生するとなんにも写っていない!!。「えぇ!!」。どうやら撮影前に記憶する場所をSDカードに設定しておく必要があったよう。自動的にビデオのハードディスクに録画されていました。慌てましたが、ほっとしました(笑)。
 コンサート専用ではなく多目的なホールなのですが、そういう制約の中にあって音響に拘ったところは活かされていました。スタインウェイのピアノ、弦楽器、歌曲ともに良い感じで、演奏者の皆さんにも好評でした。写真はリハーサル前のピアノの調律風景です。収容定員600名弱のホール内の椅子は一口20万円の椅子募金で賄われていて、背に寄付者の名前(アルファベット)が記されています。どこかに私のプレートもあります(笑)。 コンサートが好評のうちに終わった日の夕暮れ、大阪駅前のバス会社に立ち寄って、予約していた四国行きの乗車券を買って帰りました。
 ところで、先週紹介した新書「奇跡の四国遍路」(黛まどか著)のことですが、筆者と西垣通さんとの問答のなかで、黛さんが「俳句と身体性」について語っていらっしゃいます。

「自然の中で身体を動かしていると、波動のようなものを感じるようになります。対象(自然や人など)が出す波動と自分の波動が合致した瞬間に、命の交歓が生まれ、俳句が生まれます」
「歩くことによって、現代生活で鈍くなってしまっている五感のアンテナが立ち、日常にはない思考回路へと導かれます」
「都会を歩いているとすれ違う人の多くが”閉じている”ように見えます」
「記憶の断片と今目の前にある風景、感じている風、匂いなどが乱反射して俳句になっていきます。大きな命の連なりの一部としての一期一会、命の交歓です」

 私は俳句のことは分かりませんが、黛さんのおっしゃっていることが何となく分かるような気がします。「歩き遍路」に惹かれる大きな理由のひとつが、こんなところにあるような気がします。

 さてさて、今週は珍しく写真が1点だけとなりました。月曜日から金曜日まで会議やら講座運営やらプレスリリースやらと現役並みの用事に振り回される1週間です。そして土曜日は能楽鑑賞「屋島」。さらに来週末は北海道へ。2月も末、なにかと忙しくなってきました。いや、自ら忙しくしている今日この頃です。

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「歩く」ということ。

2019-02-13 13:56:46 | 四国遍路

 10年ほど前のことでしょうか。紀伊国屋書店で一冊の本に出会いました。須賀敦子の「ユルスナールの靴」です。そのプロローグに「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」とありました。この言葉が妙に心に残り、河出文庫「須賀敦子全集」(全8巻)を一気に読みました。
 以来、いろいろな意味で『歩く』ということが、老年期に入った私のひとつのテーマになりました。玉岡かおるの小説「銀のみち一条」に出会うと、旅行会社企画の「銀の馬車道ウォーク(生野銀山から生野峠まで)」に参加しました。本格的なウォーキング・デビューです。
 四天王寺の春の古本祭では、ヘンリー・D・ソローの「ウォールデン~森の生活」に出会いました。森の中を何キロも歩いて自然を観察したり畑仕事と読書を楽しんだシンプルな生活が描かれています。そんなソローを追って、モントリオールからボストンに向かうツアーバスの車窓から、ソローが歩いたウォールデンの森を眺めたりもしました。
 そんな私が、次に出会ったのは高群逸枝の「娘巡礼記」(岩波文庫)でした。大正7年、24歳の若さで四国八十八カ所を巡礼した若き女性の紀行文学です。根が単純な私は、さっそく「歩き遍路」を始めました。2泊3日という窮屈な区切り遍路ですが、今やっと伊予の国に入ったところです。
 田圃の畦道、山の尾根道、浜辺の砂浜。とにかく昔の遍路道を選んで歩きます。この1月には、宿毛と宇和島を結ぶ松尾峠と柏坂峠を歩きました。その昔、毎日二百から三百人もの人々が往来したという旧街道を、ただひたすら歩き続けました。
 そして今、私の手許には天神橋筋商店街の古書店・天牛書店で出会った稲本正著「ソローと漱石の森~環境文学のまなざし」があります。純文学を離れて「文学」と「自然」を繋ぐ新しい知見を与えてくれました。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」。私の好奇心は当分衰えそうにありません。
 ・・・・これは先日、求めに応じてとある文集に寄せた作文の一節です。あっちに行ったりこっちに行ったりと、まだまだ迷える羊(笑)なのに、余計なものは省いて「歩く」をテーマにこの10年余りの生き仕方を辿ってみると、なんとなくひとつのストーリーができるから不思議です。良い機会をいただきました。
 近所のTSUTAYA書店でこんな新書にも出会いました。女流俳人・黛まどかの「奇跡の四国遍路」(中公新書ラクレ)です。黛さんと情報学者の西垣通さんとの巡礼問答も収録されています.......。夜な夜な、これまで歩いた第一番札所霊山寺から第40番札所観自在寺までの、その土地土地の光と空気と土の匂いを全身で思い出すという、そんな贅沢な時間を過ごしています。
 2月も半ば、そろそろ「歩き遍路」の計画を立てなければなりません。いろいろ考えたあげく、来月は宇和島から大洲まで、龍光寺、佛木寺、明石寺を巡ることにしました。さっそくお宿に電話を入れると、女将さんから「良い季節になりますよ。お待ちしております」と明るいご挨拶をいただきました。もう一軒のご主人からは「お宿から20キロほどかかります。お気をつけておいでください」と。電話の向こうから地元の人の温かい心が伝わってきます。
 高速バスの予約も無事に終わって、そのことを家内に伝えようと階下に降りると、........なんと、なんと。家内は家内でパソコンと睨めっこ。ネットを駆使して小旅行を企画中でした。私がやってきたことに気づくなり、唐突に「北海道に行こうよ」と。「えぇ!!」。それも「歩き遍路」の一週間前。慌ててカレンダーをめくってその前後のスケジュールを探ってみると、この時期しか空いていないことが判明したところで、「まあ、いいかぁ」......。ということで、3月の上旬に北海道へ3泊4日の小旅行。翌週の週末は伊予の国へ一人旅、と相成りました。なんともはや。
 孫次男君が小学校に上がるまで、地域のボランティアをお休みしていた家内ですが、4月から復帰の予定です。アレンジメントを教えたり、ステンドグラスを習ったり、小物づくりをしたり。それに加えて4月から駅前のオフィスでボランティアが始まります。老夫婦そろって健康寿命に挑戦、といったところでしょうか。

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TV番組「ヨーロッパに嫁いだなでしこ物語」を見て思い出したこと

2019-02-06 09:27:49 | Weblog

 先週金曜日の夕方、孫君二人がお祖母ちゃんに連れられてやって来ました。どうしたの?と聞くと、お母さんが小学校の保護者会の用事で帰るのが9時頃になり、お父さんも残業続きだとか。ならばとお祖母ちゃんがお連れしたようです。お兄ちゃんは宿題をもって、弟は漫画をもってやってきました。
 翌日の土曜日はサッカーの練習やら習い事があって翌朝10時過ぎには帰っていきましたが、夕刻、孫次男君から「泊めてもらってありがとう」と、えらくご丁寧なお電話をいただきました(笑)。4月から小学生になります。
 次の日は2月3日、節分の日でした。近所のお不動さんでは人気タレントを招いて節分祭が催され、今年はなんと2万2千人の人出だったとか。みんな福をもらって家路に着きました。いただいた福豆をお茶うけに、老夫婦で無病息災を願い、ゆったりまったりの時間を過ごしました。
翌朝、お散歩がてらにお参りすると、あの人波はどこへやら。静まりかえった境内に柔らかな朝日が差していました。
 その日の昼下がり、読売テレビで「ヨーロッパに嫁いだなでしこ物語~吉田洋、プラハ・ウィーンへ」という番組を見ました。120年前、東京下町生まれの17歳の女性が、在日中のオーストリアの侯爵に見初められて結婚、その後チェコ・プラハやウィーンに移り住み、慣れない文化圏に物怖じせずに生き抜いたクーデンホーフ光子の足跡を追うものでした。当時、”明治のシンデレラ”と話題になったようですが、ドラスティックな空間移動もさることながら、夫が急逝したあと7人の子供たちを立派に育て上げた明治の女性の逞しさ、凛々しさを思いました。
 そんなプラハやウィーンに、4月下旬「中欧5カ国周遊8日間」ツアーで行く予定です。光子も歩いただろうプラハの旧市街、カレル橋、そして2年ぶりの訪問となるウィーン。そんな街並みをこのテレビ番組で眺めました。
 プラハの街を行き交う人々を見ていて思い出したことがあります。それは私が中学生の頃、ちょうど英語を習い始めた頃のことです。当時流行っていたペンパル(ペンフレンド)のお相手が、実はプラハの女性でした。今のように世界中の人々とメールやLINEで瞬時にコミュニケーションできるような時代ではありませんでしたから、辞書を片手に習い始めたカタコト英語で必死に手紙を書いて郵便局に走ったことを覚えています。
 彼女との文通は、高校3年の春頃まで続きました。しかし、例の「プラハの春」を境に途絶えてしまいました。そう、1968年春に起きたチェコの民主化運動です。その動きに危機を感じたソ連がワルシャワ条約機構軍20万人を投入して、その民主化の動きを圧殺した、悲しい出来事でした。「政治」というものの現実を初めて目の当たりにしました。その後の私が、大学進学先を大きく変えて政治学科に舵を切ったのも、いま思えばまったく無関係ではなかったんだろうと思います。結果的に私は、政治とは全く無関係に、一市民としての人生を歩んだことになりますが、自由奔放に物事を見つめ全身で時代と対峙した「青春時代」って、やっぱりいいなあと思います。年老いたためでしょうか。
 もう半世紀も前のこと、彼女の名前も忘れてしまいましたが、当時いただいた絵葉書はアルバムの中に大事にしまってあります。

 さて、きょうはこれからお出かけです。というわけで、珍しくこんな時間のブログ更新となりました。

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