心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

水無月 あれこれ

2021-06-27 14:48:15 | Weblog

 緊急事態宣言から蔓延防止に切り替わり、世の中は少しずつ日常を取り戻しつつあります。先週は火曜日の水彩画教室に始まり金曜日のフランス文学講座まで出ずっぱりでしたが、さすがに4日連続で出かけると古希を迎えたお爺さんも相当に疲れが溜まります。週末はぐっすり8時間も眠ってしまいました。
 そういえば、淀屋橋から梅田の水彩画教室に向かう途中、後ろから私の名前を呼ぶ声がしました。振り向くと、現役の頃同じ部署にいたT君でした。今は部署を統括するポジションに就いて頑張っていますが、かつての部下が大きく成長し活躍している姿を見るのは嬉しいものです。

◇   ◇   ◇

 さて、お天気が定まらない梅雨の季節、紫陽花もひと段落して、菜園ではミニトマトの実が色づき始めました。フェンスを這うアケビの実も少しずつ大きくなっています。私の気づかない間に植物たちもしっかりと根を張り成長を続けています。
 そうそう、3週間前に仕込んだハーブ酒3種。先日、瓶からハーブの葉と茎を取り出しました。あと数カ月寝かせれば完成ですが、ちょっとだけカモミール酒をいただいてみると、なかなかの香りに仕上がっていました(笑)。
 昨夜は、久しぶりに出雲の姉に電話をしました。届いたお中元のお礼を兼ねて近況を尋ねます。いつ電話をしても姉は「子供は何歳になったかね。何年生?」と尋ねます。いつものように「もう孫が6人もいる」と答えると「結婚のお祝いをちゃんと渡したかいねえ」と....。アルツハイマーの投薬を始めて数年。進行は抑制されていますが所々で記憶が途切れます。それでも、十数年も前、生け花の指導のためにフランスに行ったときのことを楽しそうに話してくれました。相変わらず元気そうでなによりでした。
 孫と言えば昨日、近所に暮らす孫次男君がピアノのレッスンの前にやってきて、入院間近い家内に手渡したものがあります。不死鳥らしき絵の横に「手じゅつがんばって」と書き添えてあります。彼は彼なりに心配をしてくれているようです。お祖母ちゃんっ子ならではの贈り物でした。 
 そして今日は午前中、2カ月ぶりに再開した山本能楽堂の能楽講座に行ってきました。テーマは「土蜘蛛」。副題に「能のリズムは8拍子?その2」とあります。先生の謡、太鼓方の実演を通して能独特の拍子と掛け声についてお話しを伺いました。
 その能楽堂に向かう途中、中大江公園を横切っていると、明治の文人・宇野浩二の文学碑に出会いました。「1891年(明治24年)福岡市に生まれる。幼少期を糸屋町や宗右衛門町で過ごし、「十軒路地」などの作品に、大阪の人情や風俗を独特の文体で描写した」とあります。文学碑があることは以前聞いていましたが、初めてのご対面です。一度作品を読んでみようと思っています。
 こうして6月水無月は静かに幕を閉じようとしています。うぬ?梅雨なのに水無月?気になったので広辞苑を調べてみると「古くは清音。「水の月」で、水を田に注ぎ入れる月の意」なのだそうです。お勉強になりました。

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夏至を境に変わる生活

2021-06-21 21:23:07 | Weblog

 今日は二十四節気で言うところの「夏至」。1年で最も昼間が長く、夜が短い日です。以前、といっても25年も前のことですが、英国はバーミンガムに出かけたとき、パブの帰り道、夜の9時を過ぎてもなお街が明るかったことを覚えていますが、日本ではそこまで明るくはありません。窓の外はもう真っ暗です。
 今夜の我が家の食卓には「タコ」が出ていました。大阪育ちの家内の話によると、大阪では夏至によくタコを食べるのだとか。理由は知らないというのでネットで調べてみると、「稲がタコの足のように根をはりますように」との願いが込められているとありました。

 さて、今週も比較的のんびりと過ごしました。でも、毎朝、小鳥たちと競争したことがあります(笑)。庭先にあるブルーベリーの実です。昨年は、実が熟して間もなく小鳥たちに食べられてしまいました。今年こそはと、小鳥たちがやってくる前に採取しました。でも、大人げないですね。あまり可哀そうなこともできませんので、数日後には思う存分に食べていただきました。
 そんなある日、我が家では最後の紫陽花が開花しました。どういうわけか今年は4種類の紫陽花が順番に見頃を迎えて楽しませてくれました。来年はひと回り大きく育ってくれるだろうと期待しています。
 そうそう。玄関口にサボテンの鉢が置いてあります。このサボテン、実は四国歩き遍路の道すがら畑の隅に捨てられていたサボテンの残骸から新芽を1個いただいて帰ったものです。2年ほど経ちますが、いつの間にか大きく育って昨秋大きな鉢に植え替えたのですが、なんと、このサボテンに黄色い花が咲きました。Googleレンズでサボテンの名前を調べてみると、「円武扇」という名前がヒットしました。
 昨日は熱帯魚の水槽の掃除もしました。お住まいになっているのはプレコ親分とその仲間たちです。このプレコ、我が家に来たときは5cmほどでしたが、10年以上経った今では32cmにも成長しています。60cmの水槽という限られた生活圏ではありますが、しっかり生きています。
 ここで話は変わります。先日、6月19日が「朗読の日」であることを朝日新聞の天声人語で知りました。声に出して本を読むことの主旨でしたが、最近はオーディオブックなるものの利用も増えているとか。そういえば、隣町の図書館で借りた泉鏡花の「高野聖」に続いて先日、夏目漱石の「草枕」を借りてきて、いま聞いています。
 オーディオブックについていろいろ調べていたら、我が街の図書館に「電子図書館」なるものがあることを知りました。サイトを覗いてみると、電子媒体の図書を簡単に借りたり返却したりできます。「声の本」のコーナーもあります。一部の書籍は「読み上げ機能」まで付いていて、デジタル化された書籍をAI機能で読み上げてくれます。人間が読むほどの流暢さはないものの、なんとなく聞くには不足はありません。著作権の問題もあるでしょうから、新刊本というわけにはいかないでしょうが、高齢者にとっては心強い限りです。

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 さて、今日をもって2か月にわたった自粛生活ともお別れです。明日から水彩画教室が再開され、翌日にはお手伝いをしている講座も始まります。週末には久しぶりにフランス文学講座、今度の日曜日には能楽講座もあります。
 そんなわけで、自粛期間中、このブログも1週間という間隔は維持しつつも、1日ずつ前倒で更新してきましたが、明日から普段の生活に戻ることになりますので、次回から当分の間、日曜日に更新することにいたしました。乞うご期待、と言いたいところですが、なにせお爺さんの戯言に過ぎません。お気軽にお越しいただければ幸いです。

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初夏の紀三井寺と粉河寺を巡る

2021-06-16 10:18:24 | 西国巡礼

 晴れのち曇り、時に雷雨、そして晴れ、小雨、曇り.....。何とも落ち着きのないお天気が続きます。そんなある日、庭のあちらこちらに繁るドクダミを刈り取って軒下に吊るしました。ドクダミ茶(十薬)を作るためです。古来、乾燥した葉や茎を煎じて飲むと利尿作用、動脈硬化の予防、解熱や解毒などに効果があると言われています。でも、我が家で常飲しているのは私だけ(笑)。家内も子供たちも敬遠しています。自然の恵みをいただくのは健康に生きる術のひとつなんですけどねえ(笑)。
 今週も、お散歩と庭のお手入れ、そして読書に音楽鑑賞とゆったりまったりの日々を過ごしました。変わったことと言えば、隣町の図書館におじゃましたときのこと。朗読CDに目が留まりました。そうか、文字ではなく音声で小説を楽しむ方法もあるんだと。加齢と共に小さな文字が見えにくくなってきましたので、一度試してみようということで、新潮CDシリーズから泉鏡花の「高野聖」を借りて帰りました。
 本を開いて活字を追っていると、ついつい難しい文字の前で立ち止まってしまうことがあります。でも、音声だと話の流れをいちいち止めるわけにもいきません。流れに任せるしかありません。すると、文字とは違った世界が広がります。不思議なものです。
 泉鏡花の「高野聖」を実際に手にとったのは今回が初めてでした。ある旅僧が飛騨の山越えをしたときに出会った奇妙なお話です。山深い旧道を歩いていると、木の枝から蛭(ひる)が降ってきて身体にへばりついて血を吸う。その場から逃れようとすると、偶然にも色白の美しい女性(男を誑かしては蛭や獣に代えてしまう魔力の持ち主)に出会う。ついつい魅せられてしまいそうになるけれども、翌朝、旅僧は邪心を振り切って飛騨に旅立つ。.....なんとなく、村上春樹の世界を彷彿とさせる怪奇かつ幻想的な昔話のようでありました。

         ◇       ◇       ◇

 それはともかく、飛騨に向かう山道の描写を聴きながら、ふと四国八十八カ所(歩き遍路)に出かけていた頃のことを思い出しました。昼間だというのに薄暗い杉林の中を独り歩き続けたこと。旧道を選んだばかりに途中で道に迷ったこと。遠くに聞こえる海の波の音だけを頼りに歩き続けたこと。土砂降りの雨の中をずぶ濡れになって山を下ったこと....。今となってはよくもまあ歩けたものだと感心するばかりです。
 なにかしら心の中に蠢くものがありました。朝夕のお散歩だけでは心を満たすことができないもどかしさ。穏やかな仏像の表情が懐かしい。....しばらくしてふと思いついたのが「西国三十三カ所巡り」でした。これまでにお参りしたのは三十三カ寺中9カ寺に過ぎません。ならば、未だお参りをしていない24カ寺を巡拝しよう。そんな気持ちが膨らみました。といっても四国お遍路のような巡礼スタイルは採らず、公共交通機関を利用して気軽にふらっと日帰りできる、そんなのんびりした巡礼も悪くないかもと。
 思い立ったらじっとしてはいられない性分です。翌日の朝、さっそく和歌山に向かい、第2番札所の紀三井山金剛宝寺(紀三井寺)と第3番札所の風猛山粉河寺をお参りしました。
 早朝JR天王寺駅を出発、和歌山駅で各駅停車に乗り換えて二つ目の駅が紀三井寺駅です。そこから歩いて10分ほどのところに金剛宝寺(紀三井寺)はありました。朱塗の楼門をくぐって境内に入ると、230段ほどの急な石段がお出迎えです。その石段を一歩一歩踏みしめながら登っていくと、和歌の浦を一望できる境内に到着します。室町時代や安土桃山時代に建立された建物が立ち並ぶ奥に、立派な本堂がありました。お参りした後、真向いの新仏殿にいらっしゃる日本最大の大千手十一面観世音菩薩(高さ12m:平成20年開眼)にお会いすることができました。
 次は粉河駅へと向かいます。紀三井寺駅を出発し和歌山駅での乗り換え時間を含めておよそ1時間。駅前から通じる門前町通り(でも人影がない)を歩いて15分、朱塗りの大楼門がお出迎えです。さらに進むと紀州徳川10代藩主・治宝直筆の扁額(風猛山)を掲げる中門が現われ、その先にそれは見事な本堂がありました。
 豊臣秀吉の焼き討ちにあい全山焼失のあと江戸時代に再建されたという歴史をもつお寺でした。あいにくご本尊をまじかに見ることはできませんでしたが、帰りがけ丈六堂内に安置されている阿弥陀如来像にお目にかかりました。風雪に耐えて鎮座するお姿にしばし見とれてしまいました。
 初夏の紀州路、久しぶりの古寺巡りでした。お天気にも恵まれ、千数百年という長い年月を経て今もなお庶民の信仰を集める古寺の風情を心ゆくまで堪能しました。宗教心に乏しい私ですが、仏様のお姿を前に身も心も洗われる思いがいたしました。

 さあて、明日は事務所にご出勤です。来週から再開する講座の準備です。いったん緩んだ緊張感を元に戻すのは大変ですが、徐々に軌道修正をしていくことにいたしましょう。

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ワクチン接種のあとジャカランダの花を愛でる

2021-06-10 10:39:13 | Weblog

 梅雨だというのに、ここ数日、真夏日が続いています。我が家のアジサイの花は早や夏バテ気味かも。線香花火の風情です。
 二十四節気では「芒種(ぼうしゅ)」といい、田植えを始める時季なのですが、ここ大阪では週末まで雨が期待できません。それでも、郊外にわずかに残る田圃では田植えの準備が始まっています。
 そんなある日、自転車に乗って公園に立ち寄りました。水鳥の幼鳥も立派に成長し、池をすいすい泳いでいます。すると目の前にアオサギが一羽舞い降りてきて、柵の上に留まりました。じっと空(くう)を見つめています。何を考えているんだろう?獲物を探している?それとも何かお悩みでも?3メートルまで近づいても動こうともしません。その凛々しいお姿を写真に収めました。
 さて、今週は第1回目のワクチン接種の話題から始めましょう。
先日、やっと我が家に接種券が届きました。さっそく市内の集団接種会場に予約を入れようとしましたが、今月いっぱいは満員。通院している病院に確認すると80歳以上の方に限定して接種しているのだと。ならばと大阪・中之島の大規模接種会場予約サイトを覗いてみました。幸運にも翌日に1人分の空きが出ていることが判明、即予約しました。(残念ながら家内は月末から1週間ほど入院する予定なので、接種はその後になりそうです)
 接種時間は午前8時30分でした。府立国際会議場に30分前に到着すると、8時接種組が整然と並び順番に入館中でした。しばらくして8時30分組の入館です。入口で検温と手指の消毒を済ませると、受付会場に移動。簡単な受付のあと大ホールに移って客席に座り指示を待ちます。しばらくして「整理番号Aの方、ご移動ください」というアナウンスがあり別室に案内されると、接種券と身分証明書、問診票をチェックされ、各ブースに分かれて問診そしてあっという間に接種が終わりました。つい「もう終わったんですか」と私(笑)。テレビで痛々しい映像を何度も見ていましたが、痛くも痒くもありませんでした。2回目の接種日を予約したあと、堂島川を望む部屋で15分程度の経過観察を経て退場となりました。
 その間、およそ1時間。どこかのコーナーでごった返すようなこともなく、案内に沿って淡々とスムーズに流れていきました。日本人の特性?それとも実施者の優れた動線設計のため?いずれにしてもひと安心です。(ちなみに夜になって接種した側の上腕に若干の違和感がありましたが、今朝になると収まっていました)。
 無事接種を終え気分を良くした私は、直帰することなく、天王寺にある一心寺に向かいました。どうしてかって?ある方からジャカランダ(紫雲木)の花が咲いていると教えていただいたからです。ジャカランダって何?聞いたことのない名前なので興味津々でした。
 ネットで調べてみると、ジャカランダとはノウゼンカズラ科の落葉高木で、初夏に青紫の花を咲かせます。鳳凰木、火炎木に次ぐ世界三大花木のひとつと言われ、アルゼンチンなど中南米が原産のようです。久しぶりに一心寺を訪ねたのでお参りを済ませた後、静かな境内を回ってそのお姿を写真に収めました。樹木の先端の青葉の周りに小さな青紫の花をちりばめたよう。青空に映えてなんとも言えない美しいお姿でありました。
 アルゼンチンと言えば、ブエノスアイレス生まれの世界的なピアニストのマルタ・アルゲリッチさん。20数年前から「別府アルゲリッチ音楽祭」の総監督を務め若手音楽家の育成にも努めていますが、その功績を讃えて大分県が先ごろ、80歳の誕生日を迎えた6月5日を「マルタ・アルゲリッチの日」に制定しました。なんと粋な計らいであることか。
 そんなわけで今日は、私が学生の頃初めて出会ったアルゲリッチのLPレコード「ショパン・リサイタル」(1967年録音)を聴きながら、ゆったりまったりのブログ更新とあいなりました。
 さてさて。この1カ月あまりのんびりと過ごしてきましたが、コロナ感染者数も徐々に減ってきました。緊急事態宣言も6月20日をもって解除でしょうか?。下旬の講座再開に向けて来週後半から準備行為が本格化しそうな気配です。少~しずつ動き出すことにいたしましょう。

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梅雨の季節に「能」と「歌劇」に戯れる

2021-06-04 21:01:12 | Weblog

 梅雨の季節を迎えて雨が降ったりやんだりと落ち着きのない日々が続いていますが、庭の一画で二つ目のアジサイが開花しました。我が家では初めてのお披露目です。
 そんなある日、長雨で伸び放題のハーブたちのお手入れをしました。刈り取ったハーブは、カモミール、セージ、ローズマリーの三種。ラベンダーとレモングラス、タイムとミントはもう少し様子見です。
 ひと休みしたあと、カモミール酒、セージ酒、ローズマリー酒の仕込みをしました。ホワイトリカーと氷砂糖を加えて、あとは数カ月の辛抱です。3か月もすれば夏バテ防止の清涼剤(食前酒)になります。むかし湖北の山小屋に通っていた頃は、タンポポの根っこを採取してタンポポ酒をつくったこともありました(笑)。
 さて、今週は事務所に2回も出かけました。久しぶりに都会の空気を吸ったものだから、なんとなくウキウキ。気分を良くして帰りに日本橋の中古レコード店DISC.J.J.さんに立ち寄りました。最近、歌劇を観ることが多いので何か掘り出し物はないかと品定めすると、ありました、ありました。モーツアルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」とワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」。
 まず観たのはモーツアルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」でした。舞台はナポリ。相思相愛の二組の男女が登場しますが、老獪な老人の入れ知恵で女性の貞操の固さを試すというなんともおかしなお話でした。でも、さすがモーツアルトさんです。レチタティーヴォ、二重唱、三重唱、アリア、合唱と素晴らしい歌の数々を楽しみました。この作品は2006年の夏、ザルツブルク祝祭大劇場で上演されたものでした。
 その一方で、時間を持て余しているお爺さんは、録画したばかりのNHKEテレ「古典芸能への招待」を観ることに。演目は能「山姥 白頭」金剛流です。山姥の舞で人気を博していた都の遊女が、善光寺参りの途中で本物の山姥(鬼女)と出会い、山の世界(あちら側の世界)に暮らす山姥の素性と生業ついて話を聞くというストーリーです。色即是空。こちら側の世界とあちら側の世界。不思議な舞台でありました。
 日本の「能」と西洋の「歌劇」。ここ数日、頭の中が少し混乱しています.......。
 ストーリー自体は、歌劇であろうがお能であろうが、あるいは吉本新喜劇であろうが、大きな違いはありません。その多くが男と女にまつわるもの、強いて言えば歌劇がこの世の中を舞台に繰り広げられるのに対して、お能の方は現世と来世、幽霊、精霊、あるいは物事の表と裏の情念を独特の発声で歌い演じます。
 内に秘めた「情念」を謡と囃子に併せて演じる能の世界では、能楽師の仕草にある種の「型」があります。時に激しく時に静かに演じます。その間、(狂言を除いて)観客は押し黙って見入っています。眠っている人さえいます。上演中は拍手はありません。曲が終わり、演者が揚幕に入っていく頃になって、やっと拍手が起きます。
 これに対して歌劇は、愛、喜び、哀しみ....内に秘めた「思い」が歌に込めてほとばしります。観客は、上演の途中であっても盛大な拍手を送り、ブラボーという大きな声まで聞こえてきます。それを舞台の上の歌手が満足そうにうなづいている。幕が下りても拍手が鳴り止まずカーテンコールが続きます。
 場内の雰囲気はこれほどまでに違うのに何か変。「動」と「静」。それほどの違いがあるのに、舞台と観客との間に生まれる高揚感は、お能にも歌劇にもあります。共通する心の高まりがあります。一体なんなんでしょう。もうしばらくお付き合いをしながら考えてみたいと思っています。この歳になって愛や恋やと言われてもなあと思いつつ、のめり込んでしまう私でありました(笑)。

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