心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

「心の中の故郷」

2008-10-26 09:34:30 | Weblog
 机のうえにハナミズキの赤い実が3個転がっています。今朝、小雨が降るなか愛犬ゴンタとお散歩した折に街路樹からいただいたものです。この実をヒヨドリが食べます。
 ところで、先週につづいてきょうの日曜日も、もう少ししたらお出かけです。2週連続で日曜日が潰れるのは、少しきついです。でも、僅かな時間を見つけては、心のなかで深呼吸。自分の時間を大切にしています。きょうは、グレングールドが1957年にベルリンで行ったコンサートのライブ録音で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン)を聴きながらのブログ更新です。グールドにとって数少ないコンチェルトです。
 どうも歳をとると(笑)、心の新陳代謝が鈍くなります。1週間に一度は体内に潜む「心の老廃物」を体外に排出して、新しい酸素を吸入しなければ心がもたない、そんな印象があります。寄る年波には勝てないということなんでしょうか。仕事柄、毎日「ひと」のことばかり考えていると、その「ひと」から逃れたいという強迫観念に駆られるのは、私の弱さなんでしょう。そんな私を、愛犬ゴンタが支えてくれます。庭にやってくる小鳥たち、秋めく風景が、私の心を和ませてくれます。静かな空間のなかに充満する音の世界、夢膨らむ書物の世界....。そういえば、ずいぶん長い間、湖北の山小屋はほったらかしたままです。おそらく紅葉の季節をむかえているのでしょう。人生の最後は大きな樹木に囲まれてひっそりと暮らしたい。そう思っています。
 先日、本屋さんで雑誌「ラジオ深夜便」創刊100号をみつけました。ふだん雑誌の方は立ち読みする程度なのですが、それでも表紙を飾る中島潔さんの絵が気に入って、ときたま購入することがあります。創刊記念号で中島さんは「心の中の故郷」と題する小さなコメントを寄せていらっしゃる。なるほど、無意識のうちに私自身がその「心の中の故郷」を、中島さんの絵から感じ取っているのかもしれません。手元には「中島潔が描く金子みすずゞ~まなざし~」があります。以前、百貨店で開かれた中島さんの個展に行ったとき、その感動を持ち帰ったものです。どんなに時代が変わろうと、人の心はそんなに変わるものではないのです。中島さんの絵は、私自身の心象風景を意識させてくれます。
 その同じ日に、我が家では長男君に第一子が誕生しました。可愛い女の子でした。心優しく強い子に育ってほしいと願っています。逆に言えば、この子に、どんな「心の中の故郷」を提供できるのか。豊かな心を育む社会をつくっていくのは、私たち大人の役割なのだと思ったものです。そんな理屈はともかく、家内はといえば、亭主にはお構いなく、一人東京に旅立ちました。まぁ、良いおばあさん役を演じてくれるのでしょうよ。きっと。
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祖父の時代

2008-10-18 20:55:42 | Weblog
 あすの日曜日は所用で京都に出かけるために、きょう土曜日はお休みをいただきました。晴れ渡った秋空のもと、愛犬ゴンタと街を散策しなが、「小さな秋」をたくさん見つけました。
 このところ考えることが多くて、気の抜けない毎日が続いています。来る日も来る日も難題山積み。何ひとつ出口が見えない。でも、少し距離をおいて眺めてみると、底流に流れているものは意外と単純なことが多いのも事実です。いずれドーンと片付くのでしょう。そう自分に言い聞かせると心の重荷も幾分和らいで、妙に知識欲が頭を擡げます。今週は、積んでおいた岩波新書「シュンペーター~孤高の経済学者~」(伊東光晴・根井雅弘著)をぱらぱらとめくっていました。
 わたしは経済学のことは音痴です。ただ、シュンペーターのことは全く知らないのに、『創造的破壊』という言葉が好きです。だから、一度は原典をと思いながら専門書を読む勇気もなく、この新書を手にしたのですが、長い間本棚で寝そべっていました。
 でも、目の前にこれだけ難題が山積みになると、大声で『創造的破壊』を叫びたくなります。妙な理屈を捏ねまわすよりも、ずいぶんシンプルな展開が期待できそうに思うからです。そんなわけで、その発信源であるシュンペーターに接近を試みることになった次第です。時代は19世紀後半から20世紀初頭のオーストリア。ドイツ、イギリス、アメリカ....。第二章「政治の季節」に読み進むと、なんとM・ウェーバーを対極においた記述が登場します。「カフェでの応酬」など楽しい展開です。
 そんな時代環境を夢見ながら同時代の日本を思うと、「篤姫」の時代を過ぎて明治の頃。私の祖父が生まれたのが明治5年(1872年)ですから、祖父が生きていた時代に、欧州はウィーンの街角のカフェで二人が出会い、ロシア革命の評価をめぐって議論する場面を想像すると、なんとなく遠い存在が身近なものとして思えてきます。
 夜になると、その余韻を楽しむかのように、ウイスキーを片手にグスタフ・マーラーの交響曲を立て続けに聴くも良し。きょうの土曜休日は、子供のような好奇心をもって1日を過ごしました。我が孫君も、50年先には、そんな思いで私(祖父)を思い出してくれるでしょうか。いや、時代が違うのでしょうよ。きっと。

(注)写真は手元にある本の口絵を飾る祖父の写真です。古き良き時代の面影です。これなら横にシュンペーターやウェーバーがいてもおかしくないですね。と言っても、私が生まれたときには既に過去の人だったのですが。  
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孫の運動会

2008-10-12 15:53:37 | Weblog
 バス停の近くに大きなドングリの木があります。数日前、そこを通り過ぎようとしたら、「いたっ」。人影に驚いたヒヨドリが急に飛び立ったからでしょうか、ドングリの実が、寝起きの悪い私の頭上に落ちてきました。これも「秋」の実感です。私の街では今、至る所にキンモクセイの香りが漂っています。昨夜も、愛犬ゴンタと散歩していると、それはもう、どこからともなく芳しい香りが漂ってきて、二人(?)揃って深呼吸をしました。
 ところで、きょう日曜日の朝は、まだ1歳にも満たない孫の「運動会」がありました。あいにく朝から微熱が出たらしく出場は断念したようですが、ともあれ、せっかくなので孫の顔を見にでかけました。意外と元気そうだったので、わずかな時間、みんなで運動会を見に行きました。写真は、会場に飾ってあった孫の似顔絵。お父さんの作品ですが、その横には孫自らスポンジを使ってお絵描きをしたという作品が並んでいました。
 私が子供の運動会に出かけたのは、もう30年近くも前のことです。体育の日になろうものなら、大きなビデオカメラを提げて、小学校と幼稚園を行ったり来たりしました。お弁当の時間も、あっちに行ったり、こっちに行ったり。考えてみれば、私にも元気な時代があったのです。そう言えば、甲府の長男宅では第一子の誕生がまじかです。家内も、そわそわし始めました。私の方は来週から2回続けて日曜出勤となりますので、どうしたものかと思案中ですが、時間の合間をぬって日帰りででも孫の顔を見に行ければと思っています。
 話は変わりますが、先週は毎晩、季刊誌「考える人」をぱらぱらめくりながら深い眠りにつきました。今号の特集は「堀江敏幸と歩く”パリとその周辺”」です。1968年の5月革命以降、従来の家族形態が様変わりしたことを、パリに暮らす何組かの家族を追いながら紹介しています。
 時代は、私の想像する以上の速さで進んでいるようです。ものの考え方自体がどんどん変化しています。あまりの速さに戸惑いながら、ほんとうにそんな方向に流されていいの?、と叫ぶ自分がいます。しかし、立ち止まったら、妙に落ち着かない。だから、歩く。走る。突っ走る。でも、お祖父さんの顔を見てニコリと笑みを浮かべてくれた孫の、透き通った目をみると、妙な理屈っぽい戯言は吹っ飛んでしまいます。小市民的というべきか、それとも時代がおかしいのか。その答えは誰にもわかりません。 
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ゴールドベルク変奏曲

2008-10-05 10:09:12 | Weblog
 きのうの朝、ヒヨドリの囀りで目を覚ましました。私の部屋は2階にあって、ベッドの近くの窓が、ちょうど庭の木の梢が目の高さにあるので、囀りが小鳥のおしゃべりに聞こえて、それが何とも愛らしく、そのうちメジロやシジュウカラも仲間入りすると、いっそう賑わいが増します。でも、けさは残念ながら、雨が静かに降っています。少し肌寒さを感じます。
 そんな静かな秋の朝は、マルタ・アルゲリッチのピアノを聴きながらのブログ更新です。LPレコードですから、演奏はいずれも1960年代から70年代にかけてのものばかり。ジャケットに登場する若かりしときのアルゲリッチの、ピアノに向かう真摯な姿がわたしは気に入っています。
 ところで、先週少し触れたバッハのゴールドベルク変奏曲ですが、一節には、不眠症に悩まされたヘルマン・カール・フォン・カイザーリンク伯爵が、眠りを誘うBGMをバッハに作曲を依頼したのが由来だとか。それを屋敷お抱えのチェンバロ奏者ヨハン・ゴットリーブ・ゴルトベルク(1727-1756)に夜ごと演奏させたのだとか。このときの作曲代は「ルイ金貨が100枚つまった金杯」だったと、物の本には書かれています。どこまで真実なのか定かではありませんが、歴史小説のひとコマのようです。
 私は不眠症ではないけれど、この曲は、思考回路がこんがらがってしまった時や、心身ともに熱っぽくなって頭のてっぺんから煙が上りだした時(笑)、あるいは物事を考える気力を失いかけた時、そんなときによく聴きます。なにも考えず、ただひたすらに曲を追います。すると、ある種「座禅」で得る精神の開放感のようなものを感じるから不思議です。ゴールドベルク変奏曲は、主題のアリアに始まり、30の変奏を経て、冒頭のアリアに回帰して終わる構成です。それが、人の人生、生きとし生けるものの姿に思えてくる。ついつい見失いがちになる「わたし」自身を振り返らせてくれるのでしょう。
 この曲を、わたしはグレン・グールドのピアノ演奏で、それも1955年録音と1981年録音のふたつを聴き分けます。なかでも死の直前にあたる1981年録音は、彼の音楽哲学の完成品でもあり、その演奏風景を記録したDVD映像も時々見入ってしまいます。このほか、カール・リヒターやジャズピアニストのキース・ジャレットのチェンバロ演奏も楽しみます。それぞれの演奏者の「心」を訪ねます。

(注)写真は庭にやってくるシジュウカラ(四十雀)です。今朝、ブログ更新を終えたあと、雨の庭を眺めていたら、シジュウカラの家族が元気に飛び回っていました。速い動きに少しブレ気味です。
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