昨日今日と急に暖かくなってきました。桜も散り始め、いよいよ新緑の季節にまっしぐらです。そんなある日、ほぼ咲き終わったクリスマスローズの花後の管理に汗を流しました。花茎を切り、古くなった葉茎を整理し、お礼肥を施します。さっぱりした姿になりました。これで来年はまた美しい花を咲かせてくれることでしょう。
ところで、先週末、春の陽気に誘われて、山科から小関峠を越えて三井寺に行ってきました。京阪四宮駅を下車、琵琶湖疎水に沿って気持ちのよいお散歩を楽しみました。5キロほどの道のりです。まわりの景色を楽しみながら、時には鶯の囀りに耳を傾け、それほど起伏もない山道を歩いていると、何組かのハイキングの方々にお会いし、朝のご挨拶です。皆さん楽しく歩いていらっしゃいました。
小関峠にある峠の地蔵をお参りしたあと街に下ると三井寺の入口が見えてきます。長い急な石階段を登ったところに境内が広がっていました。お天気もよく、たくさんの花見客で賑わっていました。西国14番札所・長等山三井寺の観音堂をお参りして納経帖に記帳していただいたあと、広い境内を散策しました。
ちょうど、黛まどかさんの「奇跡の四国遍路」を再読したばかりです。次回は新緑の季節に、能「蝉丸」の舞台にもなった大谷から石山寺に向かう10キロコースに挑戦してみようかと思っています。
黛さんの著書を読んでいると、歩くことによって全身に五感が広がることが記されています。これは歩いた者でなければ分からない体験かもしれません。薄暗い山道、だだっ広い田園地帯、潮騒が聞こえる海岸沿いの山道。頼るのは時々見失いそうになる遍路道の矢印のみ。あとは、ぴ~んと張ったアンテナで自分の位置をなんとなく感じつつ、歩を進めることになります。それは人の生き仕方に近いものがありました。
そんなことを考えながら、京都三条駅まで戻ってブックオフに立ち寄りました。そこで目にとまったのが、若松英輔著「霧の彼方 須賀敦子」でした。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」。須賀敦子が著した「ユルスナールの靴」のプロローグの最初に出て来る言葉です。この言葉が、その後の私に「歩く」ことの意味を考えさせることになりました。
あと数年で後期高齢者になろうとしているのに、未だ立ち位置を見いだせないでいます。でも、そうこうしているうちに歳を重ねていくんでしょう。これもまた良し。心のアンテナを張って全身で春の息吹を感じつつ、もうしばらく楽しんでみたいと思っています。
大阪北部地震から1カ月が経ちましたが、その間にビニールシートで覆われた屋根が増えたように思います。見た目には大きな被害はなかったものの、家の構造にダメージを受けた家が散見されます。一方、我が家では、観音開きの食器棚から、大切にしていたグラスやお皿がこぼれ落ちて壊れたので、耐震補強をすることに。市の半額補助が適用される耐震器具を求めて近くの大型量販店に出かけました。
それにしても、暑いですねえ。やっとこさお店に到着すると、ひんやり感たっぷりの空間に、ついつい長居をしてしまい、要らぬものまで買って帰りました。
ところで先日、「ぶらり町歩きの会」で兵庫県たつの市に行ってきました。大阪から新快速で1時間あまり、姫路で姫新線に乗り換えて4つめの「本竜野駅」下車です。「たつの市」「本竜野駅」「播磨の小京都 龍野」と、様々な表記があって戸惑いましたが、とにかく、素麺「揖保乃糸」やヒガシマル醤油で知られた街です。そして今回のテーマは「童謡の里」でした。駅に到着するとプラットホームの一画に「夕焼け小焼け」の立像がお迎えしてくれました。
夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を 小篭に摘んだは まぼろしか
十五で姐やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた
夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先
龍野は、童謡「赤とんぼ」の作詞者であり、北原白秋と並んで近代日本を代表する詩人・作詞家として知られる三木露風の生誕地でありました。本竜野駅から10数分歩くと揖保川が見えてきます。川岸の向こうには鶏籠山の麓に龍野城があります。三木露風の生家はそのすぐ傍にありました。
猛烈な暑さのなか、文学の小径を歩いてしばらくすると、「露風の像」そして「赤とんぼ歌碑」に出会います。大正10年、露風33歳のとき、北海道トラピストより「樫の実」で発表したのだそうです。ふるさとの思い出と、幼き日の母の思い出を歌いました。歌碑の五線譜は山田耕筰の絶筆だとか。
蝉しぐれのなか、歌碑から流れる「赤とんぼ」の歌が心を和ませてくれます。播磨の、ひっそりとした龍野の街の歴史と文化を肌で感じた一日でした。
その日の最高気温は36.7度。元気なシニアたちは暑さにもめげず歩き通しました。あまりの暑さに、一時、計画の延期も話題になりましたが、コースの一部を短縮するなどして予定どおりの実施とあいなりました。さすがに歩き慣れたシニアたちです。ボランティアガイドさんの方がびっくりしていました。でも過信は禁物です。
話は変わりますが、きのうは水彩画教室のあと夕刻から、脳梗塞を患いリハビリに励んでいる仲間を励ます会を催しました。場所は、大川沿いにある旧桜ノ宮公会堂です。ライトアップされた重要文化財をバックに冷たいビールと美味しいBBQをいただきました。彼とは久しぶりの再会でしたが、持前の明るさと元気さにひと安心。しばし歓談をして天神祭の余韻を楽しみました。
さてさて、土佐の国への「歩き遍路」が迫ってきました。連日の猛暑にいくばくかの不安を抱いていたところ、台風12号の到来で暑さもひと段落かと思いきや、進路を大きく西にカーブして近畿・中四国を見据えています。おてんとうさまはなんと薄情なことか。天気予報では、高速バスで高知に向かう時間帯に大阪、淡路島界隈を通過するようで、となれば明石海峡大橋が不通になる可能性もあります。ということで、止む無く計画変更をすることにいたしました。8月の下旬あたりで再調整する予定です。世界的レベルで異常気候が続きます。
きょうは久しぶりに春らしい日和になりました。市内の画材屋さんに自転車でひとっ走り。シャドーグリーンとサップグリーンの水彩絵具を買い求めました。いろいろな草花が生き生きとするこの季節、身の回りに描きたいものが溢れています。
そんな4月の半ば、日本遺産に認定されたばかりの奈良県は橿原市の八木町と今井町を訪ねました。今回は24名の方々にご参加をいただきました。ボランティアガイドさんのご案内で、まずは近鉄大和八木駅にほど近い橿原市複合施設「ミグランス」(市役所とホテルの一体運営)上層階の展望室から市内の全貌を眺め、大和三山といわれる耳成山、香具山、畝傍山などの位置を確かめました。
八木町の歴史は古く、大阪から伊勢に通じる横大路(伊勢街道)と、京都・山城から平城京を経て吉野・紀伊に通じる下ツ道が交差する「八木札の辻」を中心に形成されました。江戸時代にはお伊勢参りや大峰山への参詣巡礼などで賑わったようで、「西国名所図会」にも「八木札街」として描かれています。当時の面影はありませんが、その絵に描かれた旅籠屋を覗き、その周辺の町並みを歩きました。
八木町から歩いて20分ほどのところに今井町があります。戦国時代、一向宗の門徒が御坊(称念寺)を開いた寺内町として形成され、自衛上武力を養い壕をめぐらした中世の町です。反信長の旗を立て城塞都市の形態を整えて抵抗したこともありましたが、明智光秀を介して降伏し事なきを得たのだとか。その後は自治権も認められ、都市としての体制を整えていきました。
今井町は、綿花栽培などで富を蓄え、両替商が栄える裕福な町になりました。夜な夜な大名たちがお忍びでやってきてはお金を無心したことがあったようです。東西600m、南北310m。周囲には環濠土居を築いた戸数1100軒、人口約4000人。南大和最大の商業都市だったとのこと。
現在、今井町一帯は重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。お土産店が立ち並ぶわけではなく、古いモノと新しいモノが共存し、ふだんの生活が営まれていました。床屋さんまで町並みに馴染んでいます。無電柱化の工事が進行中で、町をあげて古い町並みの保存に取り組んでいらっしゃるようでした。
豊田家、今西家、高木家など古い日本家屋も内部を見学(有料)させていただきました。慶安3年(1650年)築の今西家におじゃますると、土間の高い天井には大きな太い梁が三本横たわっています。家人の説明によれば、カマドの煤が長い年月をかけて梁の強度をより強くしているのだとか。ただ、昭和に入って解体修理をしたときに3本のうち1本を新調したそうですが、その一本だけが阪神淡路大震災のときにひびが入ってしまいました。木材の乾燥の仕方がお粗末だったこと、煤に塗れることがなかったことなどが原因のようでした。やはり古いモノ、古いコトには、それ相応の意味があるということなんでしょう。
御堂筋と呼ばれる細い町並みを歩きながら、ふと一昨年訪ねたドイツはローテンブルグの町を思い出しました。中世期には城壁内に約5500人が暮らし手工業の商業都市として栄えた町です。.......「石と煉瓦」と「木と漆喰」の違い、「教会」と「お寺」の違い、「城壁」と「環濠」の違いはあっても、中世の都市形成に共通するものを感じたのは私だけでしょうか。
ネットで導入講義を受講できるMOOCS(Massive Open Online Courses)で「都市史研究の最前線~大阪を中心に」(大阪市立大学)をお勉強した直後だったので、いっそう興味深いものになりました。
という次第で、今回も何かと気づきの多い街歩きとなりました。.........さあて、そろそろ頭の中を南イタリアに切り替えることにいたしましょう。江戸時代から古代・中世の南イタリアにタイムスリップです。.........次回のブログ更新は5月の初旬になる予定です。
付録:おもしろいお店を発見!「上品・美人お断り」
週の初め、伸び伸びになっていた清荒神さん(宝塚市)にお参りに行ってきました。火の神、台所の神と言われる荒神さんです。大阪駅で阪急電車に乗り換えるのですが、その前にお昼を食べて行こうと、大阪駅構内のLUCUA地下2階のバルチカに寄ってみると、なにやら20名ほどが並んでいるお店がありました。名づけて「海鮮が安いだけの店”魚屋スタンドふじ子」。お昼の人気メニューは数量限定の「すぐに売り切れ 幻のランチ」。お値段は、魚屋のやせ我慢価格の1000円とあります。楽しそうなお店なので20分ほど並んで入りました。量と味とも申し分のないランチでした(笑)。
お勘定をすませてお店を出たところで妙な看板に目が留まりました。いわく「上品・美人お断り」「お連れ様と確認してください」「当店は自分らしく あほらしく 気軽に楽しむお店です。あまりに品が溢れてる方は 審査あり」「店員は目が悪いため自己判断でお願いします」。これをやりすぎとみるか、大阪ならではの笑い(ウィット)とみるか、人それぞれですが、女性客に大うけだったのは、やはり大阪だから???
SNSの力でしょうか。平日のお昼時、店内は上層階に買い物にやってきた上品・美人の方々で溢れていました。やはり大阪です(笑)。この日の予定販売数は、私たちの5人ほど後ろの方で終了しました。
ヨーロッパアザミの「アーティチョーク」に、先日、15センチほどの花が開きました。この植物、古代ギリシアやローマ時代から健胃・強肝作用が知られています。すいぶん大きくなったので、そろそろ葉っぱを収穫して「アーティチョーク茶」でも作りましょうか。効能は「肝臓の解毒、消化促進、利尿など」。
ここ関西地方も梅雨明けが待ち遠しい季節になりました。そんな週の初め、家内のお供をして京都に出かけてきました。向かったのは祇園歌舞練場で開催中の「フォーエバー現代美術館コレクション 草間彌生 My Soul Forever展」。そのあと八坂界隈を散策しました。平日にもかかわらず観光客の多さに驚きます。
ところで、京の裏通りをぶらり歩いていると、ときどき「風の通り道」のようなものに出くわします。気温32度の昼間、目には見えないのに、ひんやりとした微風を肌に感じます。
この感覚、実は先週末、街歩きの会で京都・山崎の「聴竹居」を訪ねた時にも遭遇しました。こちらは、日本で最初に環境共生住宅を志向した建築家・藤井厚三氏の邸宅ですが、陽の光と自然の風をうまく家の中に取り込んでいる、そんなお洒落な日本住宅でした。実際に、窓の空き具合を少し変化させるだけでひんやりとした風を感じる、そんな体験をしました。部屋の入口側と窓側の寸法が微妙に違っていたりします。計算の結果であろうと、経験知であろうと、「風の通り道」を活かした家づくりに感心しました。室内の写真をネットにアップしてはならない決まりになっていますので、お見せできないのが残念です。
歌舞練場を後にして建仁寺を歩き、ぶらりぶらりと散策しながら八坂の塔をめざしていると、八坂庚申堂が現れます。境内には、手足をくくられて動けない姿をしたお猿のお人形が至る所にぶら下がっています?????。「くくり猿」と言われ、これに願い事を託して自分の「欲」を一つ我慢することで願いが叶うのだそうです。何をお願いしたのか、小さな境内は若い女性たちでいっぱいでした。
久しぶりに知恩院をお参りしました。そのあと、円山公園を通って帰ろうとしたら、なんとお馬さんがずらり。草を食んでいました。なんだろうと尋ねると、この日は祇園祭の神事があり、4時半から「お迎え提灯」の行列が八坂神社を出発するとのこと。じゃあ見物して帰ろうと歩いていると、境内の中にあるとあるお家から、お化粧をした子どもたちがぞくぞくと出てきました。慣れたもので、カメラマンの求めに応じて写真に納まったりもしていました。
いよいよ行列が動き始めます。目の前を「お迎え提灯」が練り歩きます。夢中で写真に収めました。そのあと少し早いめの夕食、冷たい美味しいビールをいただいて帰りました。この日の万歩計は1万5千歩を優に超えていました。
「祇園祭」。きょう7月15日は宵宮祭り、17日の山鉾巡行へとクライマックスを迎えます。そして来週には大阪で「天神祭り」があります。関西も本格的な夏を迎えようとしています。そんな三連休の初日の土曜日、孫君たちがお泊りにやってきます。
百鬼夜行という言葉があります。さまざまの妖怪が列をなして夜行することの意味ですが、縁台で夕涼みをしている近所のお爺さんから、怖い怖いお話を聞いた小さい頃の夏の思い出が微かに残っています。集まった子どもたちは、恐る恐るお爺さんの話に耳を傾ける......。蒸し暑さが続く夏の夜に、古き良き時代の遠い風景が蘇ります。
そんな7月の初旬、京都府ウォーキング協会の「百鬼夜行の通り」に参加してきました。その日の京都は晴れ、最高気温が33度にものぼる梅雨の合間の蒸し暑さのなか、11キロウォークに挑戦しました。ところが、ゴール直前の相国寺に至って、大粒の雨がポツリ、ポツリ.....。出町橋の麓に至ると雷鳴轟くなか土砂降りの雨。雨宿りをする場所もなく、急ぎ賀茂大橋を渡って京阪電車「出町柳」駅に辿り着いたときには、全身ずぶ濡れでした。
平安時代、京の夜は今のように明るくはなく、暗闇がひろがる百鬼夜行の街だったとか。協会の資料によると、「平安時代の人々は、現代人が失ってしまった霊的感覚(第六感)が敏感であったようです。だから”物の怪”を感知できたようです。鬼・妖怪・魑魅魍魎(ちみもうりょう)などの魔界の者たちが群れをなして大路を徘徊して、人々を襲う”百鬼夜行”が多発していた」。今回はそんな足跡を巡るものでした。真夜中のウォーキングだと子どもの頃の恐怖心がこみ上げてきそうですが、そうもいきません。昼の京の街を歩きました。
午前10時、JR二条駅を出発したあと、二条城の「あわわの辻」→二条公園「鵺池」→地蔵院→大将軍八神社→大将軍商店街「一条妖怪ストリート」→東向観音寺「土蜘蛛塚」→北野天満宮東門→上七軒→浄土院→千本今出川→橘児童公園→晴明神社「一条戻り橋」→一条通り→京都御苑「猿が辻」→相国寺「宗旦狐」→鴨川河川敷に至る行程でした。
まずは二条大路と大宮大路とが交わるところに、妖怪(鬼)たちの行列、百鬼夜行と出くわすという「あわわの辻」がありました。びっくりした人があまりの怖さに「あわわ」と言って腰を抜かしたことからこの名がついたそうですが、初っ端から怖そうな所を歩きます。といっても今は車の往来の激しい通り沿いです。
その北西にある二条公園には、鵺池(ぬえいけ)があります。「サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足をもち、尾はヘビ」という鵺の妖怪が、妖怪退治の英雄・源頼政が放った矢にあたって奇妙な鳴き声をあげながら落ちたという伝説の池です。退治した鵺の死骸は見世物として都中に引き回されたそうですが、疫病がはやったため死骸はバラバラにされ丸木舟に乗せて鴨川に流したと言われています。このお話し、実はことし3月、山本能楽堂であった企画「流されて~能と落語と文楽と」のなかで、能楽師・山本章弘さんから伺ったことがあります。妙なところで遭遇したものです。ちなみに現在の鵺池は、近年整備されたもので、かつての面影はありません。
次に、西大路通りを北上して、平安時代の一条通り(大将軍商店街付近)に向かいます。夜の町辻を妖怪が行列をなして行進したという百鬼夜行の怪異伝説をもとに、商店街活性化の一環でしょうか、「一条妖怪ストリート」の旗が立ち並びます。昼間だというのに、お店の前に妖怪のお人形もちらほら。お店の2階にもいくつかの妖怪がいました。
北野天満宮の鳥居を横目に左に入ると、東向観音寺が見えてきます。その境内の奥に「土蜘蛛塚」はありました。配付資料によれば、「病床の頼光が大入道に襲われたが、枕元にあった名刀で切り付け難を逃れた。頼光は渡辺綱らに探索を命じ、血痕を辿ると塚があり、塚の中にいた人の背丈もあろうかという大きな土蜘蛛を退治したところ、頼光にとりついていた悪病もみるみる快方に向かった」のだそうです。医術が未発達の時代、こうした謂れは民衆にとって切実だったのでしょう。ちなみに、境内の看板には「土蜘蛛とは、我が国の先住穴居民族で背が低く、まるで土蜘蛛のようだったといわれる」と記されていました。
智恵光院を経て、次に向かったのは陰陽師・安部晴明を祀る晴明神社でした。境内には、100メートルほど南にある「一条戻り橋」を復元した橋がありました。源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所としても有名で、現在でも「戻る」を嫌って嫁入りや葬式の列は、この橋を渡らないのが習わしなんだそうです。安部晴明は十二神将の式神を橋の下において、必要な時に召喚して吉凶の橋占いをしていたのだとか。
いよいよ京都御苑に入ります。お目当ては京都御所東北角の「猿が辻」です。築地塀が折れ曲がった部分の屋根裏に、一匹の木彫の猿がおいてあります。烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社(大津市の日吉神社)の使者なのだそうですが、夜になるとこの付近をうろつき、通行人に悪戯いたずらをしたため、金網で封じ込められているのだと。なんとも楽しいお話しです。
京都御苑を出ると、今出川通りをわたり、同志社大学正門を横目に相国寺に向かいます。レンガ造りの同志社大学啓明館(旧図書館)、アーモスト館、致遠館が立ち並びます。いずれもヴォーリズの建築です。
この日最後のお話しは相国寺の「宗旦狐」でした。配付資料によれば、「偽りの千宗旦(千利休の孫)がお茶を点てたあとその場を去ると、もう一人の宗旦(本人)が遅刻したことを詫びながら登場するということが何度か起きた。弟子たちは宗旦の偽者がいると考え、あらかじめ宗旦の居場所を確認したうえで、茶会に現れた偽者の宗旦を問いつめた。すると、寺に住みついている狐であると白状し、狐の姿に戻って逃げていった。それからしばらくすると、宗旦狐は、宗堂で座禅をしたり托鉢に行くようになり、寺のために尽くした」のだそうです。境内の宗旦稲荷社には、千宗旦に化けた狐が祀られていました。
このお話しを聞いた直後に雨が降り出し、間髪を容れず土砂降りの雨に祟られました。「宗旦狐」の顰蹙でも買ったのでしょうか。クワバラ、クワバラ。
どうも最近、天候の変化が激しい。北九州地区では未曾有の大災害に見舞われています。被災地の皆様には心からお見舞い申し上げます。地震といい大雨といい、自然災害が目立って多くなりました。G20では、地球温暖化対策の国際的な枠組み「パリ協定」協議が難航しているようですが、地球という巨大なシステムに見えない負荷がかかっていないかどうか。森に元気がないのも気になります。人間の行為が災いしていることがないかどうか。ひょっとしたら、非科学主義のなかにさえ何かが隠されているかもしれません。この機会に冷静に幅広に検証してみる必要がありそうです。
今週は出かけることの多い一週間でしたので、珍しく2日連続のブログ更新です。まずは先日、仏像鑑賞会の催しで京都は宇治に行ってきました。関西人にとっては定番のコースですが、ボランティアガイドさんの説明を聞きながら、平等院(1052年創建)で平安時代後期の阿弥陀如来座像とご対面、そのあと鳳翔館で雲中供養菩薩像ほかを鑑賞しました。
午後は、宇治上神社にお参りしたあと、平等院から敦賀を経て大陸を見通す「北陸古道」を歩いて三室戸寺(770年創建)に向かいました。この日の気温は30度。汗をかきながらも、時折心地よい微風に励まされ気持ちの良いウォーキングができました。
三室戸寺は、昨年もこの時期におじゃましたお寺です。梅雨入りしたのにいっこうに雨が降らない時節柄、アジサイも元気がありません。それでも、精一杯の姿を披露してくれました。
三室戸寺は西国三十三霊場のひとつ、10番札所です。正式には「明星山三室戸寺」といい、創建は770年、ご本尊は千手観世音菩薩です。なにやら四国八十八カ所のようです。納経所で「納経帳」を求め、一筆したためていただきました。西国三十三霊場は近畿一円に点在していますから、これからはお参りするたびに朱印をいただくことにいたします。
そしてきょうは、大阪市中央区今橋の大阪倶楽部(1924年竣工)におじゃましました。1920年代の大阪建築界のホープである安井武雄(片岡建築事務所)の初期の作品で、大正モダニズムの名建築と言われています。 実は、読売新聞社「わいず倶楽部」が参加者(定員20名)を募集していた、「大阪倶楽部での午後の室内楽&館内見学」に当選したからです。大阪倶楽部の歴史を聞いたあと、館内をいろいろ見て回りました。ちょっとした調度品に大正昭和の香りを感じました。
4階のホールで開催された「午後の室内楽」は、ヴァイオリンの中田潔子さん、チェロの渡邉辰紀さん、ピアノの山本美穂さんのピアノ三重奏で、バッハのシャコンヌ、フォーレの「夢のあとに」、ラヴェルのピアノ三重奏曲などを楽しみました。およそ300名ほどの方々がお集まりでしたが、わたしは最前列の演奏者の前に陣取って聴き入りました。
最後に余談をひとつ。きのう内視鏡検査を受けました。朝の9時から始まって、終わったのは午後1時前。モニターに映し出される大腸の中を眺めていると、自分が「生き物」であることに改めて気づきます。
先生から「きれいですねぇ」と言われながら見入っていると、「あれっ」と先生の手が止まります。素人でもわかるポリープが数個あります。「4ミリほどだから、どうだろうねぇ。とりあえず生検(組織採取)しておきましょう」と。4年前より数が増えています。さあてどうなんでしょうね。乞うご期待ということにしておきましょう(笑)。
美術講座で水彩画のお勉強を始めました。小中学校以来、お絵描きの世界とは縁がありませんが、なんでも挑戦してみようと、画材を揃えて授業に臨みました。入門的な講義を聴いたあと、まずは鉛筆で自分の手を描いてみる。次に、持参したモチーフを描いてみる。理屈ではなく、描く対象と真正面に向きあって感じたままを描く.....。なんとなく面白くなってきました(笑)。この秋から、ご指導いただいた先生の水彩画教室に通ってみることにしました。だめですねえ。関心が次から次へと広がってきて(笑)。
絵を上手に描くことはできなくても、絵を観たり、歴史的な名建築を体感するのが好きな私です。今月の街歩き企画は「ヴォーリズ建築」をテーマに、兵庫県西宮市の関西学院大学と神戸女学院大学におじゃましました。
まずは関西学院大学の上ヶ原キャンパス。ここには時計台をはじめヴォーリズ設計の建物が16棟もあります。そのコンセプトは「赤い瓦屋根とクリーム色の外壁を特徴とするスパニッシュ・ミッション・スタイル」でした。
時計台2階の大学博物館におじゃますると、窓の形がいかにもヴォーリズらしく、また、窓ガラス自体にも趣きがあって、古き良き時代を彷彿とさせます。過去何度かおじゃましたことのある大学ですが、いつ来ても素晴らしいキャンパスでした。ちょうどこの日は、ランバス記念礼拝堂で結婚式が行われていました。
関西学院大学の正門を出てしばらく歩くと、神戸女学院大学が見えてきます。実は7年前、東京出張の折に空き時間を利用して、エッセイストの須賀敦子さんが学んだ聖心女子大学を見学に行きましたが、正門で守衛さんに制止された苦い経験があります(参考:2010年1月31日付記事「有栖川記念公園界隈」)。もちろん今回は事前に見学の申し込みをさせていただきました。
案内パンフレットによると、神戸女学院は、神戸山本通からこの岡田山キャンパスに移転するにあたり、1929年、新校舎の設計をヴォーリズ建築事務所に委託しています。ヴォーリズの妻である一柳満喜子が神戸女学院ピアノ科の1期生だったこともあり、ヴォーリズは特別な思いを込めてキャンパス全体の設計にあたったのだそうです。
その設計思想は、「美しい心を育むための品格ある建築」「建物それ自身が生徒の上に積極的影響を及ぼす」ものだったとか。「学舎が教育する」というヴォーリズの思想が、神戸女学院のリベラルアーツ教育の理念と合致すると謳っています。
図書館、総務館、文学館、理学館に囲まれた内庭、そして礼拝堂、講堂。そして廊下と階段。どれひとつとっても、ヴォーリズらしい心配りが感じられる温かみのあるキャンパスでした。
12棟の建物が国の重要文化財に指定されています。戦時中には、校舎を徴用されたり、調度品に用いられた鉄類を供出させられたり、焼夷弾の被害を受けたりもしたそうです。近年では阪神大震災でも被災しましたが、その都度改修を重ねてヴォーリズ建築を守り、それを教育の場として今も活用されています。そんな大学の姿勢に好感をもちました。素晴らしい大学でした。
若い頃、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、バーミンガム大学、ロンドン大学、ローマ大学、ナポリ大学、ジュネーブ大学、ハイデルベルク大学、ゲーテ大学、パリ大学ソルボンヌ校などを、急ぎ足で巡ったことがあります。広大なキャンパスにある大学、街の中に溶け込む大学、様々な大学の在り様を見て回りましたが、どの大学にも確固とした設計思想がありました。ちなみに、今秋計画しているカナダ・アメリカ旅行では、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学にも立ち寄る予定です。
今週はふた晩続きで荒天候に襲われました。遠くで雷が鳴ったかと思うと、急に風が強くなり、雨が地面を叩きつける。びっくりです。でも、翌朝は何事もなかったようなお天気。おてんとう様はよほど腹立たしいことがあったのでしょうか........。
気がつけばもう6月、梅雨の季節を迎えようとしています。昨年末ウィーンで買ったカレンダーの今月の写真はベートーヴェンでした。さあて、ことしはどこに行こう。家内と話し合った結果、昨年予約できなかった紅葉のカナダ&アメリカに行くことにしました。
さて、明るい青空が広がった昨日は、街歩き企画の下見のため、大阪と京都の中ほどに位置する山崎界隈におじゃましました。あいにく大山崎山荘美術館は工事のため休館中でしたが、世界的にも注目される文化遺産「聴竹居」、千利休ゆかりの国宝茶室をもつ「妙喜庵」などの位置を確認し、歴史資料館などを見て回りました。これにサントリー山崎蒸留所を加えれば、なんとか形になりそうです。初夏の陽光に青葉が映える、そんな街を歩きました。
「歩く」と言えば先日、京都のウォーキング協会主催の企画に参加してきました。テーマは「都の御所めぐり」。その昔、天皇はじめ皇族方の邸宅だった御所8カ所を巡る22キロの道のりです。朝9時に嵐山中之島公園に集合したあと、嵯峨御所(大覚寺)→御室御所(仁和寺)→花園御所(妙心寺)→花の御所跡→京都御苑(京都御所、仙洞御所)→二条御所→六条御所(長講堂)を経てJR京都駅をめざします。徒歩22キロという距離は、わたしにとっては最長の距離でしたが、なんとか歩き通すことができました。
まずは嵐山の目抜き通りを通って嵯峨御所をめざしました。行く先々でスタッフの方が御所の案内板を掲げていただけるので助かります。ここ大覚寺は、9世紀に嵯峨天皇の離宮嵯峨院を寺院に改め、歴代の天皇や皇族が住んだところです。般若心経の根本道場でもあります。田植えが終わったばかりの初夏の農道を歩いていくと、日本三大名月鑑賞地として知られる大沢池に到着します。
次に向かったのは仁和寺です。宇多天皇が仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだことから「御室御所」とも呼ばれています。かの大手電気機器メーカーであるオムロン創業の地でもあります。
かつて花園御所と呼ばれた妙心寺は、現役の頃、管理職研修の一環として十数名の幹部候補生を連れて座禅研修をしたことがありました。不慣れな正座に難儀し、急には立ち上がれなかったことを覚えています。(笑)
二条城に隣接する公園で昼食休憩をとったあと、一路北上します。「花の御所」は、同志社大学今出川キャンパスの烏丸通を挟んで向かい側にありました。14世紀の頃、足利義満が造営した将軍家の邸宅「室町殿」ですが、崇光天皇の仙洞御所で、四季の花木を植え、花亭・花の御所と呼ばれていたそうです。知らなかったなあ。
大学の正門を横目に京都御苑に入ると、京都御所、仙洞御所と通過していきます。そうそう、広大な御苑の一画に人だかり。よく見るとセンダンの花が満開でした。センダンの木全体が淡い紫色に染まっていました。
京都御苑を出て南下していくと、烏丸御池の京都国際マンガミュージアムのある場所に、かつての二条御所跡(二条殿)がありました。ありますといっても、今は石碑があるだけで、かつての面影はありません。案内板によれば、16世紀の後半、足利義昭の二条城を廃して織田信長の京屋敷として造られたものだそうです。後に信長はこの屋敷を誠仁親王に譲ったことから、以後、二条御所(誠仁親王御所)と呼ばれています。現在の二条城は地下鉄でひと駅ほどのところにあります。
烏丸通をさらに南下し五条通で東に折れてさらに住宅街を南下していくと、京都タワーが見えてきます。いよいよ最後の御所「六条御所(長講堂)」が、住宅街の一画に突然現れます。後白河天皇の持仏堂なのだそうです。残念ながら、わたしは日本史に詳しくありません。(笑)
こんな調子で、22キロを歩き通しました。歩き終えたあとの生ビールの旨いこと。仲間としばし歓談をして帰途につきました。この日は先頭集団のスピードに合わせたためか、中間地点を過ぎたあたりから右足の付け根に違和感があり、その日の夜までなんとなく痛みが残りました。今ではすっかり治りましたが、今年中に30キロのペースをつかみ取りたいと思っていますので、これからは股関節のストレッチをきちんとして臨むことにいたします。
ゴールデンウィークの半ば、京都市勧業館みやこめっせで開かれた「春の古書大即売会」を覗いてきました。主催する京都古書研究会が創立40周年ということで、なかなかの賑わいでした。この日、わたしが手にしたのは、メレル・ヴォーリズ・一柳著「東と西の詩集」、福岡伸一著「フェルメール 光の王国」、白洲正子著「西国巡礼」の3冊でした。
そのうち、英文併記の「東と西の詩集」(近江兄弟社)は、ヴォーリズの死後に編纂されたものでした。ヴォーリズといえば明治38年(1905年)、英語教師として来日し、滋賀県近江八幡の商業学校で教鞭をとり、その後伝道、建築、教育、医療、事業(メンソレータム)と多岐にわたって活動した人であり、昭和39年(1964年)、7年間の病床生活を経て83歳で亡くなるまで「隣人愛」を貫いた人でありました。その命日が、きょう5月7日です。
わたしのヴォーリズとの出会い。それは関西を中心に全国にボーリズ建築の名を馳せた人であり、医薬品メンソレータムの販売をてがけた近江兄弟社の設立に関与した人であり、同志社大学カレッジソングを作詞した人であり......。そうそう、2年前のNHKテレビの朝ドラ「あさが来た」の主人公・廣岡浅子の娘・亀子と結婚した一柳恵三の妹・満喜子と結婚した人でもありました。そんな断片的な情報のなかでぼんやりとした接点がありました。
数年前、広島勤務の時に、ヴォーリズ記念病院ホスピス病棟の日常を追ったドキュメンタリー映画「いのちがいちばん輝く日~あるホスピス病棟の40日~」を見て感動したことも強く心に残っています。そのことは2013年12月1日付の記事「人の幸せってなんでしょう」でも少し触れています。(下の写真は小さな山の麓にあるボーリズ記念病院)
そんなこともあって、ゴールデンウィーク後半の一日、ヴォーリズが残した建築物に触れるため、近江八幡市にでかけました。朝7時半に家を出て、JR近江八幡駅に到着したのが10時過ぎ。地図を片手に街歩きです。まず向かったのは池田町洋風住宅街。ウォーターハウス(旧ウォーターハウス邸)、吉田邸、ダブルハウスなどを見て回りました。
次に向かったのは、ヴォーリズ建築第1号のアンドリュース記念館(旧YMCA会館)と旧八幡郵便局舎、そしてヴォーリズ記念館(ヴォーリズ私邸)とヴォーリズ学園ハイド記念館。運よくウォーターハウスとアンドリュース記念館の2館は特別公開をしていました。
ヴォーリズは米国コロラド大学を卒業していますが、建築を専門的に学んだことはありません。ガイドブックには、「建築をキリスト教精神の表現と捉え、住む人、使う人のことを最優先に考えた」と記されてあります。「簡素ではあるけれども豊かなデザインと親しみやすく包容力のある空間を有している」とも述べてあります。専門的なことは分かりませんが、なにかしらほっとする空間を随所に感じたあたりに、ヴォーリズ建築の真髄のようなものがあるのでしょう。
せっかくここまで来たのだからと、昼食を済ませると、重要文化的景観選定第1号といわれる「近江八幡の水郷めぐり」に向かいました。市街地から乗り場まではけっこうな距離がありましたが、穏やかな陽気に誘われて、歩くことに。この日ばかりは家内も気持ち良さそうに歩いていました。
琵琶湖からは少し奥まったところにある「西の湖」がその舞台です。昔はいくつもの島を結ぶ足として活躍した「手こぎ舟」に乗って、およそ1時間、ヨシキリの囀りをまじかに聞きながら、まったりとした時間を楽しみました。
近江八幡漫遊の旅は、まだまだ続きます。次に向かったのは日牟禮八幡宮です。その界隈に、もうひとつのヴォーリズ建築であるクラブハリエ日牟禮館(旧忠田邸)があります。でも、家内は建物よりもクラブハリエに関心がありそうです。バームクーヘンなどの洋菓子で有名なお店で、大勢のお客さんで満員でした。ずいぶん待たされましたが、ここで小休止です。
そして最後は、ロープウェイで八幡山(272メートル)山頂に登って近江八幡全景を眺めることに。このお山はその昔、豊臣秀次が築城した城の跡ですが、いまはその菩提を弔う村雲御所瑞龍寺があるだけです。
ずいぶん欲張った近江八幡漫遊の旅でしたが、なにかしら心地よい疲労感が充満した一日でした。それは近江八幡の落ち着いた佇まい、隣人愛を基調とするヴォーリズの人となりに建築作品を通じて触れたためなんでしょうか。3年前に記した「人の幸せってなんでしょう」というテーマを、いま改めて問い直すことにもなりました。
きょうは今月から始まった公開講座「音楽の楽しみ」を受講してきました。心斎橋にあるスタジオ風の小さな会場に70人余りが集い、第1回目のきょうは、新進気鋭の若手声楽家(ソプラノ、アルト、テノール、バリトン)&ピアノのアンサンブルで、バッハ、モーツアルト、メンデルスゾーンなどの歌を楽しみました。演奏者と受講者との距離が近い、そんな一体感に溢れた雰囲気が気に入りました。
その行き帰りの電車の中で、歩き遍路のことを綴った辰野和男氏の「四国遍路」(岩波新書)を読んでいました。この本、1年前に読んだことがあり、このブログでも「からだで感じることを大切にしたい」(2016年5月21日)の中で紹介しています。
実を言うと、昨年7月から毎月1回のペースで出かけてきた四国遍路の旅(バスツアー)が、6月には結願の予定なのに、いまひとつ達成感らしきものが沸いてこないのです。さてさてどうしたものか。そんなわけで、昨年出かける前に集中的に読んだ四国遍路に関する本を、いま読み返しています。知識としてのお遍路ではなく、この10カ月の間、実際に肌で感じたお遍路の旅を思い返しながら、読み返しています。
〇お遍路の基本は、二本の足を交互に動かして前に進むことだ。三百数十万年前、人間が人間になったときのもっとも原初的な動詞、つまり「歩く」ということを日々の営みの中核にすえることから、お遍路は始まる。
〇歩き続けるうちに、歩くことをおろそかにした現代人がいかにして距離感覚を壊してしまったのか、ということに気づく。
自動車による距離感覚、新幹線による距離感覚、飛行機による距離感覚.........。移動手段によって異なる距離感覚が、「歩く」という身体機能としての距離感覚を限りなく退化させてしまってはいないか。それがために全身機能のどこかに変調をきたしてはいないか。
〇歩くことで自分を磨く。自分に向き合う。周囲を見直す。そういう修業の大切さを住職は説いた。それはつまり、大自然のなかに身をおいて、自分の既成の殻を激しく突き破ってゆくことなのだろう。
ここまでいくとある種の精神論になってしまいますが、でも、距離感覚の喪失が、ものを見つめる視点に揺らぎをもたらしてはいないか。刹那的な現象が垣間見える世の中で、時代を見つめる座標軸そのものが揺らいではいないか。そもそもバスを利用した四国遍路に一定の限界があるのではないか。行く先々で長い参道を歩き、何段もの石段を登っていったとしても、千数百キロの道のりからすれば、歩いたことにはならないほどの僅かな距離でしかない。......そのあたりに、なにがしかの不足感が見え隠れしていそうな気がしています。
先日、京都の阪急嵐山駅から新大阪駅まで50キロの道のりを独りで歩いた知人がいました。10時間かかったのだそうです。健脚揃いの昔の人なら、もっと短い時間で移動できたのでしょうが、それはともかくとして、彼は「歩く」ことで距離感覚を蘇らせることができたと言います。これを基本に、馬に乗れば何時間かかるのか。舟に乗れば何時間かかるのか。蒸気機関車に乗れば何時間かかるのか。生身の人間の距離感覚を軸に、他の交通手段との比較を通じて自分の立ち位置を知ることになります。こう考えると、私はまだまだ修行が足りませんねえ。
先日は京都のウォーキング協会主催「比叡山麓・石積みの門前町と湖畔ウォーウ」(健脚コース16キロ)に出かけてきました。午前9時、JR比叡山坂本駅前を出発して、若葉萌える湖北の里を歩いて一路西教寺へ、そして日吉大社へ。そこから古い街並みを南下して唐崎神社へ。昼食休憩のあと琵琶湖湖畔を北上して出発地点に戻る、そんなコースでした。
大津市の坂本界隈は、空海と同時代に生きた最澄が生まれたところです。門前町というだけあって、街のあちらこちらに小さなお寺やお宮があります。この地独特の石積みが、古い街並みに調和して、なんとも落ち着いた雰囲気を漂わせていました。
水の温む季節ともなると、湖畔には釣りを楽しむ人がいます。大学のヨット部が帆を広げて出航していきます。なんとも長閑な春の風景が広がっていました。
「歩く」と言えば先日、「街歩き」企画第2弾として、中之島から船場に至る三休橋筋をぶらり散策しました。参加者は総勢24名。まずまずの出足です。お目当ての中之島図書館(1904年)と綿業会館(1931年)では、担当の方に建物の生い立ちを詳しくご説明いただき、館内を案内していただきました。街歩きの途中に立ち寄った船場ビルディング(1924年)では、内庭を囲むように事務所、雑貨店やギャラリーが入居していて、まさに「使い込まれたモダンビル」といった風情。戦争を生き延びた明治・大正・昭和初期の建築物、しかも今なお使われている現役の建物に、人の温もりと歴史の重みを感じたものです。
きょうも、あっちに行ったりこっちに行ったりと落ち着きのない文章になってしまいました。それでも「歩く」という路線から外れないように留意したのですが、どうなんでしょう。カテゴリーは「ウォーキング」に設定しました。できれば暑くならないうちに、比叡山坂本から比叡山に上り、反対側の吉田神社に抜ける山道16キロを歩いてみたいと思っています。