心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

明日から「師走」です。

2014-11-30 09:11:01 | Weblog

  11月最後の日曜日の朝、ブログの更新をしようとPCに向かうと、窓の外からチーチーと小鳥の囀りが聞こえてきました。静かに窓を開けると、お隣のお家の柿の木の枝に何羽かの小鳥の姿。手許のカメラで何枚か写して拡大してみると、なんとメジロでした。熟した柿の実を食べていたようです。小鳥さんたちも、そろそろ冬支度です。
 今年も師走の季節を迎えます。2週間前に京都府立植物園に行った帰り道、地下鉄烏丸四条駅で降りると、京都の台所と言われる「錦市場」を歩いて河原町に向かいました。外国人観光客の方々も興味津々のご様子でしたが、ここだけは年末のような賑わいでした。私の街では来週の日曜日、恒例の「もちつき大会」が催されます。昨年の暮れ、孫君たちと一緒にお餅をたべたのが昨日のことのように思い出されます。齢を重ねるたびに、時間の速度が速くなっているような気がします。

 さて、先週末は同業他社の友人とひと足早い「忘年会」でした。コンペティターでもある彼とは、時々呑みに行くのですが、仕事とは無縁の話に華が咲きます。お互いに相手のモノの見方と考え方に納得したり、意見したり。いつも時間は3時間と決めています。梅田界隈の雑踏の中で握手をして別れるのが決まりです。なんとも不思議な、しかし楽しい時間を過ごしています。彼は年末年始、奥さんとご一緒にハワイで過ごすのが恒例だとか。私の行き当たりばったりの生き方とは違います。
 その帰り道、本屋さんに立ち寄りました。今は「ローマ人の物語」で頭が一杯なのに、なぜか先日発刊された池澤夏樹訳「古事記」(河出書房新社・日本文学全集)を手にしていました。きちんと読んだことのない「古事記」です。数年前の夏、宮崎県高千穂町の天岩戸神社を訪ねたことがあって、なぜか気になっています。専門的な知識を持ち合わせていない私にとって、本文と脚注からなる頁構成は、小林秀雄全作品集にも見られますが、読む者にはたいへん便利です。
 そうそう、先日、私の部屋に置いているプリンターがとうとう動かなくなってしまいました。壊れたプリンターはずいぶん旧式のもので、モノクロの文書印刷専用でしたが、やはり寄る年波には勝てなかったようです。お疲れ様でした。
 そんなわけで、先週の日曜日、ヨドバシカメラのサイトでCANONのMG6730を注文しました。なんと、その夜の7時過ぎには届きました。さらに驚いたのは、頭が古いかもしれませんが、パソコンとプリンターが線ではなくWIFIで繋がったこと。またまた驚いたのはスキャナー機能の充実。名刺を何枚か並べてスキャンするとパソコンにその枚数分の名刺データが保存できるのです。それを自動的にEVERNOTEに転送してくれます。とりあえず手許の名刺をクラウド上に保存して、7インチタブレットで簡単に検索できるようにしました。年末休暇に本格的に取り込み作業をする予定です。といっても、仕事人生もあと数年なんですけどねえ。
 きのうは仕事の関係で京都に出かけていましたが、お天気はいまひとつはっきりしませんでした。きょうは久しぶりに快晴の一日になりそうです。庭の落ち葉でも掻き集めて、焼き芋でもしましょうか。いやいや、私の街では最近、庭での焚火は禁止されています。晩秋の夕暮れ時、どこからともなく漂う焚火の匂いを懐かしく思う、そんな季節になりました。きょうは、館野泉さんの「シベリウス:ピアノ小品集」を聴きながらのブログ更新でありました。

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コウノトリ野生復帰計画に学ぶこと

2014-11-23 09:55:14 | Weblog

  きょうは4時半に目が覚めましたが、そのまま浅い眠りの中に。ベッドから起き上がったのは7時を回っていました。ゴンタ爺さんと少し遅めの朝のお散歩にでかけると、我が街も秋の装い、公園の木々が染まっていました。
 先週の日曜日は、予定どおり秋を求めて京都にでかけました。観光客で賑わう紅葉の名所は避けて、家内と二人で向かったのは京都府立植物園でした。広い園内は人も疎ら、ゆったりと秋の京都を楽しみました。と言っても、紅葉は今一つでしたが、赤く色づいた木の実を愛でて秋を感じました。大きな道を逸れて森の小道を歩くと、大きなドングリがあちらこちらに。そのいくつかを頂いて帰りました。観光客と観光バスの排気ガスに悩まされることなく、ゆったりした秋の一日を過ごしました。【写真は紅葉まじかのフウの木とカザンデマリの実】
 ところで、週の後半は異業種お勉強会の合宿例会のため、兵庫県北東部に位置する豊岡に出かけました。出石城、竹野海岸、城崎温泉等で有名ですが、私たちが訪ねたのは県立コウノトリの郷公園でした。課題は「持続可能な地域経済・産業環境を考える」。環境経済という古くて新しい視点から豊岡モデルを学ぼうというものでした。市長さんやコウノトリ文化館の方のお話しを聞いて意見交換しました。古い歴史を有し、文化度の高い土地柄ですが、人口減少が続く中で、地に足のついた諸施策を打ち出しています。コウノトリ野生復帰計画、生物多様性・ラムサール条約湿地登録、舞台芸術を中心としたアーティスト・イン・レジデンスの拠点・城崎国際アートセンター。このセンターで制作された、ノルマンディ秋の芸術祭の招致作品アンドロイド版「変身」(平田オリザ演出)は世界初演を成功裏に収め、横浜公演のあとハンガリー、パリほか欧米で上演されるのだそうです。
 手許に「コウノトリと共に生きる~豊岡の挑戦~」と題するパンフレットがあります。表紙の中ほどには、昭和35年当時の出石川の水辺で農家の女性と但馬牛とコウノトリが共生する白黒写真が飾ってあり、その下に「何を失ったのか どのように取り戻すのか」という言葉が添えられています。ふと、鶴見和子先生の「内発的発展論」という言葉が頭をかすめました。
 その日は城崎温泉で一泊して夜遅くまで語り明かしました。業種は違っても、話すうちに普遍的なテーマに行く着くのは楽しいものです。翌日は、帰阪するとその足で大阪市中央公会堂に向かいました。認知症に関するシンポジウムを聴講しました。古めかしい大ホールは、ほぼ満員のお客さん。関心の高さを思いました。9月に京都で「老い」に関するシンポジウムがありましたが、そのときも立ち見がでるほどの盛況ぶりでした。急速に進む超高齢化の流れに、みんなが不安を抱いているからでしょう。
 コウノトリはツルとは違い人懐っこい鳥のようです。人間を怖がることもなく、当たり前のように人間の日々の生活の中に共存する鳥だったようです。「人と自然の共生という大きな価値観の共有」、それがコウノトリ野生復帰計画を下支えしています。長寿社会への備えは、財政的な視点からの政治的課題になりがちですが、若者と老人が共生できる社会をどう実現するのかということなんだろうと。それが持続可能な社会を形成していくのだろうと、紅葉が始まった中之島界隈を歩いて帰途につきながら考えました。来月には総選挙があります。慌ただしい年の瀬になりそうです。

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秋も半ば

2014-11-16 00:19:25 | Weblog

 急に寒くなってきましたので、数日前からコートを着用しています。「日本の七十二候」を紐解くと、立冬・次候・「地始凍」(ちはじめてこおる)。早朝の地面に霜柱が降りる意ですが、久しく霜柱なんて見たことがありません。そんな秋の一日、数週間前に蒔いたホウレンソウの畑を覗くと、こんなに育っていました。春菊も同じです。早く間引きをしなければ。
 そう言えば、先日、東京の甥が送ってくれた写真の中に、親戚の田圃の中で彼と一緒に撮った中学校時代の写真がありました。時季は定かではありませんが、亡き姉は東京に暮らす子供たちに田舎の雪景色を見せたかったのでしょう。遠い遠い昔の風景でした。徐々に寒さが増す季節になります。
 話は変わりますが、7インチタブレットを鞄に入れて持ち歩くようになって、スマホの利用頻度がぐんと落ちたので、先週の日曜日、ガラケーを求めて街を歩きました。でも、何軒か回って辿りついたのはY!mobileでした。とりあえず1Gコースで申し込みました。機種は、次男君がソフト開発に携わっているものにしました。そして1週間、利用データ使用量を調べてみると、想定の範囲内でした。結果、タブレット(格安SIMカード)とY!mobileの月額利用料は、以前のスマホ利用料よりも下がりました。初老のおもちゃとしてはこの程度でよいのでしょう。
 さて、13日の朝日新聞で「ローマの皿は倭に通ず」と題した記事に目がとまりました。奈良県橿原市の新沢千塚古墳群(5世紀後半)から出土したガラス皿の化学組成が、ローマ帝国領内で見つかったローマ・ガラスとほぼ一致したというニュースです。同じ古墳から見つかった円形切子ガラス括碗は、ササン朝ペルシャの王宮宮殿のものと一致したともありました。
 二千年前、モノとヒトの移動は「歩く」という基本的な動作の中で十分に機能していたことになります。一方、便利になりすぎた現代人は、何か大きなものを置き忘れているのかもしれません。そんなことを考えながら、先週も塩野七生きんの「ローマ人の物語」(38巻「キリスト教の勝利)を鞄に入れて歩きました。
 そうそう、村上春樹さんの毎日新聞単独インタビュー記事を取り寄せました。「弧絶」を越え理想主義へ、という大見出しの横に例の「日本の問題は責任回避」という小見出しがあります。混沌が平常の状態になってきた時代状況の中で、軸の喪失がおそらくキーワードになっているといい、「理想主義は人と人とをつなぐものですが、それに達するには、本当にぎりぎりのところまで一人にならないと難しい」と。また、近著に触れて、「若い時の孤独はあとで埋め直したり取り戻したりできるけど、ある年齢以上になると、孤独は「弧絶」に近いものになる。そういう風景みたいなものを書いてみたかった」と。さりげない言葉の一つ一つに奥深いものを感じてしまいます。これが村上春樹さんの魅力なんでしょう。きっと。「ローマ人の物語」を読み終えたら、もう一度、村上作品に戻ってみましょう。
  明日の日曜日は、元気なら、紅葉の始まった京都でもぶらぶらしてみようかと思っています。そんなわけで、土曜の夜遅く、ブログの更新に取り掛かりました。そうそう、来週の日曜日は、愛犬ゴンタ爺さんの15歳のお誕生日です。

 

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歴史に学ぶこと

2014-11-09 00:15:27 | Weblog

  きょう、塩野七生さんの「ローマ人の物語」37巻「最後の努力」を読み終えました。紀元前8世紀に建国されたローマの、およそ2000年にわたる歴史物語も、そろそろ終盤を迎えようとしています。「最後の努力」の舞台となる3世紀は、度重なる蛮族の侵入や内戦、国内経済の疲弊、さらには蛮族の侵入で農地が荒れ農民が都会に流出するために起きる地方の過疎化など、様々な問題が立ちはだかります。73年の間に22人もの皇帝が入れ替わり、ペルシャとの戦いでは皇帝ヴァレりアヌスが捕縛されるという前代未聞の出来事まで起こりました。
 そこに登場したのが皇帝ディオクレティアヌスでした。西はブリタニアから東は小アジア・北アフリカに及ぶ広大な領土を4つに分け、それを2人の正帝と2人の副帝による「四頭政」をもって治め、北方蛮族と大国ペルシャの侵入を防ぎました。しかし、巨大化した組織を分割し細分化するのは、機能性向上というメリットがある一方で、組織の肥大化と経費の増大を招くことになります。防衛に従事する兵士の数が30万人から60万人に増え、中央政府(皇宮)に勤める官僚組織が増え、人件費が4倍になりました。
 塩野さんは「人間とは、一つの組織に帰属するのに慣れ責任をもたせられることによって、他の分野からの干渉を嫌うようになるものなのである。そして、干渉を嫌う態度とは、自分も他者に干渉しないやり方に繋がる。この考え方が、自らの属す組織の肥大化につながっていくのも当然であった」と言います。何やら我が社にも通じる言葉です。2000年前の出来事を、現在の出来事のように思い考えるという意味で、お勉強をさせていただきました。来週からは、38巻「キリストの勝利」を開きます。いよいよ皇帝コンスタンティヌスの時代です。あと6冊で全43巻を読破することになりますが、通勤電車の中のお気軽な読書です。1冊10日として60日。やはり年を越しそうです。
 そうそう、組織と責任ということで思い出したのですが、livedoorNEWSが中央日報の記事を取り上げています。見出しは、村上春樹「日本、戦争を起こして責任回避」。11月3日の毎日新聞のインタビュー記事のことです。記事によれば、村上春樹さんは「日本の抱える問題に、共通して自己責任の回避があると感じる」と言い、「1945年の終戦に関しても2011年の福島第1原発事故に関しても、誰も本当には責任を取っていないという気がする」と述べていると伝えています。さらに、「日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思う」と言い、福島原発事故にしても「誰が加害者であるかということが真剣には追及されていない」「地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だったみたいなことで収まってしまいかねない」と懸念を示しています。毎日新聞の紙面を確認していないので引用記事でしか判りませんが、この記事が事実であるとすれば、村上春樹さんは非常に重要なことをお話しになっているように思います。来週、どこかの図書館にでも行って毎日新聞のバックナンバーを調べてみましょう。
 今日は少し難しいことを書き過ぎましたので、最後に息抜きです。先週は孫君たちがやってきて賑やかな休日でした。日曜日は、天候不順では遠出もできまいと、途中で雨が降ったら梅田界隈へ、雨が降らなければ大阪城公園に行こうというぼんやりとした目的をもって出かけました。結局、曇天の大阪城公園に向かいましたが、ちょうど「大阪城天守閣の秋まつり」の真っ最中。太陽の広場では「だんじり祭i n 大阪城2 0 14」、諏訪流放鷹術の実演やら大坂の陣400年祭で、多くの観光客で賑わっていました。
 大阪に住まいながら大阪城公園に行く機会の少ない私にとっては、ひとつの発見でした。この場所も、昔は戦の場でもありました。お堀を巡らして攻めにくくする城のつくりに妙に納得したものです。

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写真資料の保存

2014-11-02 00:30:11 | Weblog

  今年も早や11月。あと2カ月もすれば2014年という年もおしまいです。歳と共に、時間の速度を早く感じるのは私だけでしょうか。そんな秋の三連休に、東京から長男君が孫娘を連れて帰ってきました。3人目の孫が年明けに産まれるので、お正月には帰省できないというのが理由です。無理をしなくてもと思いますが、仕事がひと段落ついたんでしょう。2週間前には、次男君が米国勤務を終えて無事帰国しました。長女一家を含めて久しぶりに賑やかな休日です。
 家族。核家族。子供たちがあちらこちらに散らばると、全員が集まることは滅多にありません。母親と子供たちとのメールのやりとりが、ある意味ホットラインになっています。
 家族といえば、兄の三回忌で田舎に帰る前日、東京の甥からメールが届きました。今夏亡くなった姉の遺品を整理していたら昔のアルバムが見つかったと、私の幼少の頃の写真数点が添えてありました。
 昔のアルバムは、写真の四隅を小さな袋で綴じる方式でした。その後、取外し可能な貼り付け方式に変わりましたが、年数が経つと剥がすのが大変だったようです。それさえうまく行けば、スキャナー付きプリンターで簡単にデジタル処理ができるのだそうです。色褪せたカラー写真は褪色補正をかけることで昔の色を取り戻すこともできます。送られてきた写真は、まさに古き良き時代の風景でありました。
 今週の雑誌「男の隠れ家」の特集は「幕末から明治を訪ねてーー異邦人が見た近代日本」でした。トーマス・B・グラバー、ウィリアム・M・ヴォ―リズ、そしてラフカディオ・ハーン.....。ことし私の前を通り過ぎた歴史的人物の名前が並びます。ここでも写真が貴重な歴史的資料として登場します。150年前の写真と現代の風景を見つめながら、人の生き仕方を考えさせられます。
 アナログとデジタル。尽きないテーマです。孫たちが寝静まった今は、バセット・ホルン・トリオのトリオ・ディ・クラローネが奏でるLP「モーツァルト/ディヴェルティメント集」を聴いています。第1番と第6番そして第3番です。
 最近は、LPレコードを聴きながらデジタル処理も並行して行っていますが、2TGのHDDはまだまだ余裕があります。これが完成すると、壁の一画を占めるLPとCDの音源が、小さな電子箱の中にすっぽりと収まってしまうことでしょう。でも、このHDDが故障したら万事休す。そもそも記憶媒体の保存年限が気になります。むしろ、ビニール樹脂の円盤のまま保存した方が良くはないか。古レコード屋さんで見つけたLPレコードから高らかに鳴り響く交響曲に胸をときめかすことができるのもアナログ音源です。アナログとデジタル。二項対立では処しきれない課題を私たちに突き付けています。
 1千年の後、現代という数百年の間だけが「空白の数百年」なんてことにならなければよいのですが....。と言っても、残す残さないは私たちが判断することではないかもしれません。その価値判断は後世に譲るとしても、残す残さないの判断材料となる人の営みはできる限り残していくべきだろうと思います。

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