心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

雑誌「音楽現代」

2006-05-28 10:55:36 | Weblog
 先週も、何やかやと慌しい1週間でした。それでも、四苦八苦して進めてきたことが、形として、そう、「もの」としてではなく「共感」として見えてくるのは嬉しいものです。もちろん、きれいごとばかりではありませんが...。
 悲喜こもごもの1週間も、週末を迎えると、私の中で意識的にギアチェンジを図ろうとする気持ちが高まってきます。きのうも、少し早い目に職場をあとにすると、久しぶりに都会の雑踏の中に身をおきました。(職場は隔週土休なのですが、休めないですね。その分、少しでも仕事の目処が立てば、いつの間にか姿を晦ます。そんな土曜日を楽しんでいます)
 昨夜は、手元に届いた雑誌「音楽現代」(芸術現代社)6月号を眺めました。今月の特集は「マーラー再考~人間・作品・演奏の魅力」です。グスタフ・マーラーが生きた時代は1860年から1911年。日本で言えば明治時代にあたります。年表を紐解けば、アメリカにリンカーン大統領が生まれた時代、ベルが電話機を、エジソンが蓄音機を発明した時代であって、映画が誕生し、飛行機や自動車が発明され、近代オリンピックが始まった時代。日本でちょん髷が消えていくのに似て、欧米諸国にあっても時代が大きく転換朝を迎える、そんな時代に生きた音楽家の一人です。希望に満ちた時代であると同時に、新しい時代に不安を隠しきれない、そんな悩ましい時代でもありました。そんな時代を生きたマーラーに惹かれるのは、時代の転換期という、言えば当時と同様な時代環境を今に生きる私たちにとって、何かを得たい、学びたいと思うからです。マーラーのほかにも、シュトラウス、ドビッシー、プッチーニ、ラヴェル、スクリャービン、少し下るとシェーンベルク、ストラヴィンスキーらの時代になります。
 こんな非日常の世界を子供っぽい好奇心をもって楽しむ。これも、週末の楽しさです。ところで、この雑誌には興味深い連載記事もあります。そのひとつが大野一道氏の「音を観る」です。今号は「一即一切 緑の地球を取り戻すために」というタイトルがついていますが、なんと白洲次郎氏の名前が登場します。そう、白洲正子さんのご主人です。実は昨日、白洲正子さんの「名人は危うきに遊ぶ」という本を手にしたばかりだったので、「妙なところでお会いしましたね」と、ついつい思ってしまいました。次郎氏の国際人としての活躍は良く知られていて、最近、新しい本も出版されていますが、わたしは未だ読んだことはありません。
 さぁ、今週は、待ちに待ったチャイコフスキーの未完成交響曲「ジーズニ」日本初演コンサートです。西本智実さんの指揮です。昨年は、仕事の関係で泣く泣く職場の若い方にチケットをプレゼントしましたが、今回は終業と同時に職場を飛び出すことにいたしましょう。ことし前半の、自分自身に対するプレゼントです。下の息子の就職先も決まったから、子育てを終えた家内に対するプレゼントなのかもしれません。
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セラピー犬

2006-05-21 13:50:50 | 愛犬ゴンタ

 気持ちの良い朝を迎えました。庭の木々草花も若葉が映えて美しく、そのうえ晴れわたった爽快感、良いですね。そんな素敵な朝は決まって愛犬ゴンタとお散歩です。尻尾をふりふり軽快なテンポで歩くゴンタも、さぞかし気持ちが良かったのでしょう。
 ところで、昨夜は久しぶりにテレビドラマなるものを見てしまいました。夜の9時から始まった「ディロン~運命の犬」(NHK)です。連続5回の第1回目は「不思議の国から来た犬」でした。少し遅めの夕食をとりながら、何気なしに眺めていて、気がついたら最後まで見てしまいました。番組紹介サイトには、「一人の平凡な主婦が一頭の捨て犬と出会い、老人ホームや子供たちへの訪問、捨て犬の保護活動を始めることから、様々な人の心にふれ世界が広がっていく」とあります。ディロン役のゴールデンレトリーバー犬の表情もさることながら、改めて人とペットの関係というものを考えました。
 我が家の愛犬ゴンタは、今年7歳になります。もう少しで捨てられる運命にあったところ、心ある方の里親探しがきっかけで我が家にミルク缶をもってやってきました。まだ両手の上に軽く乗るほどの小さな身体でした。その後、すくすくと成長しました。ところが、わたしが留守中のある夜、何かの拍子に驚いたのか、家内の足をガブリ。救急車で病院に向かうという事件が起こりました。少し甘やかして育てたのが悪かったのでしょうか。家内も怖がるものだから、その後2ヶ月ほど警察犬訓練学校の合宿訓練に参加させました。可愛いさかりでしたから、苦渋の選択でもありました。...そして、2ヶ月後のある夜、若い調教師さんに連れられて、再び我が家に帰ってきたゴンタ。少し照れくさそうに、でも、すぐに気がついたのか、私や家内に甘えて纏わりついてきて、その夜はぐっすりと眠りました。翌日早朝、散歩に連れて行きました。どんどん一人で先に行こうとしていた以前のゴンタとは違い、私の足元に寄り添い、私の歩き方を横目でちらちら見ながら、歩調を合せて歩くゴンタがいました。「待て」「お座り」。飼い主にとっては申し訳ないほどに従順な愛犬ゴンタが、そこにいました。
 インターネットで、セラピー犬を探してみると、いろんなサイトがあります。概して、犬が傍にいるだけで脈拍が安定したり散歩による運動で規則正しい生活が送れるようになる「生理的効果」、犬が傍にいるだけで気持ちが落ち着き、優しい気持ちになる「心理的効果」などが紹介されています。そうなんだろうなぁと私も思います。ゴンタは、私の心なんかお見通しなんでしょう。きっと。そう思うと、私が愛犬ゴンタに生かされているという実感が強く沸いてきます。
 きょうは朝から、愛犬ゴンタとともに過ごしました。お昼前には、伸び伸びになっていた予防接種を受けるため、近くの動物病院に出かけました。

NHKテレビの番組紹介サイトは
http://www.nhk.or.jp/dodra/index.html

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NHK講座に学ぶ

2006-05-14 10:57:48 | Weblog
 奄美大島で入梅と新聞記事が伝えています。ここ大阪は、前日の雨のなごりで庭の草花に雨露が残りますが、明るい陽の光が眩く輝いています。ブルーベリーもいつの間にか開花の時期を過ぎて、実の形が見えてきました。花壇では、連休中に蒔いておいた花の種が小さな芽を出して、賑やかな花壇に生まれ変わろうとしています。そんな休日の朝、グレゴリオ聖歌のレコードを聴きながらの更新です。
 このところ、休日になると読書を楽しんでいます。昨晩は柳田国男の「遠野物語」を読みました。柳田國男のことは、白州正子さんに出会ったNHK講座「知るを楽しむ=わたしのこだわり人物伝」(2-3月期)の後半部分に登場していたので、少し関心がありました。仕事人間としての自分を強制的に切り離すのには、もってこいの楽しい本でした。少し子供っぽい好奇心をもって読みました。改めて講座テキストに目を通してみると、小林秀雄の柳田観が引用されていました。それは、先日ご紹介した小林秀雄の講演録CD「信じることと考えること」の引用です。文学者・柳田國男の晩年の作「故郷70年」から話題を得て、科学の方法と対比させる形で不思議な出来事に対するものの見方と考え方を説いています。
 白州正子、小林秀雄、そして柳田國男と、人のつながりを広げながら、日本の思想の原点を探す旅。楽しいですね。小林秀雄の「常識について」を読んでみると、デカルトの「方法論序説」を例に、常識、コモンセンスのなんたるかが記されています。西洋の思想をも学びつつ、より広い視野から日本を考え、自らの生き様を見つめる。いま、もっとも欠けている部分のような気がしています。
 ところで、新聞を読んでいたら、NHKの改革案のひとつに多チャンネルの是正、つまりBS、FM、AMについて統合整理をすべきではないかという見解が示されていました。AM放送である第一、第二の2チャンネルを一本にまとめろとでも言うのでしょうか。デジタル社会に疲れアナログの世界に心の安らぎを求める中高年のラジオファンの存在を無視してほしくない。少し腹立たしく思いました。CMという騒音から開放された静かな放送番組の存在は、決して小さくはありません。現役バリバリの世代も、少し時間を見つけては学習の場を求めます。それは、実務に直結するというよりも、もっと掘り下げた、もっと根源的な「人間」の在り方に思いをいたす貴重な時間でもあります。NHKが放送する各種の講座番組に、わたしはこの10数年の間、ずいぶんお世話になっています。西洋哲学史、イタリア史、ルネッサンス、地球学、西田幾多郎、心理学、歎異抄、禅、景観、日本学など様々な視点を学びました。書店に平積みされたビジネス書では得られない、もっと根源的なものの見方と考え方を、これらの講座を通じて学んだ(学びつつある)ような気がしています。NHKだけではありません。短波放送であるラジオNIKKEIにも、いくつか講座があります。田坂広志氏の「風の対話」などはよく聴きます。
 教育基本法の改正で文言の是非を政党の面子をかけて議論する前に、もっと手がける課題は多いのです。昨今の惨たらしい事件の多発を促したものはいったい何なのか。ただ単に経営効率優先の価値判断でものごとを解決できる問題ではないように思います。
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湖北の山小屋

2006-05-07 11:01:58 | Weblog
 お天気に恵まれたこの連休に、湖北の山小屋へ出かけました。ずいぶんご無沙汰でしたが、積雪の多かった今冬もなんとか凌いでくれて、萌える若葉が私たちを温かく迎えてくれました。森の木々だけではありません。すれ違う方々お一人お一人から、麦藁帽子をとって「こんにちわ」とご挨拶をいただきました。慌てて「こんにちわ」と。初めてお会いする方々が圧倒的に多いのですが、こんな自然な出会いに都会とは違う人の社会を思いました。考えてみれば、私たちは挨拶というものをしなくなったような気がします。通勤電車の中では、いつも同じ車両に乗る方々が多いのですが、よほどの知り合いでない限り挨拶なんかしたこともありません。変にしようものなら何か胡散臭い印象を与えてしまう。結局、みな押し黙って車窓を眺めるか、新聞を読むか、それとも携帯メールを器用に操るか。なんとも、味気ない人の社会を思います。だから、湖北の郷で、やっと人の情に出会う、そんなところが気に入っています。
 大雪のために故障したガス湯沸し器の修理をお願いしたら、元気なお兄さんがやってきてくれました。都会育ちの彼は、ここにきて4年を経過したのだと言い、今年の雪は例年になく多かったこと、お山の上では2メートルを優に越えていたこと、ゴールデンウィークは修理の依頼に追われて忙しいこと、修理を終えて帰る途中イノシシの親子に追いかけられたこと、連休が終わったらお休みをいただいて親元に帰る予定であることなど、楽しくお話してくれました。豊かな自然環境と村の人間関係に満足していて「あとはお嫁さんだけです」と。清清しい青年でした。
 私がこの村に来たのは、長男が中学校に進学した頃でしたから、もう14、5年が経過します。お休み毎にやってきては、山登りをしたり、川魚を採りに行ったり、少し遠出をして琵琶湖に泳ぎに行ったり、近くの温泉に行ったりしたものです。学年が進むと、長期休暇を利用して受験勉強の場になったりもしましたが、子供たちが巣立っていくと、夫婦だけで訪れる機会が多くなりました。里山を散策しながら、工芸用のアケビの蔓を採ったり、陶芸用の土を探したりと、ちょっぴり奥さん孝行もはじめました。その一方で、腕時計を外してオテントウサマの動きに我が身を委ねる生活時間に満足している自分自身にも気づきます。贅沢な時間を楽しみました。
 今回は、少し遠回りをして帰りました。そう、近江今津から船に乗って湖上に浮かぶ竹生島に上陸、神社仏閣を拝観して後、対岸の長浜市に向かいました。知らなかったのですが、長浜は、大河ドラマ「功名が辻」の主人公、山内一豊・千代ゆかりの地ということで大勢の観光客が訪れていました。人ごみを避けて小さな温泉宿に避難(?)して、一服して帰途につきました。
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