心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

映画『レ・ミゼラブル』

2012-12-29 10:00:21 | Weblog
 「法律と風習があるために、社会的処罰が存在し、文明のただなかに人工的な地獄を作り出し、神意による宿命を人間の不運でもつれさせているかぎり、また貧乏のための男の落伍、飢えのための女の堕落、暗黒のための子供の衰弱という、現世紀の三つの問題が解決されないかぎり、またあちこちで社会的窒息が起こりそうであるかぎり、言葉をかえてもっと広い見地に立って言えば、地上に無知と悲惨がある以上、本書のような性質の本も無益ではあるまい。」

 これは、「レ・ミゼラブル」の巻頭を飾るヴィクトル・ユゴーの言葉です。1862年1月1日、オートヴィル・ハウスにて、とあります。今から150年も前の言葉です。


 家内が、封切になったばかりの映画「レ・ミゼラブル」を見たいというので、今週の日曜日、大阪ステーションシティシネマに出かけました。あいにく午後一番は満席で夕刻上映分のチケットが手に入りました。60歳以上はシニア料金で1人千円。階下の指定のお店で食事をすると、ワンドリンクサービス付なので、実質は1人5百円?初老にとっては手軽に楽しめるお値段です。
 ところで、私にとってこの映画は、子供の頃ユゴーの小説を読んだこと、10年ほど前にロンドンの街中でミュージカル「レ・ミゼラブル」の大きな看板に出会ったこと、数年前イギリスのスーザン・ボイルという女性がテレビのオーディション番組で「夢やぶれて」を歌い大いに脚光を浴びたこと、それ以来の出会いです。
 映画は2時間半というミュージカル形式の大作で、19世紀のフランスを舞台に、格差と貧困のなかで懸命に生きる人間の姿を画面いっぱいに映し出していました。主人公ジャンバルジャン役はヒュー・ジャックマン、警部シャベール役はラッセル・クロウ、ファンテーヌ役はアン・ハサウェイ。みな素晴らしい俳優さんでした。
 パン1個を盗んで19年の刑に服した主人公のその後の人生、彼を追い続ける警部シャベール。わが娘を育てるために身を売った女工ファンテーヌ。その娘コゼットを育てる主人公。コゼットを愛する若者。革命を夢見る純真な若者たち。様々なテーマが交錯するなかで、ミュージカルの持ち味を活かした映画でした。
 見終えて、40年前の若かりし頃の自分と現在の自分とを比べてしまいました。理想と現実、と言ってしまえばそれまでですが、時代の大きなうねりの中に自らの生き様を晒していない、そんな不甲斐なさを思ったりしました。老いと若さ?いやいやそれだけではないでしょうよ。
 法と正義。逆説的な表現になりますが、私は法令遵守という言葉が好きではありません。身の処し方を何もかも法令・規則に委ねてしまっては思考停止になってしまうからです。法の根底にある理念・意味を理解しようとしない愚。法の「心」を理解しようとしない愚。全身で諸問題に体当たりするなかで初めて法のめざすものが理解できるのに、澄まし顔で通り過ぎていく愚。そのうち理屈が独り歩きして現実世界から乖離してしまう愚......。

 映画の世界から現実の世界に舞い戻るのに少し手間取りましたが、大都会の夜を大阪駅前から淀屋橋に向かって歩いていると、大阪市役所前あたりに人だかりができていました。なんだろうと目を凝らすと、ちょうどこの時期、大阪・中之島界隈では「OSAKA光のルネッサンス2012」が開かれていました。翌日がお休みだったのを良いことに、その人の流れに身を任せて見物して帰りました。

 実はこの日、今秋完成したばかりの中之島フェスティバルタワーにも立ち寄ってきました。2階から7階が来春オープンするフェスティバルホール(2700席)です。前評判どおり、エントランスホールから2階に向かう広々とした階段を見上げて圧倒されました。エレベーターで上層階にあがり、ちゃっかりレストランで昼食までいただきました。来年4月、フェニーチェ歌劇場のこけら落とし公演が楽しみです。
 結局この日は、昼前に家を出て夜10時に帰宅しました。一度外出すると時間と交通費を無駄にはしない、そんな行動癖が私たちにはあるようです。こんな珍道中、あと何年続くことやら。

 さてさて、今年もあと僅か、年末年始休暇は初日から家の大掃除が始まりました。と言っても私の役割は家中の窓ガラス拭きと庭掃除、それにゴミ出し。あとは自分の部屋の片づけぐらいです。今年も、段ボールひと箱分の本を古本屋さんに直送しました。新刊本で手元に残ったのはほんの僅かでした。仕事関係の書物は、今回をもってほぼすべてが姿を消しました。これで気分も爽快に新年を迎えることができそうです。さあて、今日は子供たちが孫を連れて帰ってきます。

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今年最後のブログ更新となりました。お気楽なこのブログに懲りずにお越しくださいました方々には、御礼を申し上げます。ありがとうございました。どうか良いお年をお迎えください。
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古書店と活字文化

2012-12-23 09:32:38 | 古本フェア

 週の半ば、植木屋さんに庭の手入れをしていただきました。伸び放題だった松の枝が綺麗に散髪されてこざっぱりしています。金木犀の生垣も、なにやら澄まし顔に見えるから滑稽ですらあります。こうして庭を眺めていると、なんとなく木々の気持ちが分かるような心持になります。.....そんな他愛ないことを考えていたら、ふと岩田慶治さんの「アニミズム時代」を思い出しました。
 その本はこんな書き出しで始まります。


 朝、庭におりたって木々にあいさつする。「今日は、木蓮さん」、「今日は、泰山木さん」。もちろん、木々は返事をしない。しかし、泰山木の枝にぶらさがり、木蓮の肌に触れていると、ゴツゴツした、ザラザラした肌ざわり、触覚をとおして、木々の返事がかえってくる。自然のなかの応答、感覚のやりとり、そこにアニミズムの出発点があるのではなかろうか。あの枝にカミがいる、この木にカミが宿っているという前に、そこにアニミズム以前の風景がひろがっているのだ。.....

 なにやらこれから始まる不思議な物語を期待させますが、著者の岩田慶治さんは、東南アジアの稲作民族を調査し、日本との比較民族学研究を通じてアニミズムの再考を提唱した文化人類学者です。この先生、南方熊楠賞を受賞された一人でもあり、鶴見和子先生の著書を通じて、柳田国男、南方熊楠、岩田先生と繋がりました。これが、読書の醍醐味というものでしょう。
 読書といえば、先日、トーマス・マンの日記を購入した古書店「山羊ブックス」の店長さんが綴る「Blog@山羊ブックス」に出会いました。毎日、淡々と綴られているブログを拝見すると、都会の真ん中の小さな古本屋さんが、電子書籍の向こうを張って、活字文化を大事にされている姿が浮かんできます。商売ではあっても、紙と活字文化への拘りが感じられるブログでした。
 ネット上には「日本の古本屋」「大阪古書店ネット」など古本に関する様々なサイトがあります。そんなサイトをぼんやり眺めていると、運営されている方々の活字文化に対する熱い思いが伝わってきます。ほしい古本をネットで注文することができる時代ですが、届いた古本の手触りのなかに人間の生き様を感じます。

 今朝の朝日新聞「読書欄」を見ると、ことし1月から10月の推定書籍販売金額は前年同期比2.3%減の約6815億円で、ピークだった96,97年の4分の3以下、25年前の水準にまで落ち込んでいるのだと(出版科学研究所調べ)。活字離れ?それとも電子書籍に取って代わられた?
 そんな大きな時代の変化の片隅で、街の古書店はしっかり地に足をつけて存在しています。お爺さんの店主もいれば、お若い店主もいる。こんな空間から、じっくりと腰を据えて時代を眺めれば新たなパラダイムも見えてこようものです。 
 古書店は私にとって玉手箱のようなものなんでしょう。それとも新刊に対してある種の偏見があるのかもしれません。時代の流れからは少し遅れているのかもしれませんが、逆に時代の大きな流れ、うねりは、遠くから眺めていた方がよく見えることだってあります。大草原を流れる大河は、小高い丘の上に立たないと、その河の流れを、流れの形を、流れの行く先を見つめることができないのと同じです。
 何年前だったか、鶴見和子先生の「日本を開く~柳田・南方・大江の思想的意義」(岩波セミナーブックス)を手にしたのも古書店でした。定価1900円を800円で買いました。この本を何度読んだことか。そのたびに新しい発見がありました。ピアニストの館野泉さんとの出会いも、数年前、東京神保町の古書店で出会った自著「ひまわりの海」でした。

 さてさて、今年もあと1週間を残すばかりになりました。先週は、月曜日に京都・祇園の花見小路界隈で開かれた「居酒屋ゼミ」に参加し、その翌日からは連続して忘年会、懇親会が続きました。今年は達成感の乏しい1年ではあったけれども、それでも私の心の中には新しい微かな灯が見えてきたようにも思います。それは、これまでの40年間とは異なる世界への第一歩の始まり、なのかもしれません。

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静かな師走の日曜日

2012-12-16 10:08:32 | Weblog
 師走も半ば、きょうは総選挙の日です。3年前、政権交代に沸いたあの興奮がいつの間にか覚めて、マスコミ主導の劇場型政治に陥ってしまった日本の政治風土。それでも何かを期待して投票場に向かいます。ささやかな一票が、少しでも大きなうねりにつながることを期待しましょう。
 でも、様々な課題が輻輳していて、一筋縄ではいきません。議論のベースが曖昧だから、言葉がすべっている。私は(わが党は)と大声を張り上げても議論の土壌に価値共有がなければ、何も決まらない、何も決められない。イメージだけが先行して、政治に諦めが広がり、しかし、ではどうするのかという解を見出せないまま、皆がそれぞれに好き勝手に生きていく。寒々しい社会を知らぬ間に形成しています。こうした世情は、ただ単にアジアの片隅の特殊事情でもないでしょう。大げさに言えば文明的な課題なのかもしれません。美しいものを美しいと言える、思える人間にならなければ.....。

 きょうも、いつもどおり愛犬ゴンタと朝のお散歩に行ってきました。雨があがり、雲の間からうっすらと青空がのぞく晩秋の街、通りは落ち葉で埋め尽くされていました。ちょっとした風が、あたりの樹木から葉っぱを落とします。舞った落ち葉が顔をかすめていきます。秋だなあ、と思う瞬間です。そんな空間に身をおいて、頭脳というコンピューターから家や電柱の像をひとつひとつ消していくと、周囲は森の小道に早変わりです。今年は紅葉の色合いが実に美しい。我が家の庭でも、モミジの幹元は赤と黄の鮮やかな葉っぱでいっぱいです。ここ数日、掃除をしないで眺めています。

 そうそう、畑では、初めて栽培を試みた白菜が大きく育っていますが、少し間引きをしないと窮屈そうでした。ハーブの手入れも、ことしは十分にできませんでしたが、それでも幾種類かのハーブは元気に育っています。秋口にミントの葉っぱを軒下で乾燥させて作ったハーブティー、ことしは上手にできました。雨が少なかったからでしょうか。それを粉々にして、さっそくハーブティーをいただきました。化学薬品ではなく、大地の栄養と陽の光を浴びて育ったものを食すること、これが本来の姿なんでしょうね。私は、ことしも健康に過ごしました。

 さあて、来週の月曜日はクリスマスイブです。4人の孫のお祖父さんの出番です。昨夜は、ウィーン少年合唱団のLP「ドイツ民謡を歌う」を聴きながら、ネットでクリスマスプレゼントの品定めをしました。バトロボーグ、パーラービーズ、プラレール、木のおもちゃ。アマゾンからイブの日に届けます。
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師走に想う

2012-12-09 14:23:44 | Weblog
 青空が広がっていますが、ひゅうひゅうと冷たい風が吹いています。そんな師走の日曜日の朝、愛犬ゴンタ君とお散歩にでかけると、地面にはたくさんの落ち葉が広がっていました。秋が過ぎ、寒い冬が近いことを感じます。そんな朝、家内は朝早くにお出かけでした。実はこの年末、家族一緒に和歌山は白浜温泉に1泊2日の旅行を企画している様子です。きょうが大阪・白浜間の年末トクトク切符の発売日、総勢11名分の切符を求めてのお出かけでした。めでたく8時過ぎには「買えました」とのCメールが届きました。
 白浜温泉といえば、バブル期、勤め先の保養所があって、年末年始を家族で旅行をしたものです。パンダで有名なアドベンチャーワールドも近くにあって、子どもも大人も楽しめるところ。恒例行事になっていましたが、子どもが受験期に入る頃からいつの間にか行かなくなりました。今回は久しぶりです。

さてさて、きょうは街の餅つき大会がありました。自治会、子ども会共催の行事で、400人近い方々が集まりました。近くの長女一家も、孫君と孫次男君を連れてやってきました。着くや否や孫君は大好きな黄粉餅や善哉をおいしそうに食べていました。お楽しみ抽選会もありましたが、残念ながらハズレ。参加賞のお菓子をいただいて嬉しそうでした。
 孫次男君は、一週間前から伝え歩きができるようになりました。4月の下旬に生まれた赤ちゃんが、離乳食を始め、伝え歩きをするまでに要した期間が8カ月。動物たちと比べればずいぶんゆったりとしていますが、それでもヒトの成長の確かさを思います。

 ところで、先週の日曜日は先輩を偲ぶ会に行ってきました。京都から快速急行に乗って守山市へ。車窓から湖西を眺めると、比良山頂は雪景色。山小屋のある函館山の山麓もうっすら雪化粧をしていました。いずれ、私も、その自然のなかで、森の息吹を感じながら余生を過ごすことになるのかも....。
 駅を降ると、かつて職場の上司だった方が住職を務めるお寺があります。その住職のご厚意で、大学時代の先輩でもあり職場の先輩でもある方の偲ぶ会が開かれました。お経のあと住職から仏教のお話を聞いたあと、今夏亡くなった先輩の生き様を偲びながら静かな時間を過ごしました。先輩諸氏からは、リタイア後の暮らしぶりをお聞きしました。人生の締めくくりはどうあるべきか、そんな思いが見え隠れする、ささやかな宴でした。人の生き死にには一人ひとりの道があります。決して同じではないし、かといって全く別物でもない。まずは今日まで何事もなく生きながらえたことに感謝するしかありません。

 12月に入って、あっと言う間に9日です。総選挙が始まり、師走の街中を選挙カーが走り回り、それでなくても忙しない師走が、より一層忙しなく感じる年末です。....こうして、忘年会をこなしながら、いつの間にか大晦日を迎えて、そしてお正月を迎えるのでしょうか。時の経つのは本当に早い、そう思います。だから、時間を大事にしたい。1分1秒といえば大袈裟ですが、時間に「意味」を感じる、そんな生き方をしていきたいと思う今日この頃です。
 きょうは孫君たちがお昼寝をしている間を利用してのブログ更新となりました。
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小雨が彩る京の紅葉

2012-12-02 00:17:09 | Weblog
 「霧のかかった晴天」「湿気があり、暗い」「霧のかかった晴天」「暗く湿度が高い。遅くに起床」「秋日和」「霧がかかった静かな秋の日」「霧がかかり静かな日、雲間から太陽が洩れる」「フェーンによる強風と雨」「風も鎮まり明るくなる」「フェーンの強風。雨をともなう突風」「天候はますますよくなり、爽やかになってくる」....。これは、トーマス・マンの1936年11月初旬の日記の書き出し部分です。霧深い秋のスイスの自然風景を思います。ナチズムの台頭に警鐘を鳴らすマンは、ドイツ国籍を奪われるという厳しい状況下にありました。同年11月にスイス国籍を得て、2年後にはアメリカに移住します。そんな一時期のマンの心の在り様を、この日記は如実に記しています。

 2週間前の日曜日、大阪難波の山羊ブックスという古書店で「トーマス・マン日記」(1935-1936)と出会いました。以前、東京神保町の小宮山書店で8千円という値がついていたのに、千五百円。躊躇うことなく買い求めました。帰りの電車の中でパラパラめくっていると、奥付に小宮山書店の印。同じものとは申しませんが、8千円の値札が付いています。流れ流れて大阪のミナミで手に入れるとは。これも何かのご縁でしょう。

 さて、きのうは家内と京都に出かけました。朝食の時のちょっとした会話がきっかけでした。恒例の行き当たりばったりのお出かけです。ネットで確認すると京都の紅葉も終盤のようでした。とりあえず「未だ見頃」の嵐山に向かったのですが、案の定、観光客の多さにうんざりです。雨も降り出して最悪のパターンに。





 小降りになった頃を見計らって嵐電に飛び乗りました。行先は仁和寺です。ここはお客もまばら。小雨は舞っていましたが時々陽の差す静かな境内を見て回ることができました。そして次に向かったのは竜安寺です。石庭を眺めて小休止したあと、鏡容池周辺を散策しました。小雨が紅葉を美しく彩る。本当に美しい紅葉を愛でることができました。



 こうしてお寺を散策していると気持ちが落ち着くのはなぜでしょう。.....戦後の精神文化のなかで私たちは、宗教に対して独特な思いを持っています。それが薄っぺらい個人主義であるならば、地域も家族も成り立ちません。この微妙な関係性の中で、私たちはなんらかの答えを見出さなければならない。せめて、草木を愛で、大自然の前で足がすくむほどの畏敬の念、素直でありたいと思います。



 かの鶴見和子さんは著書「日本を開く~柳田・南方・大江の思想的意義」の中で、「信仰」に触れています。マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、デューイや岩田慶治の著書も取り上げて、宗教とアニミズムの違いについて語ります。人間が魂を持っているのと同じように、生きているもの、生きていないものも魂をもっている、宗教のように、教条や儀式があるわけではなく、自分より大きなもの、より良いものに対する畏敬の念、それがアニミズムであると。そうした振る舞いに光を当て、国家、社会とは異なる「地域」に焦点をあて、内発的発展論に迫っています。
 ひょっとしたら、アニミズムは「共生」の原点なのかもしれません。鶴見さんお勧めの岩田慶治著「アニミズム時代」は既に絶版になっていますが、先日ネットで古書店から取り寄せました。それをバックに入れて、きのうは京のお寺を歩き回りました。あっちにふらふら、こっちにふらふら。私の読書遍歴には節操がありません。

 さて、今年も残すところ1カ月となりました。きょう12月2日は、今夏急逝された大学時代の先輩の「お別れ会」に出席するため、滋賀県に出かけます。そんなわけで土曜日の夜は、京都散策の写真整理をしながらブログの更新をいたしました。部屋には、グレン・グールドが演奏するグリーグのピアノ・ソナタホ短調作品7が流れています。
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