心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

小林秀雄の「本居宣長」を眺める

2006-03-26 14:34:59 | Weblog
 きのうの晴天とは打って変わって、きょう日曜日の天候は曇り時々晴れ。愛犬ゴンタと朝の散歩にでかけると、薄曇を通して陽の光がぼんやり輝いていました。弥生3月も、あと5日です。
 さて、きのうの朝日新聞夕刊「新:風景を歩く」は、小津ロマンの故郷「松阪」でした。何年か前、私は職場の小旅行で松阪の街を訪ねたことがあります。戦国大名蒲生氏郷が築城した松阪城址、武家屋敷、本居宣長の旧居跡、そして伊勢商人といわれる豪商宅跡などを見て周り、夕刻には美味しい松阪肉を存分に味わいました。本居宣長については、記念館でいろいろ見て回りました。ただ、どちらかといえば物見遊山の域を出ず、多彩な人だったんだなぁという印象が僅かに残っている程度です。もちろん、かの映画監督・小津安二郎が育った街であることは、この記事を読んで初めて知りました。
 なぜ、こんな話題を持ち出したかと言いますと、実は、NHKテレビ講座「知るを楽しむ~私のこだわり人物伝~」で白洲正子さんに出会い、白井さんの著書を何冊か読んでいくなかで、彼女が小林秀雄氏と交友があったことを知ったのです。小林秀雄氏については、私なりに苦い思い出があって、高校時代は文章の難しさに閉口しました。それがまた入試問題に結構登場するものだからたまらない。苦労しました。でも50を過ぎたのだから、少しは心のゆとりをもって理解できるようになったのだろうと思い、先日、とある古書店で「考えるヒント」2冊を千円で買い求めました。先週は祝日もありましたので、意外と楽しく読み進むことができました。その余力をかってさらに昨日、これまた古書屋で部厚い「本居宣長」なる書物を千二百円で手に入れたのでした。600頁にも及ぶ大作ですから、当分は眺めておく程度になるのかもしれません。
 これまで外国の文化にばかり関心が向き、日本という足元がおざなりになっていたように思います。人生も後半を迎えるのを期に、少し軌道修正を試みることにいたしました。それを通じて、残された人生のあるべき姿を追ってみたい。そんな思いが、春の訪れと共に強くなりました。ちょうど、そんなことを考えていた矢先に、この新聞記事に出くわしたのです。いよいよ「新学期」も間近です。
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ユビキタス社会に思う

2006-03-19 16:12:21 | Weblog
 このところ、雨が降ったりやんだり急に明るい日差しが表れたりと、目まぐるしく変化する天候が続きます。春に向けてオテントウサマが準備体操をしているかのようです。それでも私には、寒い季節が終わりを告げて暖かい「春」がすぐそこにまで近づいているという期待感のほうが大きく、不順な天候を受け止める気持ちはおおらかです。
 そんな季節の変わり目に、長男君が久しぶりに我が家に帰ってきました。それもお友達を連れて。同じ職場に勤めながら、転勤で東京と鹿児島に分かれて暮らしてきた二人が、いよいよ結婚を決意したようです。親としては安堵というべきか、よくも長い間、遠くに離れていながらお付き合いが続いたものだと感心したものです。最近は、携帯電話あり、インターネットあり、それに飛行機に飛び乗ればすぐ会えるわけですから、それほどに距離感は感じなかったと。お互い仕事が忙しかったのも逆に良かったのかも知れません。こうして我が家に新たなメンバーが加わるとなると、嫁いだ娘も含めて全員集合です。昨日今日と久しぶりに全ての部屋が満室になる賑わいでした。愛犬ゴンタまでが愛想を振りまく始末です。
 我が家も、就職活動を始めた次男君が卒業すれば、来春には子供たち全員が思い思いの方向に巣立っていくことになります。1人ぐらいは家に残ってくれればという思いもなくはありません。しかし、彼らを拘束はしたくないという気持ちが一方にはあって、「どこにでも好きな所に行っといで」と強気にエールを贈ります。悩ましいところです。悲喜こもごもの子育てを終え、けっきょく最後は家内と二人になる。複雑な思いもします。
 先日、ロボット関係の某研究所におじゃまして、未来のユビキタス社会を先取りしたモデルルームを拝見させていただきました。可愛いロボット君と会話しながらテレビをみたり料理をしたり。気持ちの良い目覚めをしたり。隣の部屋では遠隔地から介護サポートをする実験も行われていました。なかでもロボット君との会話は、思いのほか深みがあって、技術の進歩に驚きました。未来の技術社会にある種の期待感を抱きながらも、しかし私には人間に優しいユビキタス社会を夢見るほどにオプティミストにもなり切れません。人間が創り出すユビキタス社会が、家族の絆、人間社会の絆の強化に、どこまで温かい手を差し伸べてくれるのか。そう考えると、やはり最終的には個々の人間の「こころ」の在り様にかかっていることに気づきます。技術は道具と場を提供してはくれるけれども、人と人を繋ぐ絆は、技術で代用することはできないのです。
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西本智実さんのチャイコフスキー未完成交響曲

2006-03-12 11:43:40 | Weblog
 あいにく今日は小雨が舞う休日となりました。それでも、公園では梅の花や桃の花が満開です。レンギョウの花も咲き始めました。大きな柳の樹の枝先には淡い緑芽が急に目立っても来ました。日一日と春めくこの頃で、気分も心なしか爽快です。
 そんなウキウキ気分に誘われて、昨日は勤め帰りにコンサートのチケットを買い求めました。チャイコフスキー財団ロシア交響楽団の首席指揮者をつとめる西本智実さんが、同楽団を率いて全国各地で演奏する、チャイコフスキー未完成交響曲「ジーズニー」日本初演ツアー2006です。いつだったか、チャイコフスキーが残した未完成の交響曲の楽譜(第一楽章のみ)が見つかったという新聞記事を読んだことがあります。その日本初演というわけです。西本さんの演奏はDVDで拝見することはあっても、直に聴くのはこれが初めてです。実は昨年の夏、チケットを購入していながら、急に仕事が入って行けなかったという苦い経験をしていますから、今年は何としても実現したいと思っています。
 ところで、昨日の朝日新聞「be on Saturday」に掲載された、アンケート”2,838人が答えました『ふだんクラシック音楽を聴きますか?』”を楽しく読みました。それによると、「聴く」と答えた方が56%。理由を尋ねると、「聴くと落ち着く」からが1,141人、「好きな作曲家がいる」が514人など。アンケート回答者全員に聞いた「好きな作曲家」は、モーツアルトが断トツの第1位。2位がショパン、3位がベートーベン、4位がチャイコフスキーとなっていました。私の好きなグスタフ・マーラーはと探してみると、なんと15位でした。14位がリスト、16位がラベル、17位がヴェルディ、18位がプッチーニとなると、どうやら少数派のようでした。
 ところで、最近、レコードをよく聴きます。毎日へとへとになって帰ってきて、夜遅く、ふっと息をつくことができるからです。CDと違い、レコードは片面20分程度。その短い時間でこころを癒すことができます。だからというわけではありませんが、昨日は、もうひとつお買い物がありました。中古レコードです。「プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番ハ長調」「ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調」でマルタ・アルゲリッチのピアノ、クラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。1967年の演奏ですからずいぶん古いのですが、以前から探していたものでした。
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春めく

2006-03-05 17:51:44 | Weblog
 きょうは「快晴」。明るい陽の光に目覚める贅沢な一日の始まりでした。朝食もそこそこに庭に出てみると、気づかないうちにクリスマスローズが満開です。ブルーベーリーの花芽も大きく膨らんで、長かった冬がそろそろ店じまいを始めた様子です。
 そんな陽気に誘われて、今朝は自転車に乗って近くのホームセンターに出かけました。熱帯魚の餌が少なくなってきたからなのですが、店先には花の苗がたくさん並び、ここだけはもう春一色でした。買い物を済ませたあと、ペットコーナーに立ち寄りました。お店の方針なのでしょうか、子犬、子猫、熱帯魚、淡水魚、爬虫類、小鳥たちが、手入れの行き届いた快適な環境の中で飼い主を待っていました。安心して見て楽しむことができました。
 午後は、愛犬ゴンタと一緒に畑仕事に励みました。一緒に花壇を耕し、土に力をつけるために肥やしを施し、枯れ草を集めて焚き火で燃やしながらの庭掃除でありました。ひと段落すると、折りたたみ椅子を持ち出して、しばしの休憩です。気がつけば、私もゴンタも柔らかな陽の下で、うとうととお昼寝でした。太陽のエネルギーを身体全身に浴びて、このところのイライラ感を癒すことができました。
 ここ数週間の休日は、白洲正子さんの生きざまに触れ、プッチーニの歌劇「タゥーランドット」を鑑賞する。そんな日を過ごしてきました。そのなかで印象に残っているのは、骨董好きの白洲さんの「目の前にあるものを妙な先入観や知識を持たずに、在るがままに見つめること」「見る目を鍛えること」という主旨のお話でした。ひとの知識を借りて鑑賞するのではなく、自分の目や耳を信頼して、ものを見つめ、その美しさを求める。ややもすれば、わたしたちは、レコードやCDのジャケットに書かれた解説を読んで、ある程度の先入観をもって、おもむろに音楽と対峙します。聴き終えて満足します。それで、本当に音楽の素晴らしさを実感しているのかどうか。いっそ、なにも見ないで、ただただ耳を澄まして音楽を聴く。その世界に没頭する。そこで初めて、その曲の「こころ」に接することができるのではないか。複雑な人間模様の中で見失いがちな「ひと」の在り様に思いを致した次第です。
 休日の静かな夕暮れどき、マルタ・アルゲリッチのレコード(バッハ「トッカータ ハ短調」「パルティータ第2番ハ短調」)を聴きながら、ブログの更新作業をしているのでした。
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