心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

童謡詩人・金子みすゞの宇宙

2009-04-26 09:20:06 | Weblog
 つい先日までは初夏を思わせる陽気だったのに、この肌寒さです。きのうは東京に出かけましたが、雨。きょうの大阪は夜明け前から突風が舞っています。季節の気まぐれに翻弄される今日この頃です。まぁ、連休までに泣きたいだけ泣いてください。そのかわり晴れやかなGWを約束してください。そんなことを考えました。
 きのうはお勉強会でした。その前日も大阪・中之島での勉強会でしたから、2日続きで刺激的な時間を過ごすことができました。いつも顔を合わせている者同士の議論とは異なる、新鮮さが心地よく、大きな気づきもいただきました。この勉強会、もう10年近くになるでしょうか。一人のエンジン役がいて、その周りに私のような茶化し屋がいると、こうした活動は長続きします。最近は、元気な若者たちが男女を問わず参加してくれますから、いつも苛められっぱなしですが、若い方々から学ぶことが多いのも事実です。でも、彼、彼女たちにも悩みはあります。それぞれに異なる組織風土のなかで苦労はしている。この勉強会はその捌け口でもあります。そのときは、聴き役に回ります。最後は老若男女、楽しい杯を交わして終わります。
 ほろ酔い気分で乗った新幹線のなかでは、時間潰しに、先日録音しておいたラジオ番組「NHK日曜カルチャーラジオ」を聴きました。今月のテーマは「金子みすゞの宇宙~うれしいまなざし」です。聴いたのは全4回の放送のうち先週放送分。講師は金子みすゞ記念館館長の矢崎節夫さんです。実は、きょうの夜の放送が最終回になりますが、矢崎さんの独特な語りに、ついつい惹き込まれます。山口県長門市仙崎に生まれ、27歳の短い生涯を閉じた金子みすゞの「こころ」。なによりも、ひとつひとつの言葉に秘められた「やさしい視点」、そのようなものがじわり伝わってきます。童謡というものが「子供が口ずさむ歌、または詩」であること以上に、大人の心にさえ訴えるものであることを思います。それほどに、今の世の中が病んでいるのか、私自身が病んでいるのか。それとも本来のあるべき「こころ」を見失っているのか。
 車中では、カバンに入れていた週刊朝日緊急増刊「朝日ジャーナル」も、ぼんやり眺めました。特集は「崩壊寸前の日本型社会システム」「いま問われているのは、私たちの知性、そして感性」とあります。このあたりでもう一度自らの在り様を考える時期に来ているのかも知れない。思想・信条の枠を越えて「感性」が問われているのではないか。そんなことを考えながら帰途につきました。

金子みすゞ記念館
http://www.city.nagato.yamaguchi.jp/misuzu/index.html
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ピエール・ロラン・エマール

2009-04-19 09:19:49 | Weblog
 日曜日の朝は、愛犬ゴンタとのお散歩で始まります。ふだんなら難しい顔をしてバス停に並ぶ通りを、きょうは愉快な気持ちで通り過ぎます。いつの間にか、街路樹のハナミズキが咲き始めているのに気づくのも、やはり休日の心の安寧のせいでしょうか。そういえば、至るところの樹木が芽立ちの季節を迎え、柔らかな若葉が全身で陽の光を浴びています。樹皮に守られて、寒い冬の間じっと耐えてきた生命が、いっきに樹皮を破って芽生えた。それは、若い頃のニキビのような、身体全身がうづくような、そんな内発的な高まりなのでしょうか。樹皮を破って生命の羽根を陽の光に向かって広げる。そんな感じなのでしょうか。こうして、葉っぱたちの1年が始まります。
 そんな気持ちの良い日曜日の朝、いま、部屋にバッハのピアノ曲「フーガの技法」が流れています。きょうのピアニストは、グールドでもアルゲリッチでもありません。ピエール・ロラン・エマールです。季刊誌「考える人」の特集記事「ピアノの時間」に登場したピアニストです。記事によれば、現代音楽の演奏家として高い評価を得ていて、2003年には、かのアーノンクールの指揮でベートーベンのピアノ協奏曲全集を発表して、広く知られるようになったとか。ブエノスアイレスの情熱でもなく、詩的であり哲学的であり独自の世界観のなかに生きる孤高の人でもない。ここに一人の技巧派のピアニストがいる。職人肌さえ感じる、それがエマールの初印象です。昨年発表された輸入盤を見つけました。
 「20代の初めにバッハの自筆譜のファクシミリ版を手に入れて以来、私がずっと楽譜を読み返し、研究を続けてきた作品でした。しかしこのような複雑な名曲を弾くには、まだまだ時間がかかる、自分には機は熟していない、と思い続けてきました。そして50歳になったとき、ようやく決心がつき、録音することにしました」とエマール。わたしたちが何気なく聴く演奏の裏に、演奏家たちの葛藤が隠れています。きょうは、このピアノの曲を部屋に充満させながら、しかし、西洋の天上の高い教会のなかで聴いたら、どんな響きなんだろうとも思いながらの、ブログ更新でありました。
 そうそう、あと10日もするとゴールデンウイークを迎えます。今年は次男君が帰省できないかわりに、長男君がご帰還の予定です。それも6か月を迎えたばかりの孫を連れて。孫の体調にもよりますが、元気そうなら連れて帰りたいと。実現すると、長女の孫君とご対面とあいなります。春の芽生えと同様に、孫たちの成長が楽しみな年代になりました。彼らが、幸せに生きることのできる社会をつくるのが、老年期に向かうわたしのお勤めであろうと、肝に銘じている今日この頃です。
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足元を見つめる

2009-04-12 09:00:50 | Weblog
 4月とは思えない暑い日が続いています。そんななか、贅沢にも私はお休みをいただきました。連休の初日は、朝からぐんぐんと気温が上昇するなかで、洋ランの植え変え作業に汗を流しました。カトレアを中心に10数鉢に及びました。続いて、ブルーベリーの花に人工授粉を施しました。異なる品種の花同士を授粉することで実つきをよくするのです。
 花壇を眺めると、チューリップの花が満開です。庭の片隅では、昨秋地植えしたヤマブキがしっかり根付いて可愛い黄色の花を咲かせています。そうそう、草むしりをしていたら、ナズナがひっそりと咲いているのに気付きました。一瞬抜こうと思いましたが、花が咲き終わり種がこぼれるまで、そっとしておくことにしました。
 午後は長椅子に座って読書の時間です。このブログで3月8日にご紹介した「鶴見和子曼荼羅Ⅰ」の「基の巻(鶴見和子の仕事・入門)」を、昨日、やっと読み終えました。570頁ほどの大作でしたが、大半は通勤電車、それも出勤の時間を利用して読み進んできました。戦後の悶々とした思想状況のなかで旗揚げした「思想の科学」の活動、デューイとパール・バックの視点から読み解く日本・中国論、柳田國男の仕事を軸にした社会変動のパラダイム......。なんだか長い間眠っていた脳が目覚めるようなテーマが続きます。高度成長期にあえて「近代化」の意味を問い、西洋をモデルとする近代化論に対して非西洋諸国それぞれの多様性に着目した内発的発展論。私には「足元を見つめよ」と言っているような、そんな印象を強く持ちました。欧米型モデルに振り回されることなく、日本という国を問い、村と都市、地域と行政、あるいは人間の生きざまにも問いかけるテーマでありました。それは私にとって現場主義を問うものでもあります。
 先週の朝日新聞経済気象台の見出しは「地方の多様性が日本を救う」でした。未曽有の不況下、カネとヒトとモノを大都市圏に集中させることが日本経済の効率性と成長性を高めるという風潮に対して異議を唱えた小論でした。厳しい不況のなかにあっても輝きを増しているのは、地方のモノづくり中小企業ではないか。全国規模の大型スーパーではなく地元産品を効率的に提供する中小の地元小売店だ。「情報発信力を高めているのは、大都市ではなく地方なのだ」と。「地方の多様性を活かすことが日本経済を救う」とも。
 鶴見和子曼荼羅から気づく課題は、決して過去のことではなく、今日に通じる課題であることが判ります。さあ、2冊目「水の巻(南方熊楠のコスモロジー)」を開くことにいたしましょう。
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カイ君とニッパー君

2009-04-05 09:48:07 | Weblog
 少しひんやりしていますが、昨日の雨もあがり、小鳥囀る穏やかな日曜日の朝を迎えました。愛犬ゴンタとお散歩にでかけると、近くの公園では紅白幕も整い町内会のお花見の準備が整っています。そう、街中、桜が満開なのです。雨に濡れた桜花が陽の光をあびてお化粧直しです。
 年度替りの1週間、先週は前半、退職される方々の送別会、半ばには新入社員を迎えて、なんとなく慌ただしい日々を過ごしました。その合間を縫って広島への日帰出張もこなしました。明日もまた広島に出かけます。
 そうそう、きのう仕事帰りに、最寄駅近くのソフトバンクのお店を通り過ぎるとき、ふと目に飛び込んできたものがありました。カイ君の「ぬいぐるみストラップ」です。この歳ですから、携帯につけるわけではないのですが、カイ君のテレビCM大好きな私としては、ビクターのニッパー君と同様に愛着を感じています。若い方々の間を縫ってレジに行くのは少し照れましたが、ここは勇気(?)をもって並んで買いました。あまりの幼稚さに、家内はあきれ顔です。ともあれ、カイ君とニッパー君のツーショットをアップしました。ご覧あれ。
 きのうは、もうひとつお買いものがありました。季刊誌「考える人」2009年春号の発売日でした。今号の特集記事は「ピアノの時間」。昨夜は、時間の経つのも忘れて、ウイスキーを片手にぱらぱらと眺めました。この季刊誌、2002年7月の創刊で28冊目になります。編集長の「たまにはテレビを消して、身の回りも整理して、一人の”わたし”に戻り、自分の言葉と生活を取り戻したい。溢れるモノや情報をいったんせき止めて、ひと息つきたい。思考する頭に新鮮な空気を送り込みたい。そんなあなたのために用意する、小ぶりの静かな部屋に季刊誌”考える人”はなりたい、と考えています」という言葉が気に入って以来、時々手に取って眺めます。
 最近、私は「鶴見和子曼荼羅」にどっぷり浸かっています。が、時々「考える人」に戻ります。ともに、時代を見つめるパラダイムを考える点では同じです。違いは、生きた時代の環境でしょうか。いつの時代にあっても自らの生きざまを問うことの大切さを学びます。きょうは、グレン・グールドのピアノ曲を聴きながらのブログ更新となりました。
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