心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

生野銀山~銀の馬車道を歩く

2013-09-29 14:21:33 | 歩く

 7時間ぐっすりと眠った秋の日曜日の朝、身体中が何か重たい感じがします。それもそのはずです。昨日は銀の馬車道ウォーク(「生野銀山から生野峠まで)に参加したからです。金木犀の香り漂う兵庫県朝来市生野町を散策しました。
「馬が走り出す。山が一瞬、両側からせりだしてきたように思え、マリーは目を細めた。家が見える、人がいる、神社がある。川が傍らをついてきて、風が鳴った。アカシア並木の一本道は、銀山から飾磨港まで全長50キロにおよぶ。生野で精錬した銀を馬車に積み込み、大阪の造幣局へと運ばせるために、この国で最初に作られた官営の道だ」 玉岡かおるの「銀のみち一条」の一節です。明治政府が鉱山の近代化を図るため、「お雇い外国人第1号」として雇い入れ、明治元年に来日したフランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエが、任を終え妻マリーを伴って帰国の途につくときの情景を描きました。
  この馬車道は、コワニエの命により技師レオン・シスレイの指導で着工し、明治9年に開通しました。道路を水田より60センチ高くし、馬車が滑らかに走行できるように、あら石、小石、玉砂利を順に敷き詰められました。生野鉱山寮馬車道、別名生野銀山道と呼ばれていますが、今は跡形もありません。
  このルートを5回に分けて歩こうというのが今回のツアーでした。私は初回のみの参加です。明治初期の異人館はもうありませんが、ミュージアムに展示してあった絵画にその面影を見ることができました。マリーは、ここから帰国したのでしょうか。
 生野銀山は大同2年(807)に発見され、室町時代に本格的な採掘が始まったと伝えられています。時の政府の関心は高く、織田、豊臣の時代を経て、江戸時代には「銀山奉行」が設置され、その後明治維新では討幕派の一揆もありました。「八重の桜」の時代と重なります。明治22年には宮内庁所管となり、その後三菱に払い下げられました。坑道が岩盤の圧力で崩壊する「やまはね」が頻発し、昭和48年に閉山となりました。

 坑夫の賃金が通常の2、3倍はあったということですから、生野の街は昔から栄えていたようです。明治6年に生野郵便局が開設され、明治33年には電話通話が開始され、明治34年には鉱業用自家発電により街に電灯がともっています。今も、街のあちらこちらに、明治大正期に建築されたであろう旧家が点在していて、当時の面影を偲ばせます。明治政府の役人の官舎も立派なもので、昔はハイカラな街だったと、同行の方から伺いました。昭和20年代に1万人を超えていた人口は、いまでは4千人に減っていますが、生野の歴史を守ろうという町民の熱意が伝わってくる街でした。きょう29日に開かれる「銀谷祭り」の準備で街が活気づいていました。
 坑道内の気温は13度でした。どこからともなく地下水の流れる音が聞こえます。時には激流のように。山は、まだ「生きて」いました。その昔、狭い坑内を這いつくばってノミで掘り進んでいた頃は、水害に悩まされます。機械化が進み掘削が大がかりになると「山はね」といわれる落盤が頻発します。いずれにしても地下800メートルまで掘り進んだわけですから、凄いとしか言いようがありません。地下何百メートルもの世界で、自分の立ち位置を決めるのは自分自身です。サザエの貝殻に菜種油を入れ、それを灯して掘り進む山の男たち。土埃と油の煤に侵されて、当時、30歳、40歳代で死んでいった彼らの過酷な労働実態が見えてきます。

 「銀のみち一条」には「生野女御」という言葉が登場します。「千年の昔、この山で初めて銀の鉱脈が発見されたその時に、山の地底深くから銀色に輝きながら現れた守り神。大同2年のことと言われている。以後、山の男たちは、危険を冒して山に入り、美しい女御の姿をしたこの神と、誠心誠意の契りを取り交わすことで銀を得たという」と。山の男たちが、山の神を崇めるのが判るような気がします。
 鉱山では、「求める銀が思うように出なくなれば、彼らは思案のすえに掘る筋を変える。(中略)それまでどれだけ大量に産出していた筋であっても、いったん直ると決めれば後悔しない、振り返らない。その潔さがなければ、いつまでも枯れた鉱脈に縛られて、まるで方向違いな地底に向けてずぶずぶ沈んでしまう」とも。それを「直利」(なおり)と言うのだそうです。壁から地下水がしたたり落ちる薄暗い坑道を歩いていると、この「直利」という言葉が、言葉以上の重みをもって私に迫ってくるのを感じました。
 生野銀山のレストランで昼食を取ったあと、軽いストレッチをして、いざウォーキング開始です。トロッコ道の面影を追いながら市川沿いに30分ほど歩くと生野の町中に入ります。ボランティアガイドさんに、明治期の建築物を案内していただきました。その中に、佐藤家住宅別邸がありました。「銀のみち一筋」の主人公、浅井咲耶子の実家として登場するところです。案内板には「江戸時代に郷宿と掛屋を兼務した建物で、土蔵造り。国登録文化財」。左端に小さく「作家・玉岡かおるさんの小説「銀のみち一条」で主人公の舞台として描かれています」とありました。

 さらに歩を進めると綾部邸があります。案内板には「日本の近代化に貢献したフランス人技師ドウー・セボーズの子・ルイが育った家でもあります」と記されていました。ルイも小説に登場しますが、セボーズの身の回りの世話をしていた女性との間に生まれた子供です。小説の世界のお話しと思っていましたが、本当のことでした。小説では、コワニエが立腹してセボーズを本国に帰国させました。ルイはマリーが育てました。しかし、マリーは、ルイの養育を日本人に預けて帰国してしまいます。日系フランス人・ルイのその後の人生は波乱万丈だったようです。
 こうしてみると、玉岡さんの小説は、実に多くの歴史的事実に裏づけされたものであるかが判ります。生野の街を何日も歩き回り、様々な史料にあたり、取材を重ねながら小説を構想されたのでしょう。何やら、塩野七生さんの「ローマ人の物語」を思い出してしまいました。
 午後4時、生野峠を越えヨーデルの森に到着して、この日のウォークは終了しました。3時間をかけて9キロ歩いたことになります。参加者はみんな健脚の方々ばかり。ベテランのガイドさんの案内で楽しい一日を過ごしました。鷹匠のお姉さんのお手並みを拝見し、 美味しいビールをいただいたあと、バスに乗って大阪に戻りました。

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音楽と戯れる初秋の休日

2013-09-22 00:07:51 | Weblog

 秋の夜長、肌に優しい微風を感じる素敵な季節となりました。三連休の初日の今日は、一週間遅れで野菜の種蒔きをしました。ルッコラ、サラダ菜、二十日大根、そして孫次男君の大好物ベビーキャロットです。野菜作りにもだんだん慣れてきて、我が家だけでは食べきれない収穫は長女のお宅にお届けです。
 そんなのんびりとした昼下がり、長椅子に寝転びながらLPレコードを聴きました。取り出したのは、ラザール・ベルマンの「カーネギー・ホール・コンサート’79」(ライブ録音)です。クレメンティ、モーツァルト、ベートヴェン、ショパン、リスト。アンコールはショッパンとガーシュインの作品でした。
 そんな曲を聴きながら、ふと思い出したのは高橋昌一郎著「小林秀雄の哲学」(朝日新書)です。新幹線の中で数ページほど読み進んで、はたと考え込んでしまいました。いわく「読者は、小林が実践した<思索>の軌跡をたどることによって、小林の<体験>を自己の体験と同一化し、小林の論理構造に自らの精神を委ねているのである。その時、読者は<考えて>いるのではなく、むしろ<信じて>いるのである」と。
 考えてみれば、なんの素地もなく、なんの脈絡もなく、ただただ難しい作品というだけで小林秀雄の人となりに拘ってきた。南方熊楠のそれと似ている。そんな小林との関係性のなかで、果たして私は何を考えてきたのか。改めて問い直してみると、なんとも心もとないものがあります。
 グレン・グールドにしてもそう。彼の生き様に拘りながら、果たして彼の演奏から何を感じ取ってきたか。まさに「音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい」(小林秀雄「美を求める心」)。
 いえいえ、まさにこの言葉が示すように、小林秀雄の言葉の中から、私はたくさんの気づきをいただいたし、なにかしら生きる力のようなものを感じ取ってきたのではないか。ものを見る視点、考える視点、私が持ち合わせていない時代を読み解く視点、そういうものを私は小林作品から学んだのではないか。そんなことをぼんやりと考えました。
 一服して次に聴いた曲は、ジャズピアニスト山中千壽の新作CD「モルト・カンタービレ」でした。先日、読売新聞で山中千尋「モルト・カンタービレ」…クラシック名曲を解体、という記事を見て、さっそく聴いてみました。「トルコ行進曲」「夢のあとに」「エリーゼのために」など全10曲が収められています。
 私にとってジャズは、脳味噌をシャッフルするのに最適です。頭の中を空っぽにして、すべての思考回路をぐちゃぐちゃにしてしまう。聴き終わったあとの爽快感。でも、そこからどう立ち上がっていくのかは、そのときの気分次第。こうして、私は右に振れたり左に振れたりしながら生きてきた。そうなんでしょうよ。きっと。
 そして秋の夜長、まん丸いお月さんを眺めながら聴いている曲はヘイリー・ウェステンラのCD「祈り」です。クラシックからジャズ、そしてクラシカル・クロスオーバーの女性歌手の世界へ。冷たいビールをいただきながらブログ更新の総仕上げです。(笑)
 そうそう、今週末はバスツアーに出かけます。といっても単なるツアーではありません。この夏、生野銀山を舞台にした玉岡かおるの「銀のみち一条」で、直利(なおり)という言葉に出会いました。その言葉を引きずって歩いていた頃、朝日新聞の旅行企画「銀の馬車道ウォーク」に目が留まりました。「室町時代に本格的な採掘が始まり、江戸時代には幕府の財政を支えた生野銀山。生野に産出した銀を飾磨港(姫路港)まで運ぶため築かれた日本発のハイウエー銀の馬車道」「往時の面影を辿りながら歩く近代化産業遺産の旅全5回」、とありました。心が動きました。1回目だけでも参加してみたくなりました。先日手続きが終わり、初秋の生野銀山界隈を散策します。距離にして9キロですからウォーキングといっても初心者コースです。
 さあて、日曜日は家内の両親の墓参りです。久しぶりに家内の妹夫婦ともお会いします。孫君たちも付いて行くというので大勢での墓参になります。そして10月初旬の土日には田舎に戻って兄の法要です。いろんな意味で、次を見据えた動きが少しずつ始まろうとしています。その日々を大切にしたいものです。

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季刊誌「kotoba」の特集「読書人のための京都」

2013-09-15 22:50:23 | Weblog

 昨日、家に帰ると何やら騒々しい。長女一家が孫君たちを連れてお泊りのようでした。予期せぬ客にブログ更新もままならず、やっと寝静まったこの時間を利用して書き始めました。とは言え、窓の外は風雨が強まっています。大型台風18号が本州最南端の潮岬沖に迫っている様子。今後の動向に注意しましょう。我が家では今夜、愛犬ゴンタもお家の中で静かにお休みです。
 さて、今日のテーマは、....。1週間の出来事を振り返ってみます。仕事の方は何やらゴタゴタ続きでしたが、さて仕事以外はどうなんだろう....。
 本を集中して読む時間も少なかったので、惰性で森鴎外の文庫を拾い読みしました。まずは「阿部一族」。余命幾ばくもないお殿様の跡を追って殉死を願い出る家臣十数名。家の誉れとばかりに切腹します。その中に、どうしてもお殿様から切腹を許してもらえなかった阿部何某の、その後の生き様が描かれていました。きょう市長選が告示された大阪・堺を舞台にした「堺事件」では、上陸したフランス兵に銃を向けた土佐藩の志士10数名が、その罪に問われ、切腹を命じられます。その場面がまた生々しい。「切腹」を潔しとする時代の出来事でしょうが、上司や国に忠誠を尽くさんとする誉れ高い精神性と切腹が、私のなかでは全く繋がりませんでした。
 そんなことを引きずって歩いていたら、多様性を考える言論誌「kotoba」2013年秋号に出会いました。今号の特集は「読書人のための京都」です。昨日、所用で京都に向かう電車の中でぱらぱらとめくっていました。そのなかに、冷泉家時雨亭文庫常務理事・冷泉貴実子氏の寄稿「冷泉家『守る力』の秘密」がありました。
 「歴史の自覚なしに、文化財は守れない。文化的価値を失うとき、文化財は失われる。誇りを失ったとき、守る力を失う」。冷泉家といえば、藤原定家を祖とする家柄ですが、終戦直後には税金を納めるのに苦労されたようです。大切にしていた屏風、香道具などを売り払って凌いだけれども、しかしながら定家以来の典籍古文書は守ったことが記されています。「これを守ったのは国家ではない」「冷泉家が伝えたから、今、この国に古今和歌集がある」と。浮ついた時代の趨勢に何かしらずしりと迫る重い言葉でした。
 帰る電車の中では、福岡伸一氏の寄稿「京都で生まれた思想~西田幾多郎と京都学派」を興味深く読みました。ここでは、「生命は、変わらないために常に変わり続けているものとしてある。生命は、壊れないように自らを壊し続けているものとしてある」という言葉に改めて考えさせられました。「エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能をになっている」と。動的平衡の、こうした考え方が西田哲学に近しいことを、某哲学者から教えられたのだそうです。そういえば「矛盾的自己同一性」という言葉に、昔ずいぶん悩んだことがありました。
 この日は同志社大学で用事があったので上洛しました。京阪電車の出町柳駅から今出川通りを西に向かって歩くと、御所が見え、今出川キャンパスが見えてきます。その正門を少し歩いたところに、実は冷泉家があります。明治期に建築されたレンガ造りの学舎を眺めていると、ふと不易流行という言葉が浮かんできました。
 久しぶりに寒梅館1階のレストランで昼食をいただきました。券売機で買ったチケットは「八重さんプレートランチ」です。美味しくいただきました。

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森鴎外「舞姫」とエリーゼ・ヴィーゲルト

2013-09-08 09:47:32 | Weblog

 今朝、雨の音で目が覚めたので、ラジオのスイッチを入れると、ちょうどIOC総会のクライマックスでした。2020年夏季五輪・パラリンピックの開催都市に東京が選ばれました。政治のごたごた続きで先行き不透明だったこの国にとって久々のヒットでしょうか。頑張って70歳まで生きながらえることにいたしましょう。
 そうそう、7月から続いていた癌検診ですが、結果はセーフでした。ポリープがいくつか見つかったものの悪性ではないらしく、病理結果は6段階のうちGroup3でした。今後の定期健康診断の様子をみましょう、ということになりました。もうしばらく通院は続きそうですが、昨年の「眼」検診、今年の「癌」検診と2年続きの精密検査で、病院通いもずいぶん慣れました。処方箋を持って薬局で薬をいただいたのも初めてでした。「おくすり手帳」なるものまでいただいて、なにやら幼稚園の頃に楽しい出席シールを貼ってもらったノートを思い出してしまいました(笑)。
 さて、今日のテーマは「舞姫」です。10日ほど前になりますが、朝日新聞で「舞姫 エリス 写真あった」「森鴎外小説ヒロインのモデル」という記事を読みました。鴎外が自らの悲恋をもとに書いたといわれる小説「舞姫」のヒロイン、エリスのモデルが実在し、それがドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトだったことは、以前話題になりましたが、今回はその写真が見つかったと報じています。
 出張の合間に、新潮文庫「阿部一族・舞姫」を読んでみました。ドイツ留学に違和感を覚え始めていた頃、太田豊太郎(鴎外)は、市井の劇場の舞台に立つ貧しい踊り子(舞姫)に出会い、心惹かれる。そして彼女が母親と暮らすアパートに同居してしまう。国費留学であったけれど官吏を辞し、新聞社の特派員のような仕事をしながら細々と愛を育む。しかし、子供ができようかという頃に、彼は親友の説得に応じて日本への帰国を決意する。それを知ったエリスは半狂乱になる。
「エリスが生ける屍を抱きて千行の涙をそそぎしは幾度ぞ。大臣に随ひて帰東の途に上りしときは、相沢と議りてエリスが母に微かなる生計を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しし子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。嗚呼、相沢健吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残りけり。」
 悲劇のヒロインでもあるまいし、これじゃあ、留学時代の心の寂しさを彼女との出会いで紛らわしただけじゃないか。別の資料によれば、エリスは鴎外の跡を追って日本にまでやってきたと言います。にもかかわらず、鴎外は決して彼女に遭わなかった。周囲がそうさせなかった。関係者の巧みな説得で、幾ばくかの金を渡されたエリスは、泣く泣くドイツに帰っていったそうな。
 人にはそれぞれに生き仕方がありますから、私なんぞの分際でその良し悪しを言うべきではないかもしれませんが、かの文人・森鴎外の、もうひとつの顔を見た思いがして、なにか釈然としないものが残りました。
 それにしても鴎外の小説は難しいですね。「舞姫」は、たかだか30頁ほどの小説ですが、古めかしい文語体ですから、よほど読み慣れた人でないと細部にわたる理解は困難です。私は、その半分も理解できないまま、超特急で上っ面を舐めたにすぎません。
 さあて、きょうは雨の合間をぬって畑を耕しましょう。夏の暑さでボロボロになった土に 石灰と堆肥を梳き込んで、秋野菜の種まきの準備です。

 

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コンポーザルピアニストフェスティバル2013

2013-09-01 09:36:05 | Weblog

 9月に入りました。暑い夏は、もう終わりなんでしょうね。昨夜は、夏の終わりの締め括りとして、長女一家と夕食を共にしました。孫君と孫次男君の食欲旺盛なこと。楽しい時間を過ごしました。ところがその夜、雷鳴が轟き、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降りました。次の瞬間、真っ暗になりました。停電です。すぐに復旧しましたが、そのとき役立ったのは充電式のラジオ機能付き懐中電灯でした。備えあれば憂いなし。9月1日は防災の日です。
 さて、NHKFM「名曲の楽しみ」は先週、月曜日から5回にわたって『吉田秀和が語った世界のピアニスト』を特集しました。きょうはその録音の中から第1回「巨匠たちのベートーベン ~アラウ、ゼルキン、ケンプ」を聴きながらのブログ更新です。
 ピアニストといえば、数年前、クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんに、まだ一度もお目にかかっていません。チケットの入手が至難の業で、何度となく先行予約に挑戦したものの、発売開始時刻と同時に完売となってしまう有様です。ところが、5月下旬に駄目元で挑戦したら、辻井伸行、加古隆、レ・フレールによる『コンポーザルピアニストフェスティバル2013』のチケットが手に入りました。そのコンサートが、先週、ザ・シンフォニーホールでありました。
 この日は、オリジナル曲がメインで、辻井さんは「川のささやき」「水の組曲」などを、絵画でも見ているような、心洗われるような、そんな演奏で聴衆を楽しませてくれました。驚いたのは、第3部に登場したレ・フレール(齋藤守也、齋藤圭土兄弟)のアンコール演奏の時でした。舞台の袖から再登場した辻井さんは、ピアノに向かうとブキウギピアノを軽いノリで弾き始めました。これに齋藤兄弟が加わる連弾は、会場の手拍子と相まってコンサートを盛り上げました。

 ピアニストといっても三者三様です。ふだんはクラシック、ジャズ、映画音楽と様々なジャンルでご活躍の三人でした。舞台には3台のピアノがあって、辻井さんはスタインウェイ、他のお二人はベーゼンドルファーをお使いになりました。私と同世代であろう加古さんは大人の雰囲気、若い兄弟でピアノを連弾するレ・フレールの演奏はリズム感溢れるものでした。ピアノの弦を押さえ音色を変えて弾くなんて。ピアノが「楽器」であることを改めて思いました。
 そうそう、この日は夕刻、家内と待ち合わせ、近くの串かつ専門店「壺天」さんで軽く食事をしました。シンフォニーホールに来るとよく立ち寄るお店ですが、頼むのはいつも「おまかせコース」です。あつあつの美味しい串カツが程よいタイミングで出てきて、それを冷たいビールやお酒の肴にいただきます。ぜひご賞味あれ。
 と、のんびり過ごした翌日は広島出張でした。この日は、広島駅で車に乗り換えると、島根県の中山間地域に向かいました。片道2時間半はかかる大移動です。途中、急に開けた街並みが登場します。三次市です。そこを通過してさらに北上します。延々と続く田園風景をひた走り、県境を越えてやっとのことで到着したのは、飯南町でした。この日は森林セラピー事業の視察が目的でした。そして、その2日後には東京に出かけましたが、1週間のうちに、人口減と高齢化が進む中山間地域と人口が集中する大都会・東京という両極端の地点を時空間移動したことになります。
 この違いをどう受け止めてよいのやら。いえいえ、本当の生き甲斐ってなんなのか。生きる喜びってなんなのか。両者には必ず共通の真実、課題があるはずです。それを冷静に見つめ考えることの大切さを思います。頭の奥で、辻井伸行、加古隆、レ・フレールのピアノ演奏がふうっと浮かんでは消えていった一週間でした。

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