心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

連休を利用して部屋の引越し

2007-04-29 17:25:55 | Weblog
 恒例のゴールデンウィークです。9連休とまではいきませんが、我が家は社会人になったばかりの次男君が東京からご帰還とあって、久しぶりに賑やかな休日になりそうです。
 と、のんびりした書き出しになりましたが、実は、この連休中に大仕事があります。わたしの部屋の引越しです。これまで1階の部屋を使っていましたが、子供たちが巣立って行きましたので、2階の一番広い部屋への引越し作業を、昨日から始めました。きょうで2日目ですが、ずいぶん時間がかかっています。
 まず最初にしたことは無線LANの設定でした。「かんたん接続」という謳い文句に惹かれて購入したものの、基礎知識ゼロですから思うようにいかず、説明書をなんども読み返して、結局はいちばん基本的な暗号キーの設定の仕方が間違っていたようで、とにかく半日がかりで設定終了でした。いよいよ肉体労働となりますが、引越し先の部屋の片付けが、これまた大変。子育ての歴史遺産がたくさんあって、それを一つ一つ眺めていたら、どんどん時間が経ってしまいました。それらを別室に集約して、1日目の作業を終了しました。身体の至るところに痛みを感じながら、恐る恐る入浴して疲れを癒すことに。
 2日目のきょうは、朝からステレオ類のセッティングに汗を流しました。レコード、CDの数も相当な量になります。けっきょく書棚などの大物は、次男君の手伝いが必要になりますので明日の作業に残し、さきほど本日の作業を終了しました。もう、全身ガタガタなんです。
 とは言え、なんとか部屋の半分ほど整理が完了しました。さっそくステレオのスイッチを入れました。引越し祝いは、マルタ・アルゲリッチのピアノ曲です。1965年に録音されたショパンのピアノソナタ第3番を聴きながら、ブログの更新作業を始めました。音響効果は、新しい部屋のほうが抜群に良いことに気づきました。机の前は、青い空と若葉に覆われた庭木の梢が飛び込んでくる位置にありますから、これまた1階とは異なる視点から季節感を感じることができます。なんだか嬉しくなって、疲れが吹っ飛びました。でも、全身の痛みは治りません。今夜は今期最後の檸檬風呂で疲れを癒すことにします。ふ~。
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北欧の音楽を聴いて

2007-04-22 11:44:36 | Weblog
 今朝のNHKFM番組「20世紀の名演奏」は、シベリウスでした。ネーメ・ヤルヴィの指揮で「交響詩“フィンランディア”作品26」「組曲“カレリア”作品56」「バイオリン協奏曲ニ短調作品47」「交響詩“四つの伝説”作品22」「鶴のいる情景」「カンツォエッタ」の6曲が演奏されました。今年は、シベリウス没後50年の年にあたります。同じ北欧の作曲家であるグリーグは没後100年です。わたしはこの二人の曲を聴きながら、まだ見ぬ北欧の風景、文化、歴史、人の生活、物語などに、思いを馳せます。異国への憧れと同時に、日本で言えば柳田國男の世界を思います。柳田は、それを文字で著した。シベリウスとグリーグは音楽で表現した。そのように思います。
 最近、「土」と共に生きる人間の営み、そこから育まれる思想、感性というものを、わたしたちは見失いつつあるような気がしてなりません。「村」は、ムラ社会の象徴として否定的に考えるのが一般的です。戦争を境に宗教観もおおきく変化しています。そこにグローバリゼーションの波が押し寄せてくる。多様性の価値観がうごめく。時々ふと「このままでよいのだろうか」と思うことがあります。都会の喧騒のなかで浮遊している悲しい人々が、時にとんでもない事件を引き起こすほどに激変することを、私たちは日常的に目にしています。都会地どころか最近は地方の小さな田舎町でも残酷な事件が起こっています。自分の足元が見えていない。当然に自らの全体像も見えていない。他人のことになればもっと見えていない。悲しい出来事があまりにも多すぎます。
 ......長椅子に横たわり、こんなことをぼんやりと考えながらシベリウスの曲を聴いていました。そういえば何年か前、きょうの指揮者であるネーメ・ヤルヴィの子息にあたるパーヴォ・ヤルヴィ指揮のコンサートに行ったことを思い出しました。ヴァイオリニスト諏訪内晶子さんの演奏がお目当てでしたが、黒い服を着て颯爽と登場したパーヴォ・ヤルヴィに、妙な存在感を抱いたのを覚えています。曲目はバイオリン協奏曲と交響詩“フィンランディア”でした。
 音楽は、聴く者にいろいろなことを考えさせ気づかせてくれます。同じ曲を聴いても、それを聴く時間と場(空間)によってずいぶん異なる印象をもちます。それがまた楽しい出会いでもあります。
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穏やかな春の陽の下で

2007-04-15 10:08:53 | Weblog
 年度末年度初めの慌しさも峠を越えて、いよいよ新しい幕が開こうとしています。目の前に聳える大きな岩山を、どこから登ろうか、どうやって登ろうか、雨が降ったら、嵐がやってきたら、どこに足場を確保しようか。あの遠くに見える頂に立ったら何が見えるんだろうか......。一時期、ジャズピアノの世界にぐっと引きずり込まれていた日々から、徐々にクラシック音楽の世界に舞い戻っている自分に気づきます。雑誌「音楽現代」5月号は、三人のカリスマと題してグールドとカラス、そしてクライバーを特集していました。数日前からグレン・グールドのLPを引っ張り出して聴いています。今朝のプログラムは、バッハのゴールドベルク変奏曲です。
 ずいぶん暖かくなりました。昨日の土曜休日は、汗ばむほどの陽気に誘われて、自転車に乗って遠くのフラワーショップに出かけました。山の方角に向かって20分ほどの距離にあります。清清しい空気を肌で感じながらのサイクリングです。途中、小さな川があります。山から流れる清らかな水が美しく、でも、もう少し流れていくと生活廃水と合流してしまいますから、かわいそうでもあります。自転車を止めて、橋の上から眺めると、岸辺にたくさんの菜の花が咲いていました。その一画だけは古き良き時代の田舎の川辺を想起させます。澄んだ流れの中に小さな小魚の姿をみることもできます。なんとも、穏やかな風景を楽しみました。
 お店に着くと、穏やかな陽気に誘われて、たくさんのお客さんが集まっていました。草花の苗、ハーブの苗、野菜の苗、花木の苗、洋ラン、観葉植物、種、園芸用品....。なんでもありです。何種類かの花の苗を買いました。帰ると、さっそく花壇のお手入れです。日当たりのよい箇所に、ふとつ、またひとつと丁寧に苗を植えつけました。作業がひと段落すると煙草を一服ということになりますが、実は禁煙して7年が経ちます。1日に50、60本も嗜んでいたのですから、よくも吹っ切れたものだと自分でも感心しています。その分、心がずいぶん穏やかに、平和になってしまったような気もします。煙草の代わりに最近は、椅子を庭に持ち出して、ハーブのフレッシュティを味わいながら、愛犬ゴンタと並んで、ぼんやりと庭を眺めて過ごします。ゆったりした時間の流れを楽しみます。先日ご紹介したターシャ・テューダーの世界に惹かれるのも、こんな瞬間です。
 さぁ、きょうはこれから職場の「歓送迎会」に出かけます。現在に軸足を置きながら、過去と未来を行ったり来たりしながら、その先に何か新しい自分を発見していく、ひとつの区切りでもあります。でもねぇ、そろそろ自分の歳も考えなければ....。
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アナログとデジタル

2007-04-08 10:03:30 | Weblog
 4月も半ばを迎えようとしているのに、少しひんやりしています。でも、うす曇の合い間から時々春の陽と青空がのぞく、そんな休日を迎えました。きょうは洋ランの植え替え作業をしようと決めています。
 ところで、けさの朝日新聞日曜日版「もっとテクノ(とれんどサーチ)」は、「アナログ音源デジタル化」がテーマでした。某社がレコードの音楽を直接デジタル録音できるオーディオコンポを発売したこと、ターゲットの年齢層は40歳以上でアナログ世代にも簡単に操作ができる工夫をして需要掘り起こしをねらっていること、といった内容でした。
 「うむ、これも良いかもしれない」と思う反面、わたしなどはビニール樹脂のレコード盤を恭しくプレイヤーに乗せて、慎重に針を降ろしていく、その緊張感、そして温か味のある音の世界が広がる、その何とも言えない音との交わりに惹かれる面がありますから、少し躊躇もします。スイッチひとつで気軽に音楽が聴ける、これも良いけれど、聴く前にもう少し手を動かす工程があったほうが、なんとなく音楽を聴いている感覚になる。これって、歳のせい?保守的?。時代に逆行しているのかもしれませんね。
 以前に一度、パソコンを使ってレコード音源をデジタル音源に変換し、デジタルオーディオプレイヤーで聴いたことがあります。なにか味気なくて止めてしまいました。でも、いつまでもレコード文化が続くわけでもないでしょうから、いつかは手持ちのレコードをデジタル化しないとレコードが単なるビニール樹脂になってしまいます。いろいろ愚痴を言いながら、いずれこの装置を手に入れることになると思います。案外早いかも。
 非科学的な人間にとって、デジタルとアナログの言葉の定義を十分に理解しているとはいえません。広辞苑によれば、デジタルとは「ある量またはデータを、有限桁の数字列(例えば2進数)として表現すること」。アナログとは「ある量またはデータを、連続的に変化しうる物理量(電圧・電流など)で表現すること」。判ったような判らないような、なんともぼんやりしていますが、音源を2進法で単純化するよりも、より自然なかたちで聴きたいという素朴な思いがあります。もちろんアナログ音源も人間の手を加えたものではあるのですが。
 アナログとデジタルの違いを、暗黙知と形式知の違いにあてはめて考えることもあります。そのうえで改めてアナログ思考の復活を求める声を聞くこともあります。人間行動を必要以上に単純化、定型化して科学的に捉えることの限界を示す動きです。時代に対するひとつの警鐘といえます。必要以上に保守的になってはなりませんが、必要以上に前のめりになる必要もない。やはり足元をしっかり見据えて時代の動きを見つめ、そのなかで自らの振舞い方を学び考え実行していくしかないだろう、そう思っています。
 レコード音楽の話題が、とんでもない方向に進んでいきそうです。きょうは、ひさしぶりに私の大好きなソプラノ歌手・アンジェラ・ゲオルギューの「ベル・カント・オペラ・アリア集」をデジタル音源(CD盤)で聴きながらの更新作業でありました。
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分岐点を予感

2007-04-01 14:07:59 | Weblog
 昨日はお天気だったのに夜になって雨が降り出しました。しかし日の出とともに雨が止んで、朝には明るい春の陽ざし。そして今は明るい曇に覆われています。そんな4月第一日曜日の昼下がりです。このところ、こんな天候が続きますが、着実に「春」に向かっている証なのでしょう。そう、ひと雨ごとに春めいてくるのを実感します。暖冬のせいでしょうか、里山の樹木の芽吹きは例年になく早く、硬い樹皮の間から幼芽が眩しそうに顔を覗かせています。我が家のブルーベリーも、花芽が分化して開花まであと一息です。ことしは2種のブルーベリーが足並みを揃えることができたので、収穫が楽しみでもあります。
 ところで昨日は、新しい職場に荷物を移動してパソコン環境を整えると少し早めに職場を後にしました。京都に向かいました。4月1日付異動を酒の肴に、同業他社の友人たちとささやかな宴をもちました。もうひとつ行事がありました。いよいよ次男君が本日をもって巣立つにあたり、家族そろって知恩院にお参りをしました。ご先祖さまへのご挨拶、という訳です。彼が小さい頃には乳母車に乗せてお参りに行ったことを思うと、何とも感無量。無事に子育てが終わったことを報告いたしました。円山公園の枝垂桜も美しく、京都の「春」を満喫もしました。
 そんな京都で、ほんの僅かな時間でしたが時間待ちに立ち寄った河原町のジュンク堂書店で、「天才論~ダ・ヴィンチに学ぶ”総合力”の秘訣」(茂木健一郎著)という本を買い、帰りの電車のなかで読みました。普段とは少し違う視点から時代を見つめ考えるヒントをいただいたような気がしています。
 いまのわたしには、二項対立的な視点ではなく、矛盾、葛藤の中から何か新しい方向性を見出していきたい。そんな思いがあります。もちろん、相反する価値観を同時に自分の中に取り込むのは、たいへんです。ずば抜けて強靭の精神の持ち主でないかぎり、しっかりした土台の上に立っていないと不安になります。しかし、その土台を見失うと、人間って一人では立っていることすらできなくなってしまいます。現在の社会状況に、同様の危うさを思います。なんとかしなければ。妙な先入観は捨てて、手を広げて大きく息を吸い込んでみる。そう、深呼吸。2007年の4月1日は、わたしにとって大きな分岐点になるような、そんな気がしてなりません。
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