心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

MCカートリッジ(DL-103)

2009-02-22 09:47:18 | Weblog
 先週の日曜日は春の陽気に浮かれていたのに、その翌日から寒い日が続きました。でも、いったん生命力にスイッチが入ったものは後戻りができません。さきほど愛犬ゴンタと朝のお散歩にでかけたら、大きな柳の木の枝は淡い緑をまとっていました。2月も残り1週間です。寒の戻りはあっても、地上の生命たちは確実に「春」に向かって動き出しています。
 きのうの土曜日は、1週間のやり残しの仕事を片付けるための、平日とは異なる気楽なご出勤でありましたから、ついつい時間をかけて淀川堤防を歩いて職場に向かいました。川面までの間には、枯れた葦が茂り、ところどころに「わんど」という小さな池があります。昔は、その「わんど」に天然記念物のイタセンパラという小さな魚が棲んでいたのですが、近年、外来種が増えて、その姿を消してしまったようです。いま、その再生に向けた取組が進んでいますが、大きな成果をみるには至っていません。
 堤防の反対側は大阪の街が所狭しと連なっているのですが、とにかくこの堤防を歩くと、様々な小鳥たちの囀りを楽しむことができます。目線を遠くに移すことができます。何とも言えない解放感を味わうことができます。もう少しすると、芽生えの季節を迎えることでしょう。淀川も、だんだんと春に向かって歩みだしています。そこで携帯を取り出して、パチリ。良く見ると、右下に撮影者である私の影が映っていました。これもまた楽しい。
ところで、お正月休みが明けてこの2か月、ドタバタの日々が続いていますが、今週の大きな会議で、この1年間に手掛けたことの3分の2に一定の道筋をつけることができる段階になりました。だからというわけでもありませんが、きのうは私に対するご褒美をいただくことにしました。仕事帰りにオーディオショップに立ち寄って、DENONのMCカートリッジ(DL-103)を買いました。マニア好みの10数万円もする品の片隅に、ひっそりと置かれているDL-103です。それでも定価は2万6千円、それを2万円ほどで買いました。庶民としては贅沢なお買いものではあります。
 そのお姿を写真の収めました。2.2㎝×1.5㎝×1㎝ほどの物体にすぎませんが、その先のダイヤ針がビニール樹脂のレコード盤の溝を走りながら、凸凹を電気信号に変え、その物理量を音声として私たちの耳に届けてくれるのです。弦楽器やピアノの繊細な音も、金管楽器の張りのある音も、その場にあるかのごとく再現して、私たちの心を和ませてくれる。その真髄ともいうべきものが、カートリッジなのであります。
 わたしのように音楽の大半をレコードに頼っている者にとって、このカートリッジは命綱と言っても過言ではありません。現在、7個のカートリッジを気分に合わせて使っていますが、DL-103は実は2個目。私が気に入っているもののひとつです。DENONがNHK総合技術研究所と共同開発したもので、FM放送などでよく使われているものですから、庶民にとってはお手ごろ感があります。
 それにしても、この小さな箱から素晴らしい音の世界が広がる。不思議ですね。針とレコード盤の物理的なふれあいから生まれる音の世界。シュワルツコップやフィッシャー・ディースカウの歌声が、こうした物理的な仕組みを通じて、わたしたちの心を和ませる。これを非現実の世界と考えるのか.....。あんまり難しいことは考えないでおきましょう。目の前のものを、まずはあるがままに受けとめてみる。まずはそこから始めてみることです。と、自分に言い聞かせております。
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春の兆し

2009-02-15 10:14:39 | Weblog
 きのうは広島に出張していました。20名ほどの採用面接でした。何人かの有為な若者に出会えたことにほっとしながら建物の外に出ると、まだ2月だというのに穏やかな陽気に包まれました。オーバーも要りません。朝刊を見ると、きのうの広島の気温は20℃を超えていたようです。地球温暖化が気にはなりますが、でも、「春」は人の心を和ませてくれます。
 そんな陽気に誘われて、きょうの日曜日も早起きをして愛犬ゴンタとお散歩に出かけました。いつも傍を通る大きな柳の木の枝も、朝陽に照らされて、土色の枝先に少し変化が見られます。小鳥たちの動きも、何となく嬉しそうで、生き生きと飛び回っています。すずめ、しじゅうから、ひよどり、むくどり、つぐみ、ほおじろ....。小さな生命が里山に響いています。気づかなかったのですが、梅や桃の花が咲いています。「春」の兆しがいろいろなところで顔をのぞかせています。
 さきほど、我が家の庭を覗いてみると、ナンテンの実、ピラカンサスの赤い実は、その大半が小鳥たちの餌になっていました。実を失った枝が淋しそうではありますが、小鳥たちの冬の餌になったのであれば、それはそれで良かったと、そんなことを考えました。そうそう、庭の片隅に、フキノトウを数個見つけました。なかなか大きな芽です。今夜は、そのうちの1個をいただいて、お酒の友にフキノトウ味噌をつくってもらいましょう。
 こんな心地よい朝、BGMの選曲はチャイコフスキーのピアノ曲「四季」です。窓を開けて、春の陽が部屋中を照らすなかで、ぼんやり窓の外の景色を眺めます。1日中、何も考えずに、ただただぼんやりと過ごそう。午後には、花壇を耕して、春の準備をしよう。寒肥は、少し遅すぎたかな。でも、温かい春の陽を全身に浴びた花を愛でるには、欠かせない作業。お手製の腐葉土を土に返さなければ。午後には、愛犬ゴンタと一緒に土いじりです。
 レコードが2枚目に入って、シュワルツコップの「野ばら」を聴いていると、なんだか目がしょぼしょぼ。花粉症ではありません。春の陽気に誘われて睡魔が襲ってきたようです。「春眠暁を覚えず」ではありませんが、春は眠りを誘う季節でもあります。少しベッドに横たわってから外に出ることにいたしましょう。それにしても、きょうは取りとめのないブログ内容になってしまいました。
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原点回帰

2009-02-08 10:47:16 | Weblog
 先週もあっという間の1週間でした。週の半ばには名古屋に出張しましたが、相前後してお隣のご主人が急にお亡くなりになるなど、2月の一週目は、慌ただしく過ぎていきました。
 私が、この地に引っ越してきたのは、1984年の春、長女が小学校に上がるその直前のことでした。昭和40年代の高度経済成長期に街開きをした古い街ですが、引っ越した当時は、ちょうど世代後退期に入る時期で、その後、私たちの世代が1.5世代になります。今はそろそろ、次の世代交代、つまり2.0世代に移ろうかという時期でしょうか。引っ越した当時、お隣りは1.0世代のご主人で、数年後にはリタイアされ悠々自適の生活を送っていらっしゃいました。いつも笑顔を絶やさない温厚な方で、我が家もずいぶん親しくお付き合いをさせていただきました。昨秋、奥様が体調を崩され入院されていましたので、心労余りあるものがあったのだろうと察しています。寂しいお別れとなりました。
 ところで、先日、朝日新聞のコラム経済気象台の「経営の原点回帰」という見出しに目がとまりました。「世界不況が深刻な広がりを見せる中で、その立て直しにおける「原点回帰」の重要さを多くの人が感じ始めている」「企業の経営は利益をあげて株主に奉仕するのが本質とされてきたが、経営の基本は顧客への奉仕であり、その目的に向かう社員の努力や協力の方がよほど本質に近い」「会社に対する評価も結果主義で、経営者の志や会社の風土など、目には見えないが大切な要素が捨象されている」。そして、「経営者や働き手の「質」の評価をもっと重視すること」の大切さを説いています。なるほどと思います。
 改めて広辞苑第6版で確認すると、「原点」とは「根源の地点。基準になる点」。「回帰」とは「一周してもとへ帰ること。めぐりかえること。くりかえすこと」とあります。考えてみれば、インターネットの進化で、モノとカネと情報の流通は凄まじい勢いです。その波に呑みこまれるかのように、人の「こころ」まで、根なし草のように漂い始めています。毎日、テレビ・新聞・雑誌、そしてインターネットから吐き出される雑多な情報に過剰反応し右往左往する一方で、浮気するのも早い。ちょっと待てよ、と思う。少し冷静にならなくてはと、もう一人の私が自分を戒める。そうだよね、と思う私がいる。このブログ更新の時間は、まさに、そんな時間を私に与えてくれます。
 週末から家内が、孫の顔が見たいと、甲府の長男宅にでかけています。そんなわけで、この週末は、一人で独身生活を謳歌しております。昨夜は、夜遅くまでヘレン・メリルとビル・エヴァンスのCDを聴きながら、音楽雑誌を眺めて過ごしました。もちろんウイスキー片手に。そして今朝は、愛犬ゴンタのお散歩を済ませると、以前、名曲堂のバーゲン(レコード半額セール)で買ったグスタフ・マーラーのLPレコード「交響曲第10番全曲(D・クック版)」(レヴァイン指揮)4枚組を聴きながら、ブログを更新中です。
 この「10番」、実はマーラーが生前残した未完の交響曲です。5楽章のうち完成したのば第1楽章のアダージョだけ。あとは断片的なスケッチが残されただけでした。そんなわけで、世には、第1楽章のアダージョだけの「10番」と、D・クック版の「10番」のふたつが出ています。D・クック版とは、マーラー研究家であるデリック・クックが全曲を復元したものです。私には専門的なことはわかりませんが、マーラーの世界を十分に感じ取ることはできます。
 それにしても、音譜という記号から、ひとつ世界を創造する仕事、素晴らしいことです。記号が意味に変わる瞬間、これこそ人間の知恵そのものです。モノが意味にかわる瞬間、これが現在の時代状況を反映しているのであれば、逆に「意味」を問い直す瞬間が必要なのかもしれません。それがいま、原点回帰という言葉で私たちに迫っているのかもしれません。そんな小難しいことを考えながら、マーラーの世界にどっぷりとつかっている休日の朝です。
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母の命日に思う

2009-02-01 09:27:48 | Weblog
 風邪が流行っています。週の初めに一緒に出張した一人は帰阪と同時に病院に直行、インフルエンザと診断されて2日ほど休みました。出向いた先に風邪が流行っていたために、結局、私を含めて同行した全員が風邪をひきましたが、軽症で済んだのは私一人でした。こういうときに、田舎育ちの本領を発揮するのでしょうか。
 なんということはありません。うがいを励行し、頻繁に手を洗い、夜更かしはしない。温かい卵酒を2杯呑んで、温かいベッドの中でぐっすりと寝るだけ。あとは成り行き任せです。今回も風邪薬のお世話になることはありませんでした。強いて言えば、手作り漢方酒であるタンポポ酒をいただいた程度で済みました。(^^♪
 さてさて、そうこうしているうちに、今年も12分の1が終わり、本日は、2月1日です。旦那が出張した機会を狙って、長女が孫を連れて1か月ぶりのご帰還です。1歳3か月もなると、なかなかしっかりしてきて、きちんとご挨拶もできるようになりました。
 きょう2月1日は、母の命日でもあります。30数年前のきょう、私は支店開設初めての行事の日の朝、電話で母危篤の知らせを受けました。どうしても職場に行って引き継ぎをしておかなければならないことがあって、職場に直行したら、上司に叱られました。「早く帰ってあげなさい」と。新大阪駅までタクシーを飛ばし、新幹線に飛び乗って岡山駅へ。そこで、特急「やくも」に乗り換えて、在来線に乗り換えて、実家についたのは午後も遅い時間でした。すでに葬儀の準備が始まっていました。お正月休みに帰省したときに、枕元で「春になったら、暖かくなったら、ゴロウ(愛犬)を連れて裏の山城にお弁当をもって花見に行こう」と話しかけるのが精いっぱいでしたが、母も私も、これが終(つい)の別れになるであろうことは、お互い目を見れば判っていました。ひとの別れというのは辛いものです。
 いま元気なら90歳も半ばの年齢。考えてみれば、私も、何年かすれば、母が他界した年齢になります。母は、私の子供(孫)たちを見ることも適いませんでした。もちろん、曾孫も。明治生まれの気丈な女性でした。後年は、東京に夫を残し、夫の実家の面倒を見ながら子育てに専念しました。最後は私一人になり、その私が京都の大学に進むと、田舎のだだっ広い家に独りで生活することに。お手伝いさんというよりも、話し相手の方と晩年、静かに暮らしました。体長を崩すと、長男一家が戻りましたが、父親が仕事を辞めて田舎に帰る決意をしたのは、そのあとのことです。父を憎んでも仕方ありませんが、母には本当に可哀そうなことをしたと、思っています。
 きのう、家内と私たちの老後のことを話しました。リタイアしたら湖北の山小屋を建て替えよう。隣地の雑木林も手に入れて広い面積を確保し、晴耕雨読を夢見る私には、ちょっとした畑のスペースもほしい。猪や野猿対策はどうするか。家内のために小さな陶芸窯を作ろう。家は2人で住むことができる程度で良いだろう。いやいや孫たちが林間学校替わりにやってこようから、あと2室ぐらいは用意しておいた方が良いかも。と、話は限りなく発展していきますが、しかし、頑張っても10年足らず?病気になったらどうする。見知らぬ土地で最後というのもどうか?
 ......数年後には、長女一家も、この街のマンションに引っ越してくると言っている。......結局、山小屋は夏の間のお楽しみということで、やはり生活の基盤は今のままが良いか。とまぁ、熱燗を楽しみながら、冬の夜の果てしない団欒は夜遅くまで続きました。

【写真説明】職場の近くにある公園の風景です。シューベルトの「冬の旅」を想起させる冬の淋しさが伝わってきましたので携帯カメラに収めました。昨日は、その足で梅田の繁華街に向かいました。2枚目の写真は数年前の湖北の山小屋風景です。これまた淋しい風景です。....と書き込んでいると、冬の明るい太陽が部屋の中に差し込んできました。きょうは、モーツァルトとブラームスのクラリネット五重奏を聴きながらのブログ更新でありました。
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