心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

南方熊楠を想う梅雨の休日

2007-06-24 17:23:00 | Weblog
 入梅宣言を過ぎても、雨らしい雨も降らず、今年は梅雨らしくないなぁと思っていましたが、それでも時々思い返したように雨がぱらぱら。とうとう、きょうは朝から梅雨一色の日曜日となりました。こんな休日は、あまり無理をせずに、おとなしく部屋にこもって、跡片付けをしたり、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり....このところ、少しお疲れ気味でもありましたから、しっかりとお昼寝もいたしました。
 ところで、1週間前の週末は茅ヶ崎の方に出かけましたが、きのうの土曜日は東京へ日帰り出張でした。せっかくだからと、いつもより早い目に出かけ、仕事までの間、神保町界隈の巌松堂図書さんと小宮山書店さんを尋ねました。ほんとうなら半日ないし1日をかけて神田古書店街を一軒ずつ覗いてみたいところですが、さすがにそれはできません。「南方熊楠アルバム」、「熊楠漫筆(南方熊楠未刊文集)」、現代思想臨時増刊「1020年代の光と陰」(1976.6)、月刊「言語」バックナンバー5冊などを手にしました。
 このブログでも紹介していますが、最近わたしは南方熊楠に関心があって、新幹線の車中で講談社学術文庫「南方熊楠」(鶴見和子著)を読み終えたところでした。帰りの車中は「南方熊楠アルバム」を眺めながら、写真を通じて南方のひととなりを考えました。文字という記号だけでは判らない顔の表情、微妙な身の振る舞い、当時の時代環境のようなものを、理屈ではなく幅広に知ることができました。
 南方熊楠がイギリスに滞在したのは、1890年代です。1900年には帰国し郷里の和歌山に戻っています。柳田國男と同時代を生きていたわけです。鶴見さんの著書では、南方と柳田の比較が試みられています。それもまた興味深いところです。帰国後の南方の特徴的な活動に、神社合祀反対運動があります。詳細は触れませんが、エコロジー、環境共生運動の先駆者としての存在を垣間見ることができます。
 第一次世界大戦が終わって1920年代に入ると、束の間の平和を楽しむ不思議な時代になります。そうこうするうちにファシズムの暗雲が漂い、時代は第二次世界大戦へと流れていきます。「現代思想」臨時増刊は、「パリ、ウィーンそして東京。芸術のムーヴメントからファッションの流行まで」という副題がついています。わたしにとっては、南方が生きた時代を別の視点から眺める参考図書となります。南方熊楠は日本が真珠湾を攻撃した1941年に他界しています。
 なんだか堅苦しいお話しになってしまいましたが、昨夜は夜遅くまで本を眺めておりました。単なるお勉強のように見えても、実は自分自身の「今」を考える貴重なヒントをいただいています。
コメント

湘南の海

2007-06-17 13:29:34 | Weblog
 昨日一昨日とお休みをいただいて、茅ヶ崎界隈に出かけてきました。久しぶりに旧知の同業他社の方々、異業種の方々と、膝を交えて語り合いました。気がつけば午前2時。翌日は早朝5時半起きで、竹箒と塵取をもって1時間のお掃除、つづいて湘南海岸へのジョギングと、わたしの年代になると少しきついメニューでしたが、良い汗をかきました。
 関東地方も前日に梅雨入り宣言があったばかりでしたが、朝の7時過ぎには自転車でサーフボードを抱えて海に向かう若者たちがちらほら。海岸に出ると、朝早くからサーフィンを楽しむ光景が見られ、ひとっ飛びに真夏の海辺に訪れたよう。投げ釣りを楽しむ方、ジョギングを楽しむ方、犬の散歩を楽しむ方々と、あぁ、これが湘南海岸なのかと納得した次第です。お天気もよく、遠くには未だ冠雪をいただく富士山を眺めることができました。
 この会合に出席するにあたって、私が課題認識のベースにおいたのは、やはり鶴見和子さんの「内発的発展論」。それに、今月の文藝春秋に掲載された塩野七生さんの「日本と日本人への10の質問」を加えました。「この国に活力を取り戻すために」というサブタイトルがついていて、いかにも塩野さんらしいタッチで、格差社会、働き方、教育、リーダーシップ、老い、エリート、経済、愛国心、中国と米国、歴史のそれぞれについて、「考えるヒント」を提供していただきました。参加者一人ひとりが、それぞれの立場でそれぞれの課題を認識できたのは幸いでした。なによりも、湘南海岸に立ったとき肌に感じた清清しさを、こころのなかに感じることができました。
 ところで、茅ヶ崎市のお隣に藤沢市があります。わたしは、このあたりを訪れたのは今回が初めてです。ただ、藤沢という地名は、わたしにとって決して遠い存在ではありません。昭和20年代の後半、わたしの一番上の兄が、大学を出て就職をして間もなくの頃、藤沢の社員寮に帰宅する途中、電車事故に遭って亡くなっています。当時、母親は事故死が信じられず、どこかの国に連れ去られた(拉致された)のだと、長い間信じていました。そんな悲しい思い出のある街を電車の車窓から眺めながら、ふと、何かを見つけようとしている自分に気づきました。.......子供の頃、わたしの自慢の三輪車は、この兄が初めてのボーナスで買い、田舎に暮らすわたしに贈ってくれたものでした。長男の名前に昭の文字、末っ子のわたしの名前に和の文字。昭和の古き良き時代のお話です。.......いろいろなことを考えた2日間でした。
コメント

恐れる、畏れる、怖れる、懼れる

2007-06-10 10:07:08 | Weblog
 無表情な、どんよりとした雲に覆われた休日の朝、いつもどおり愛犬ゴンタと1時間余り散歩をしてきました。庭の片隅では、紫陽花の花が咲いています。紫陽花にとっては、むしろこんな天候がお好みのようで、それは美しい姿を見せています。 
 ここ数日、晴れていたかと思うと急に雨が降り出し、それも大粒の雨が落ちてきて、それに追い討ちをかけるようにゴロゴロドカーンと雷鳴が轟き、愛犬ゴンタも小屋の奥に身を潜める始末。「大丈夫だよ」と声をかける私までも、何やら不安になってしまいそうな、そんな経験をしました。素手ではどうしようもない、自然の威力の前に、ただ触れ伏すしかありませんでした。
 「おそれる」という言葉を広辞苑で調べると「恐れる、畏れる、怖れる、懼れる」とあり、①相手の力におされて、心がよわくなる。かなわないと思いこわがる②悪いことがおこるのではないかと気づかう。憂慮する③うやまって近づかない。おそれ多く思う④閉口する。まいってしまう----とあります。一般には「恐」、畏敬・畏怖の意では「畏」も使う、恐怖・危懼などの意では「怖」「懼」も使うともあります。
 そういえば最近、「おそれる」ということを経験する機会がなくなったような気がします。「おそれる」ことの対象自体を非科学的なことと割り切ってしまっているところがあります。科学的に解決できると踏んでいる。だから、頻繁に起こる惨たらしい事件などは逆に、あくまでも人間行動の異常さで片付けてしまう。
 果たして、相手の顔の見えない「怖さ」は、科学技術の前に完全に姿を消してしまったのでしょうか。そうは思えません。逆に、「怖さ」を目の前にして互いに助け合おうという関係性の欠如の方が気になります。身に迫る危機を孤軍奮闘、頑なに一人で向き合おうとするから無理が生じてしまう。思考が硬直化し、前後の関係が見えなくなってしまう。共通の「こころ」の基盤が脆弱だから、ますます孤立化の道を歩む。結果、自分をどうしようもない状況に追い込んでしまう。心の「絆」が希薄になってはいないでしょうか。職場におけるメンタルヘルスも、こうした孤立化が進む人間社会のひとつの現れかもしれません。先日の朝日新聞”経済気象台”で指摘されていた「現実とそれを生み出す人間の心の関係」を無視する経営観にも課題があります。
 出口の見えないことを、あれやこれやと考えながらブログの更新をしていたら、いつの間にか雲の合い間から青空が顔を出し始めました。雲も軽やかな真っ白い雲に変わり、周囲が明るくなってきました。さぁ、休日の始まりです。(^^♪
コメント

ハーブに気づかされること

2007-06-03 11:01:48 | Weblog
6月に入って時々湿っぽさを感じるようになりました。梅雨の季節が迫ってきたようです。でも、ここ大阪は、太陽こそ顔を出さないものの、外気が肌に心地よい、そんな休日を迎えています。
 この季節、我が家のハーブ畑は、大きく成長したハーブたちで溢れています。レモンバーム、カモミール、ミント、ローズマリー、ラベンダー、セージ、オレガノ。その傍に日本のシソ、ハッカなども植わっています。それらを愛犬ゴンタと眺めて過ごす贅沢な時間を楽しんでいます。それだけではありません。最近はハーブの葉っぱを摘んでは、ウイスキーや焼酎のオンザロックにそっと置いて香りを楽しんでもいます。
 わたしがハーブを好むのは、自然の生命(いのち)を感じるからです。か弱そうに見えるハーブたちは、素晴らしい香りを放つことで自らの存在感を示しています。その香をわたしたちは楽しむ。そこに不思議な共生空間を感じる。癒されるというよりも「気づき」の時間をいただく。慌しい日常生活のなかで見失いがちな「生かされている自分」を実感する。人間の傲慢さに気づくのです。
 先週紹介した鶴見和子さんの「日本を開く」に、こんなくだりがありました。「新しいパラダイム転換というものは、周辺から起こるもので中心から起こるのではない。中心は自分が一番偉いと思っているから、動かない。自分で自分を変えるなんてことはありえない。自分が偉いと思っている人がどうして自分を変えられますか。周辺だから変えられる。周辺だからパラダイム転換が可能になる」と。仏教の曼陀羅図をもとに読み解いた南方熊楠の科学方法論に沿ったものですが、わたしには現代人の傲慢さに対する警鐘のように思えてきます。
 と、もっともらしいことを綴っていますが、すこし話題を変えます。今朝なにげなくテレビを見ていたら、NHKのBShiで「夢の音楽堂」の再放送をやっていました。音楽評論家の黒田恭一さんのほか、バイオリン奏者の諏訪内晶子さんもご登場。午後には最近注目しているソプラノ歌手のアンナ・ネトレプコさんもご出演です。二部構成で午後3時まで続きます。録画をしながら、それでも、所々鑑賞したいと贅沢なことを考えています。休日の時間配分に苦心しているところです。いろいろと心の揺れ動く、今日この頃です。
コメント