心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

蓮の芽

2011-05-29 09:04:13 | Weblog
 ことしは例年になく早く梅雨入り宣言がありました。それどころか、5月だというのに台風2号のご登場とあっては、なんとも落ち着かない5月最後の日曜日です。ラジオからは刻々と大雨警報の告知が続きます。こんな雨の日は、なんとなく気持が内向きになるので良くありません。
 と思いながら、机に積み上げた本に目をやります。先日、新大阪駅の書店で購入した吉田秀和著「マーラー」。河出文庫は、須賀敦子全集、南方熊楠全集以来、私にはお気に入りの文庫です。もう一冊は、福岡伸一著「世界は分けてもわからない」(講談社現代新書)です。分子生物学者である福岡先生の文章が気に入っています。きょうは、この2冊を眺めながら過ごしましょうか。
 そうそう、先週、山陽新幹線に乗っていて気づいたのですが、5月も下旬になると、山肌の風景もずいぶん変わって見えます。淡い緑からコブシ、ヤマザクラ、ツツジの花の季節を過ぎて、今は柔らかな緑葉に覆われているのです。落葉樹が最も活き活きとする季節なんですが、葉っぱを太陽に向けて大きく広げている姿は、私の心まで元気にしてくれます。

 さて、きょうの写真は、蓮の芽です。昨年の夏、京都・宇治に遊びに行ったとき、池の淵でこぼれ落ちそうになっていた蓮の種を3個いただきました。それが先日、机の引き出しの中からひょっこり顔を出したのです。どうしたものかとネットで調べてみたら、6月頃が種の植え時だとか。さっそく堅い種の底をヤスリでこすり、水を満たしたコップの中に入れておきました。すると1週間後、広島から帰ってみると、堅い種の端から細い芽が伸びていました。写真は約10日経ったお姿です。
 次の作業は地植えです。きのうホームセンターで「けと土」というものを買ってきました。ヨシやマコモなどからなる湿地の腐植土で粘りと保水性のある特殊な土なのだそうです。1年目なので芽の伸びた3個の種を1個ずつ小さめの植木鉢に植えて、つぎに少し大きめの鉢の底に並べます。水を満たして出来上がり。さあて、どうなるものやら。この鉢は家内お手製の陶芸作品なのですが、来年はもう少し大きめの鉢を作ってもらうことにしました。我が家のビオトープでも作りましょうか。

 6月に入れば、田舎ではホタルの季節を迎えます。大阪都心部に位置するホテル太閤園では、「ほたる物語」と銘打って日本庭園に舞うホタル鑑賞会が始まりました。人の心とは裏腹に、自然の時は確実に進んでいます。
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小倉の街

2011-05-22 09:53:05 | 愛犬ゴンタ

待ちに待った日曜休日ですが、きょうも午後はお仕事のためにお出かけです。この歳になると、週1日は心のお休みをいただかないと、どうも具合が悪いのですが、致し方ありません。でも、とあるホテルでの2時間だけ神経を集中させたあとは、だらあ~としながら都会の風景を楽しんでくることにいたしましょう。きょうは、先週に引き続いて諏訪内晶子さんのCDを手に取りました。「クリスタル」です。バッハ、イザイ、サラサーテ、ドヴォルザーク、ブラームス、チャイコフスキー、ラフマニノフのヴァイオリン小曲が続きます。

 ところで、先週の日曜日、ブログの更新を済ませたあと、愛犬ゴンタ君と動物病院にでかけました。例年より少し遅れましたが、狂犬病予防注射と混合ワクチンの接種です。それだけならすぐに終わるところですが、最近、ゴンタ君が後ろ足で耳をかく姿をよく見かけるものですから、調べていただきました。綿棒を耳の奥に入れて、そこについた耳垢を検査すると、マラセチアと呼ばれる酵母菌(真菌)が見つかったのだそうです。病名は「外耳炎」でした。
 耳の中を触るのを嫌がるゴンタ君に、口輪をつけ、暴れないように若い動物看護士さんに身体を抱えられる不様な姿。でも、若い女医さんに「ゴンタ君は学習能力があるんだ」なんてお世辞を言われて、まんざらでもなさそうな顔つきのゴンタ君。飼い主に似てお調子者でした。まあ、初期の症状のようでしたので、神経質になる必要もないとの診断でひと安心。お薬をいただいて帰りました。
 話は変わりますが、先週も結構な空間移動をいたしました。火・水・木と広島で働いて、木曜日の午後には北九州市の小倉に移動、その夜はご当地の皆さんとのご懇談でした。で、翌朝一番の新幹線に乗って大阪に舞い戻り、午後は会議で潰れました。やっとのことで自宅に帰ると、翌日、つまり昨日は再び広島市内に日帰りで往復。そしてきょうの日曜日は、午後からお出かけというありさまです。......冷静に考えてみるとムダも多いように思いますから、おいおい整理をしていくことにいたしましょう。

 そんななかで、木曜日は、前日の夜に懸案事項が解決したので、少し気分も晴れやかに少し早めに小倉に向かいました。小倉駅についたのは4時過ぎでした。会合までの2時間、小倉の街を散策しました。いつものように、地元の古書店をひやかしたあとは、駅前の商店街を歩きました。何筋か進んで、バス通りを渡ると、向こうに「旦過市場」(たんがいちば)の看板が目に留まりました。入っていくと、それまでの商店街より道幅がぐんと狭まり、お店とお客の距離感が近くなります。魚屋、八百屋 肉屋、惣菜屋など様々なお店がずらりと並んでいて、店先には新鮮なお魚が並べてありました。なんとも良い雰囲気でした。これもひとつの文化です。後でお聴きしたのですが、天蓋(アーケード)形式の市場の草分け的な存在でもあるとか。ミラノのドゥオーモ広場のガッレリアとは規模は違いますが、人と人の出会いの場という意味では同じです。

 まあ、こんな具合で時々息抜きをしながら、しかし新しい課題をひとつひとつ解決していく、そんな日々が続きます。

<写真説明>
上段:愛犬ゴンタ君の治療風景
中段:小倉城庭園から天守閣を望む
下段:楽しそうな旦過市場(「旦過市場」のサイトからお借りしました)

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絆(きずな)

2011-05-15 09:36:27 | Weblog
 5月の連休で身体が鈍ったからでしょうか。先週、木曜日の夜、自宅に辿りついたときは、もうヘトヘトでした。職場でのややこしい問題もありますが、なによりも物理的に身体が言うことを聞かない。夕食もそこそこにベッドに横たわり、そのまま朝を迎えました。

 そんな1週間を終えて、きょうの日曜日は快晴の朝を迎えました。愛犬ゴンタのお散歩をすませ、部屋のお掃除を済ませると、きょうは久しぶりに諏訪内晶子さんのCDから「スラヴォニック」を取り出し、ドヴォルザークやヤナーチェク、ブラームスのヴァイオリンソナタなどを聴きながらブログ更新を楽しんでいます。その間には、檸檬やスダチ、洋ラン(デンドロビューム)の写真も撮ってアップに備えました。

 さて、いよいよ本論に入りますが、そう、一週間を振り返って心に残ったもの。ひとつ目は、東北大震災の被災地で救援活動をしてきた方のお話を聴いたことでしょうか。その方は介護福祉のお仕事をされている方ですが、被災地でご活躍のお写真を拝見して、避難所で暮らす方々と同じ目線で、笑顔を絶やさずに向き合っている姿に感心いたしました。その方の笑顔がなんとも素敵に見えて、ひょっとしたら私たちはこんな笑顔をどこかに置き忘れてはいないか。福祉の仕事はきついという印象があるためか若者たちに敬遠されていると言われていますが、もっと奥深いところで「心」が揺らいではないか。本来あるべき人の在り様が軽んじられてはいないか。だから、仕事と給与水準が労働実態とはかけ離れている。なにやら奥深い時代的課題が見え隠れしています。
 ふたつ目は、商店街でのこと。地域共生というテーマを追うなかで、商店街の方々とお付き合いを始めて3年が経過します。最近は、出張先でもついつい地元の商店街を覗いてしまう癖があります。先日も鹿児島中央駅を降りて向かったのは商店街でした。駅構内の真新しい大型店舗の盛況ぶりとは裏腹に、駅前商店街は淋しい雰囲気でした。全国展開の大型店の地方進出が、商店街からお客を奪う。私には、お客だけではなく地域の文化、人と人の絆までも奪ってはいないか、そんな不安があります。昨年、北海道の苫小牧に行ったときも、千歳から市内に向かう車中で見えてくるのは、残念ながら全国チェーン店でした。でも、経済の浮き沈みのなかで大型店が姿を消していく事例は少なくありません。そのときは、もう手遅れです。地域文化そのものが崩壊しています。いまいちど地元に密着した商店街の在り様を考えても良いのではないか、そのように思います。
 実は、昨日は職場の近くにある商店街でイベントがありました。私も若干の関与をさせていただきましたので歩いてみると、ふだんは人通りの少ない商店街にお客があふれ、活気があふれていました。通りの一画では、地元高校のブラスバンド部の生徒さん30名ほどが演奏をしています。その周りには買い物帰りの老若男女100名が立ち止まり、手拍子を取りながら演奏を楽しんでいらっしゃる。こんなささやかなコンサートに人が集い、ほんのわずかな時間であっても、あどけない生徒たちの司会進行でお客の心がひとつになっている。音楽っていいなあ、と改めて思いました。生徒の皆さん、引率の先生方にお礼を言って、その場を跡にしました。

 最近、リスクマネジメント、と言う言葉がもてはやされています。行政に危機管理室が設けられ地域防災がさかんに議論されています。しかし、根底に人と人の「絆」が形成されていなければ、危機管理も専門家たちのお題目にすぎません。それは今の政府の対応をみていると判ります。私も、まだまだ学ばなければならないことがたくさんあります。いまの仕事以上に大きな課題に気がついたようで、ひょっとしたらリタイア後の生き方に繋がっていくのではないか。そんなことを思った一日でした。 
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サステイナビリティー

2011-05-08 10:15:28 | Weblog
 5月の連休も、暦通りではありましたが、あっという間に通り過ぎていきました。次男君が帰省して、長女一家が孫君を連れてお泊りにやってきて、ふだんとは違う空気に包まれた我が家でした。連休の合間の、私が仕事の日に、家内は皆を信貴山の農場公園に誘い、そこで孫君は初めて鶏卵採りや玉ねぎ、キャベツの収穫など貴重な自然体験を楽しんだようでした。

 そんな慌ただしい日々が過ぎて、最後の土日連休は、家内と二人静かに過ごしました。と言っても、昨日は家内のお誘いもあって滋賀県は長浜にまで足を伸ばしました。NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の舞台になった土地です。以前にも一度おじゃましたことがありますが、そのときは湖北の山小屋を出発して今津港から竹生島に渡り、長浜港に着くルートでした。今回は朝早く大阪を出発してぞんぶんに街の空気を楽しむことにしました。1日中歩き回ったあと、太閤温泉で汗を流して帰りましたが、さすがに今日は足腰に痛みが残ります。

 大河ドラマを真剣に観たことのない私は、行く先々で歴史の説明を受けながら、「そうなんだ」「そうだったのか」とお勉強の一日でした。日本史に疎い私ですが、16世紀、室町時代の出来事が西暦で表わされると、中世イタリアの歴史風景が浮かんできます。ルネッサンス、ミケランジェロ、マキアベッリ。そう、マキアベッリが君主論を著したのが1532年でした。当時は宗教戦争に端を発して、中世から近代への胎動が始まろうとしていた、そんな時代に日本は戦国時代。浅井三姉妹が生きた時代と重なります。三姉妹の真ん中の初がクリスチャンになるのも、時代の大きな流れなんだろうと思いました。

 歴史と言えば、5月1日の朝日新聞グローブの特集記事に「日本人の起源」が掲載されていました。「未曾有の大震災に見舞われ、日本人は肩を落とした。政治や経済でも、かつてのような自信を失い、進むべき道を見失っているかのようだ。この国の未来が問われる時代だからこそ、過去にさかのぼってみる。日本人は何者なのか」という前文で始まるこの特集は、ミトコンドリアDNA解析をもって日本人の起源、ルーツに迫るものでした。
 この記事に感化されて私が手にしたのは、福岡伸一先生の著書「動的平衡」でした。改めて読み返してみると、生命とは本来、常に分解と再生を繰り返し自らを作り替えていることを知ります。私たちの細胞のひとつひとつは決して立ち止まってはいない、常に更新を続けている。それによって生命は環境の一部として持続性を維持してきた。それを福岡先生は「動的平衡」と言う言葉で表現します。
 「身体のあらゆる組織や細胞の中身は常に作り変えられ、更新され続けている」「流れながら全体として秩序を維持するため相互に関係性を保っている」「生命は”流れ”であり、私たちの身体がその”流れの淀み”であるなら、環境は生命を取り巻いているのではない。生命は環境の一部、あるいは環境そのものである」「生命は可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」「環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる」
 「サステイナビリティー」という言葉は、私も最近よく使います。人と人の関係、組織と組織の関係、マネジメントをも視野に入れた意味に思えるからです。目先の損得ではない、時間軸のなかに身を置いて、地に足の着いた議論をするための大前提です。気分的にゆったりした1週間あまりの連休のなかで、私は時間軸を抉じ開け、硬直した頭脳に新しい酸素を送りこめたような気がしています。
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山野草を愛でる

2011-05-01 09:54:29 | Weblog
 変則的な勤務にシフトして1カ月が過ぎようとしています。気が張っているせいでしょうか、疲れが出るわけでもなく、あっちに行ったり、こっちに行ったりと、落ち着きのない日々を過ごしています。でも、さすがに昨日の朝は、起きることができませんでした。前日の夜、何をする気にもなれず布団のなかに潜り込んで、あとは熟睡状態、気がつけば予定の起床時間を過ぎていました。土曜日という気楽さもあって、いつもより少し遅めのご出勤とあいなりました。還暦を過ぎましたから、無理は禁物です。我が身を労わりながら、マイペースで仕事を楽しむことにいたしましょう。帰り路、散髪をして、身も心もさっぱりいたしました。

 さて、先週は土日を鹿児島で、1日をおいて火・水・木と広島勤務、そして迎えた金曜日の祝日は宝塚の清荒神清澄寺にお参りでした。年に一度のお参りですが、伸び伸びになっていました。大阪・梅田から、いま映画で話題の「阪急電車」に乗って、およそ30分。清荒神駅下車、徒歩で20分ほどでしょうか、ちょっとしたハイキングを楽しむように山の上のお寺に登っていきます。参道には、以前ほど多くはないけれど、小さなお店が立ち並び、参拝客を誘っています。そんな参道の一画で山野草展が開かれていました。50鉢ほどの小さな展示会ですが、愛好家の方々が丹精をこめて育てた草花は、決して華やかではないけれど、素朴な姿が私の目を楽しませてくれました。
 中国地方の山々は、コブシの花が咲き、芽立ちの季節を過ぎて山桜の花が咲き、今は若葉に覆われ低木のツツジが満開です。最も活き活きとしている季節です。その昔、5月の連休になると、父のお供をして山歩きをしました。管理をお願いしている方のご案内で、森の奥の奥まで分け入り、代々受け継いできた山々を歩きながら、父は、杉や檜の成長度合を確かめ、時々切り株に腰かけては煙草を美味しそうに吸っていました。古き良き時代のことです。そんな父のお供をしながら、昼間でも薄暗い樹木の下で、見たこともない変わった植物に出会うことがありました。清水に濡れた山肌に、ひっそりと春を楽しむ可憐な草花が、ありました。森の神秘さを思ったものでした。

 清荒神さんの参道に、山野草専門のお店があります。帰りに覗くと、店の奥からお婆さんが出てきて、山野草の魅力や栽培方法などをいろいろと説明してくれました。そんなわけで、イカリソウの仲間である「楊貴妃」を一株、テンナンショウの仲間である「ウラシマソウ」一株を買って帰りました。自宅に持ち帰って、葉水をして眺めていると、静かな森の中を歩いているような、そんな錯覚を覚えました。本来なら人知れず山奥の木陰でひっそりと生きているであろう山野草です。人の組織とマネジメントに明け暮れている現世とは異なる世界が、そこにはありました。そして、つい、熊野の山奥で粘菌を探してまわった南方熊楠のことを思い出しました。

 さてさて、ゴールデンウィークを迎えて我が家では、きのう次男君がご帰還でした。それに合わせて長女一家もご参集、孫君もやってきました。久しぶりに賑やかな我が家の騒々しさに、愛犬ゴンタ君は安眠を妨害されたと言わんばかりに、少し戸惑い気味です。
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