心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

急に思い立った南紀・勝浦の旅

2018-05-31 20:34:58 | 西国巡礼

 梅雨入りを前に、ドクダミを摘んでドクダミ茶を作りました。その横で家内が、新梢が伸びたイチジクの葉っぱを剪定して、その葉っぱを天日干しにしています。「どうするの?」と聞くと、イチジク茶を作るのだと......。
  ネットで調べてみると、高血圧や動脈硬化の抑制に効果があるとか。ほかに、悪玉コレステロールを減少させる効果やダイエット効果などがあり、さらには血糖値の抑制、皮膚がん抑制効果などがあると、良いことづくめの効用です。半信半疑ながら飲んでみると、まさにイチジクの香り。なんとなく身体に良さそうです(笑)。でも、紫外線への過敏性を高めてしまう働きがあるそうで、朝よりも夕方に飲んだ方が良いとも書かれていました。
 そのイチジクですが、葉っぱを摘むと切り口から白い液が出てきます。ものの本によれば、この乳液にはたんぱく質を溶かす酵素があって、昔の人は「イボコロリ」といって、イボを取るのに利用したのだそうです。ほんとかなあと思いながら、数か月前コメカミ付近にできた小さなイボに塗ってみると、2回目から変化が見えはじめ、4回目できれいになくなってしまいました。不思議ですねえ。それほど強力なので多用は禁物ですが、こんなところにも昔の人の知恵がありました。
 ところで、先週、4日ほど空白期間ができたので、家内が「どこかに行こう」と言い出しました。ネットを駆使して捜したのが南紀・勝浦です。それも午後になって翌日の宿を探す強引さですが、あるものですねえ。温泉宿をみつけました。白浜から先(南)には行ったことがありません。本州最南端の潮岬があり、西国三十三カ所の第一番札所である那智山・青岸渡寺があります。伝統捕鯨で知られる太地町があります。
 大阪から4時間ほどかけて紀伊勝浦駅に到着。宿にチェックインしたあと、まずはその日最終便の遊覧船くじら号に乗って「紀の松原めぐり」を楽しみました。そして夕刻、温泉に浸かったあとは美味しいお酒をいただきながら南紀・勝浦温泉の夜を楽しむ....。
 翌朝、紀伊勝浦駅前からバスに乗って25分。那智山に向かいました。参道の長い石段を登って熊野那智大社に参拝したあと、隣接する青岸渡寺へ。いずれもちょうど改修工事中で全景は望めませんでしたが、青岸渡寺では般若心経を唱える多くの方がお見えになっていました。

 三重塔に移動する途中、熊野本宮大社に向かう熊野古道を覗いてみました。いつの日か熊野古道を歩きたくなりました。そして最後は、三重塔の横を歩いて那智の大滝に向かいます。写真やテレビでよく見る風景です。
 思い出しました。那智といえば南方熊楠。英国から帰国して1年ほど経った明治34年の秋、熊楠は隠花植物の研究のため、紀伊勝浦に向かいました。その後の3年間、彼は思想的に最も重要な時期をこの那智で過ごすことになります。
 「南方熊楠アルバム」(中瀬喜陽・長谷川興蔵編=八坂書房)によれば、熊楠は「那智滝(一ノ滝)の背後の原生林を、二ノ滝や三ノ滝あたりまで、また那智川の支流にかかる陰陽ノ滝付近を歩きまわり、粘菌類や菌類その他の植物採取に励んだ」とあります。同時に熊楠は、長文の英文論文の発表や「方丈記」の翻訳、さらには学僧・土宜法竜宛ての書簡に記された、いわゆる「南方マンダラ」などの思想的な代表作を、この那智で書き上げました。
 急に思い立った南紀・勝浦の旅でしたが、温泉だけでなく、西国1番札所青岸渡寺へのお参り、そして南方熊楠が3年間を過ごした勝浦の風景を体感するという贅沢なものになりました。ちなみに、和歌山にある西国三十三カ所には、青岸渡寺のほかに2番札所の紀三井寺山金剛宝寺と3番札所の風猛山粉河寺があります。いずれ機会をみてお参りしたいと思います。
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地産地消。ごっくん馬路村.....

2018-05-24 22:37:41 | Weblog

 久しぶりに夏日となった昼下がり、我が家の庭に繁茂するカモミール、ラベンダー、セージを摘んできました。乾燥してドライティを作るためですが、その一部をフレッシュのままサンティーにしていただきました(茶器に浸して太陽光だけで温めます)。ほんのりとした甘い香りが火照った身体を癒してくれます。自然の恵みです。
 自然の恵みといえば、先週、高知の神峯寺でいただいた冷え冷えの「ごっくん馬路村」も美味しかったです。ゆずと蜂蜜と水だけで作ったジュースです。ゆずで有名な馬路村農協の製造で、四国の道の駅やお土産屋さんでしか売っていないそうです。(全国にネット販売あり)
 「ごっくん馬路村」は、地元でとれる「ゆず」をうまく商品化して、それを地域で売り、お金を地元で循環する仕組みを実現しています。旅人が飲めば外部からお金を取り込むこともできます。まさに「地産地消」のモデルといえるのではないでしょうか。そうそう、高知駅構内のセブンイレブンで見つけたチューハイ「馬路村ゆずチューハイ」(地域限定プレミアムチューハイ=宝酒造)も、その取り組みの一環なんでしょう。のど越しのよいチューハイでした。馬路村、なかなか頑張っています。
 先日帰省した際に思ったのですが、田舎には不似合いな大型スーパーの野菜売り場は、地元で生産された野菜はごくわずかで、多くは全国各地から大量買い付けで安く仕入れた野菜が店頭を専有していました。一方で、大阪のスーパーの売り場に奥出雲で生産された野菜が並べられているのを見ると、なんとも釈然としないものを感じます。
 大手スーパーが地方の隅々にまで浸透して、かつてあった町の商店を飲み込んでしまう。すると、その土地のお金が地域の外に流れていってしまい、その土地の活力さえも奪ってしまう。働く場のない若者は都会に出て行ってしまい、少子化、高齢化、人口減に拍車がかかってしまう。「歩き遍路」をしていると、小さな町のシャッター通りを目にして気が滅入ってしまいます。国の補助を受けて役場と介護施設だけは立派になっても、将来に向けた展望は見えてきません。地方はますます疲弊するばかり。だから私は「ごっくん馬路村」に注目しています。馬路村農協のさらなる知恵の発揮に期待しています。
 一方、都会は磐石なのかといえば必ずしもそうとは言えません。きらびやかなバーチャルな世界に浮かれている間に、短命な商品が次から次へと生まれては消えていく。こちらも別の意味で文明的な課題を抱えています。悪循環が国を滅ぼしてしまいます。さあて、どうすべきか。
 話は変わりますが、先日、音楽ダウンロードサイト「MORA」から「千の風になって(メモリアル盤)」をダウンロードしました。チェロ、ホルン、ピアノ、アカペラ、ハーモニカ、ピアノと朗読、弦楽四重奏など様々なバージョンでまとめたものですが、改めて新井さんの曲の素晴らしさを思ったものでした。
 そんな新井さんが先月、NHKEテレ「グレーテルのかまど」の「新井満の笹だんご」に出演されていました。見逃したのでYouTubeで検索してみると、ありました、ありました。番組の始めと最後に、北海道七飯町のご自宅で奥様とご一緒に出演されていました。ご出身の新潟県のスイーツ「笹だんご」が取り持った奥様との出会いなどお話しになっていました。野間文芸新人賞や芥川賞を受賞された作家であり、作詞作曲家、歌手、写真家、環境映像プロデューサー、絵本画家と多彩な新井さんですが、大沼国定公園の大自然で育まれた感性、心の風景が「千の風になって」を生み出したのでしょう。

      2年前、大沼国定公園でのリハーサルで「千の風になって」を歌う新井さん
 さて、とりとめもなく呑気なことを綴っていますが、今週はお勉強の毎日でした。月曜日は、古典文学講座「井原西鶴の世界」。この日は「『本朝二十不幸』の世界~今の都も世は借物」。ちょうどいま、新刊の加藤秀俊著「社会学~わたしと世間」(中公新書)を読んでいて、社会学の視点から江戸時代の庶民の生活を眺める楽しい時間でもありました。
 今週のカレッジのお題は、近代文学③「小説に描かれた新選組と井伊直弼」でした。新選組の虜になった歴女、若き女性研究者の迸るような情熱をびしびしと感じる授業でありました。そして水彩画教室では、シャクヤクの花を題材に取り組みました。若い頃のように、研ぎ澄まされた感性、知力は失せてしまいましたが、いろいろなお話しをお聴きしながら刺激に満ちた日々を過ごしたことになります。
 ひとつ書き忘れていました。来月の街歩き企画の下打合わせのため京都にでかけてきました。今回は京都府の旧府庁、三条通りの明治建築群、そしてニッシャ印刷歴史館など明治近代建築と街並みを見て回る計画です。
 という次第で、今週はゆったりまったりの日々を過ごしました。時には、こんな1週間があっても良いなあと思っていますが、新聞紙上では、米朝関係、国政の混乱や日大アメフト問題などが紙面を埋め尽くします。唯一の救いは、日大アメフト部員の記者会見。その真摯な姿勢に感心しました。その一方で、オトナのだらし無さ。なんとも釈然としない憂鬱な日々でもありました。

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雨のち晴れ~土佐の海辺と田圃道を歩く

2018-05-17 22:28:16 | 四国遍路

 「歩き遍路」から帰った翌日はカレッジの日。授業が終わると、友人たちとお約束していた大阪・鶴橋の焼肉店「小川亭とらちゃん」での呑み会でした。........4月半ばから出たり入ったりしていたドタバタ劇、これでひと段落といったところでしょうか。今朝は久しぶりにゆっくりと目覚めました。
 今回の「歩き遍路」は、高知県の室戸岬から歩き始めて高知市に向かう2泊3日の行程でした。途中、ショートカットしたところを除いて65キロの道のりです。初日はあいにくの雨模様。午後1時過ぎに室戸バスターミナルに到着すると、お遍路姿に着替えた上からすっぽりとポンチョを被って、いざ出発です。まずは、室津港の街中に佇む25番札所「津照寺」に向かいました。
 その後、雨も小降りになり、国道55号線やへんろ道をひたすら歩いて26番札所金剛頂寺に向かいます。道端にあった「女人結界の道しるべ」なる石碑に目が留まりました。案内板には、「この石碑は、貞享2年2月(1685年)に建立され、これより西寺領八町内へは女性は入ってはいけないの意で、昔は女性が参拝する事を拒んだ」とあります。女人禁制です。その昔、女性たちは、翌日に訪ねることになる不動岩(番外霊場)に参拝したようです。
 金剛頂寺の境内は標高165メートルのところにあります。平地を歩いていて急に山登りをすると堪えます。本堂、大師堂と回って納経所へ。運悪くツアーの方々と重なり、しばし時間待ちをしました。階段を降りたところで歩き遍路さん同士で写真を撮りあいました(笑)。
 その日は、民宿うらしまで泊まりました。泊り客は5名(男性4名、女性1名)。うち男性1名は欧米系の方でした。夕食時、冷たいビールで喉を潤していると、女将さんからコップ1杯の日本酒のお接待をいただきました。
 2日目の朝は、前日と打って変わって「晴れ」。幸先の良いスタートとなりました。6時30分出発。まずは金剛頂寺の奥の院といわれる行当岬の不動岩に向かいます。これから向かう羽根崎と室戸岬のほぼ中間に位置し、高さ40メートルの不動巌があります。弘法大師が修行した場所だったので「行当西寺」とも呼ばれ、波切不動として信仰を集め、女人堂として賑わったのだそうです。
 引き続き、左側に延々と続く海岸線を眺めながら、ひたすら歩き続けることになります。ときどき振り返ってみると、遠くに出発点の室戸岬が見えます。....と、休憩所が見えてきたので、ここでひと息。ここでも石碑が気になったので案内板をみると、「羽根崎と紀貫之の歌碑」とあります。「古くは、紀貫之が土佐日記に承平5年(935年)1月10日、羽根の泊に泊し、一行は11日昼頃羽根崎を過ぎる。幼童の羽根という名を聞いて、~ まことにて名に聞く所 羽根ならば 飛ぶがごとくに 都へもがな~と詠まれている」と記されています。
 「土佐日記」(角川ソフィア文庫)の現代語訳によれば、「本当にその名のとおり、この「羽根」という土地が鳥の羽ならば、その羽で飛ぶように早く都に帰りたいものだなあ」という意味のようです。紀貫之は29番札所国分寺界隈で土佐の国司として4年間を過ごして帰京するわけですが、一行の都を思う気持ちが伝わってきます。ちなみに一行は土佐から和泉の国(大阪南部)、そして淀川を登って京都に帰りました。悪天候のため55日もかかったのだそうです。
 その後、中山峠、弘法大師御霊跡、奈半利町、田野町を経て、二日目の民宿ドライブイン27へ。やや古びたお宿でしたが、気さくな女将さんに元気づけられ、少し遅めの昼食をとると、荷物を預けて27番札所神峯寺へ向かいました。土佐の国では一番高い標高430mにあるお寺です。くねくねと走る車道を突きっ切るように山肌を縦に登っていく急こう配のへんろ道を登り詰めて1時間。やっと境内に辿り着きました。お参りしたあと、カメラ愛好家の方々に出会い、本堂前で写真を撮っていただきました。
  納経所前にあった土佐の名水「神峯の水」をいただいて山を下りました。駐車場横のお土産店で、さきほどのカメラ愛好家の皆さんにお会いしました。「はちみつ入りゆず飲料”ごっくん馬路村”お勧めよ」と。美味しかったです。「帰りは無理をせず車道を歩いて帰った方が楽ですよ」とも。というわけで、滅多に車が通らないくねくね車道を歩きながら下山しました。
 しばらくすると、樹木の切れ目から色鮮やかな初夏の土佐を一望できるところがありました。遠くに羽根崎の海岸線も見えます。なによりも、空気が澄んでいて山の緑が美しい。シチリアの景色に似た高揚感が身体に充満するのを覚えました。バスツアーでは見逃してしまう景色です。....そこでポケットから取り出したのがipod。またぞろ新井満さんの「千の風になって」を聴きながら、疲れも忘れて気持ちよくお山を下りていきました。
 街に降りると、宿には直行せず、唐浜海岸をお散歩しました。太平洋に向かって左に羽根崎、右には遠くに足摺岬が微かに見えます。打ち寄せる波にまん丸くなった小石を2個いただいて帰りました。
 3日目は、少しショートカットして土佐くろしお鉄道「のいち」駅から歩き始めました。これまでの海岸線とは異なり、街並み、農道、田圃道を歩くことになります。28番札所大日寺(香南市)は難なくクリア。初日の宿でご一緒した叔父さん、叔母さんとも、再び境内でお目にかかりました。
 29番札所国分寺までは9キロの道のりです。民家が立ち並ぶ小径、田圃の真ん中を歩きます。へんろ道の矢印を注意深く確認していないと方向を見失いそうです。なので、時々スマホのgoogle mapで立ち位置を確認します。.....戸板島橋を渡り、松本大師堂を通り、やっとこさ国分寺(南国市)に到着です。
 そして今回最後の札所となる30番善楽寺(高知市)へは約7キロの道のりです。時間とともに気温も上昇。肌がひりひりしてきます。国分川に沿って、まだかまだかと歩きながら、休憩所で一服。「神峯の水」に元気をいただきました。やっと到着しましたが、一宮神社の方が大きく、善楽寺の境内に辿り着くのに戸惑ってしまいました。
 こうして、2泊3日の「歩き遍路」を無事歩き終えました。開経偈、懺悔文、三帰、発菩提心真言、三摩耶戎真言、般若心経、大師宝号、回向文などを唱えるカタチも徐々に身についてきたように思います。行き帰りの高速バスの中では、空海「般若心経秘鍵」(角川文庫=ビギナーズ日本の思想)に目を通しました。まだまだビギナーの歩き遍路ですが、宿で先輩のお遍路さんにいろいろお話しを伺いながら、少しずつ深化させていくことになります。

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敬虔な祈り ~ シチリア島&南イタリアの旅(その2)

2018-05-10 23:26:58 | 旅行

 出雲大社で行われた義兄の葬祭の儀に参列してきました。祭場で頂いた書状には「あなたは、この世に何処からきましたか。あなたは、この世を去れば何処にゆきますか」と記されていました。そして「物事には、始めがあれば必ず終わりがあります。本があれば必ず末があります。大地より生ずる草木は必ず大地に帰ります。霜雪は必ずふたたび水に帰ります。鮭は生まれた川に帰ります」と。斎主からはさまざまな詞が奏上されましたが、ぼんやり理解できたのは、私たちを温かく見守ってくれる神となった故人に日々お祈りをすることの薦め。お祈りすることで故人の神格はますます高まっていくのだと........。
 義兄と私は13歳の歳の差があります。まだ姉と結婚していない小学校4年生の頃に出会いました。実兄たちが、私と20歳近い歳の差があって、既に東京や京都にいましたから、田舎で一緒に過ごしたのは義兄の方が長く、私にとっては実兄以上に近しい存在でした。
   昨秋久しぶりに帰省した際にも、夜遅くまでお酒を酌み交わし、年末には電話口で元気そうに話していたのに、年初に急に体調を崩し、検査の結果、血液の癌との判定。あっという間のことでした。残念なことでした。
 心配なのは姉のこと。初期段階の認知症らしき様子は伺えましたが、夫の急逝で少し進行した様子。祭場の入口でいつも通り気丈に参拝者にご挨拶をしていたのに、葬祭から仕上までの一連の儀式が終わって自宅に戻ると、その日参列いただいた何人かの近しい親戚の方を思い出せない。あれだけお話をしていたのに.....。だだっ広い屋敷でひとり寂しく暮らすことになる姉。別棟に同居する長男一家には毎日できるだけ声をかけてほしいとお願いするしかありません。
 今回は出雲大社で葬儀が行われましたが、それが神式であれ仏式であれ、近しい人との別れは辛いものです。でも、そもそも宗教っていったい何でしょう?人を思う気持ちや心に大きな違いはないはずなのに........。
 海外を旅行をしていると、街の中心には必ず教会があります。そこに広場ができて人々が集まり、長い年月をかけて都市が形成されていく、そんな歴史を思います。今回のシチリア島&南イタリアの旅行で印象に残ったのは、アマルフィのドゥオーモでした。いただいた日本語のパンフレットによれば、町の守護聖人、聖アンドレアを祭る大聖堂で、創建は6世紀、元々ロマネスク様式だった建物を18世紀に改装したのだと。貴族たちを葬る天国の回廊、聖アンドレアの遺骸を安置する地下礼拝堂など、敬虔な空気が充満した空間が私たちを迎えてくれました。
 祭壇に掲げられた十字架上のキリスト、聖アンドレア像、宗教画、ステンドグラスから漏れる光。宗教の違いは別にして、人の心を鎮めてくれます。老若男女が集い、手を合わせます。お寺の本堂に似た空気を感じました。祭壇中央に座す如来さま、菩薩さま、そして曼荼羅画。.....今回の旅行中は他にパレルモの大聖堂、シラクーザのサンタ・ルチア・アッラ・バディア教会など様々な教会を拝見させていただきました。散策している途中、道々にマリア像を祭った小さな祠がありました。それは四国遍路で出会う道端のお地蔵さんのようでもありました。
 シチリア島内をバスに乗って移動中、車窓に流れる広大な麦畑や草原を眺めながら、ipodに取り込んだリストのピアノ曲「巡礼の年」を聴いていました。聴き終わって何気なくipodを操作していたら、新井満の「千の風になって」が流れてきました。  
 「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」。リタイアした直後に出かけた北海道旅行。函館にほど近い大沼国定公園でリハーサル中の新井さんの歌を聴いたのは、1年と10カ月も前のことです。それ以来、私の中で「時間」というものの感覚、スピードがガラリと変わったような気がしています。
 その曲をバスの中で何度も聴きながら思ったこと。それは、私の死んだあとのことでした(笑)。おそらく私は、同じところにじっとしていられないだろうなあ。この歌と同じように、お墓の中にはいないだろうなあ、と。昇天と同時に世界中を飛び回っているんじゃないかなあ。空の上からまだ見ぬ様々な国々を飛び回っているんだろうなあ。きっと。だから「私のお墓の前で泣かないでください」。でも、家族たちがお墓参りにやってきたら、タイムスリップしてお墓に舞い戻ってくるんだろうなあと。そんなことを思いながらバスの車窓を流れる景色をぼんやりと眺めていました(笑)。
 ここ1、2年の間に、立て続けに近親者を失うと、そのことを自分に置き換えてしまっていけません。まだまだ若いのにねえ。まだまだ知らないことが多すぎます。くたばるわけにはいきません。頑張って楽しく生きていかなければ。
 それはそうと、昨日と今日、カレッジの宿泊研修旅行で岡山に行ってきました。旧閑谷学校、大原美術館、備中松山城、吹屋ふるさと村を見て回りました。そんな折、大原美術館の工芸・東洋館横の小径を歩いていて、バナナに似た甘い強い芳香を感じました。あたりを見回すと、どうやら私の背丈ほどの常緑樹に咲く直径3センチほどの白い花から漂っている様子。カラタネ オガタマというのだそうです。中国南部原産のモクレン科の常緑樹です。ちなみに、オガタマの木は招霊(オキタマ)より転じたもので、神前にこの葉枝をそなえ神霊を迎えるため、神社の境内などに植えるものなんだそうです。
 なんとも脈絡のない文章になってしまいましたが、旅行疲れということでご勘弁を。疲れついでに、次の日曜日からは予定どおり2泊3日の「歩き遍路」に出かけます。今回は雨の中の歩きになりそうですが、これもひとつの試練かと。頑張って歩くことにいたします。

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シチリア島&南イタリアの旅(その1)

2018-05-02 21:28:04 | 旅行

 4月下旬、「10日間でめぐるシチリア島&南イタリア」のツアーに行ってきました。20年ぶりのイタリア訪問です。関西国際空港からヘルシンキ空港経由でローマに入り、翌日、カゼルタ宮殿を見学のあとナポリへ。夕刻、大型フェリーに乗船してシチリアはパレルモに向かいました。翌朝、パレルモに到着すると旧市街地を散策したあと、古代ギリシャの植民都市・アグリジェントへ。次の日はピアッツァ・アルメリーナに向かい、カサーレの別荘で古代モザイク画を堪能したあと、カルタジローネを経て、シチリア随一の高級リゾート地タオルミーナで連泊。昨年G7が開かれた街です。オプションで、古代に地中海交易の重要港として繁栄を誇ったシラクーザにも足を延ばしました。そして翌日、メッシーナ港から南イタリアに戻り、アルベロベッロへ。次いで岩窟住居サッシが広がる歴史の街マテーラへ。そして翌日はアマルフィを観光する。そんな盛りだくさんのメニューでした。
                 ナポリ・サンタルチア港(遠くにベスビオ火山)
                 シチリア・パレルモ港の日出
                 古代のモザイク画(2千年前に既に女性の水着姿)
                 タオルミーナの街(遠くにエトナ火山)
                                                  アルベロベッロのトゥルッリ群
                 マテーラの岩窟住居              
                 アマルフィーの街
 帰国した今、10日間の「シチリア島&南イタリア」の旅を振り返りながら熟成しているところですが、特に印象に残ったのは、やはりシチリア島です。延々と続く麦畑、オリーブ、ブドウ畑。かつてギリシャの植民都市として栄えた歴史を今に伝える街並みが、私の心に染みついています。

                 アグリジェントのギリシャ神殿
                 タオルミーナのギリシャ劇場跡
 アグリジェントで詳しくガイドをしていただた中野陽子さんは、福岡は博多のご出身で、イタリアに留学後、在住30年。アグリジェントで唯一の日本人シチリア州公認ガイドとして、「るるぶ(南イタリア)」やテレビでも紹介されている方でした。その中野さんから、アグリジェントの丘に立つ樹齢千年を超えるオリーブの木についてお話しを伺いました。3月ならアーモンドの花が咲き乱れる丘、今は一面緑に覆われている丘にはギリシャ神殿が点在し、その向こうには青々とした地中海が広がる。そんな息を呑むような風景でした。18世紀にイタリアを旅したゲーテが、この景色を絶賛し、それを「イタリア紀行」に記しているのだと。
 その「イタリア紀行」を、帰国した翌日、時差ぼけにもめげず、京都みやこめっせで開催中の「春の古書大即売会」に向かい、いろいろ捜しまわったあげく、なんとか岩波文庫(相良守峯訳)を見つけました。1787年4月24日に記載されているアグリジェント(当時ジルジェンティ)の項には、こんなくだりがありました。

「今朝の日の出に見たような美しい春の眺めは、生まれて以来未だ曾て出会ったことがない。(略)宿の窓からは、曾て栄えた町の遠く広いなだらかな傾斜がみえ、それが農園とぶどう山ですっかり蔽われて、その緑の下に、そのむかし人口周密だった市区の痕跡があろうとは思われないほどである。ただこの緑深く、花咲き匂う平原の南端にあたってコンコルディアの寺院が聳え、その東にはジュノー神殿の若干の廃墟が見えるのみである。(略)視線は南へと滑って、なお半里ほど海へ向かって伸びている海辺の平地へと引かれる」

 わたしがアグリジェントを歩いたのは4月23日のこと。そして、かのゲーテがアグリジェントを訪れたのは、二百数十年前の4月24日のことでした。
 もうひとつ印象に残ったのは、なだらかな麦畑が続く広大な平原です。出発前に「ローマ人の物語」の「ハンニバル戦記」で、何万人もの兵士たちが広大な平原で互いに隊列を組んで闘っていたのを興味深く読みましたが、まさに目の前に広がる平原を眺めていると、二千数百年前の戦いの場面が浮かんできそうでした。シチリア島は、イタリア本土とは異なり、アフリカ(カルタゴ)、ビザンチンほか様々な国々との戦場になったところです。
 三つめは、歌劇「ノルマ」や「清教徒」などを作曲したヴィンチェンツォ・ベッリーニが、カターニアの出身だったこと。残念ながらカターニアの町は素通りしてしまいましたが、「ノルマ風天然パスタ」を頂いた際、ベッリーニについて紹介がありました。歴史上の人物という事で言えば、かの科学者アルキメデスが生まれたのは、シラクーザでした。旧市街地を歩いていたら、ふらっとすれ違うのではないかと思うほど身近に感じたものでした。
                                                           カンタジローネ
                 シラクーザ
 ここまで書いたところで、さきほど、昨秋お世話になった出雲の義兄急逝の知らせが入りました。週末、葬祭の儀に参列しますが、やはり淋しさは隠せません。ここ1、2年の間にふたりの姉とふたりの義兄にお別れしたことになります。古き良き時代の風景が、どんどんセピア色に変わっていきます。........そんな次第で、「シチリア島&南イタリアの旅」の続きは後日改めて記すことにいたします。

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