6月に入ると梅雨入り宣言が気になりますが、我が家の庭ではハーブの一種ベルガモットが開花し始めました。先週種蒔きをしたばかりの向日葵が元気に芽を出し、きゅうりやトマト、メロンが小さな実をつけ始めています。ほんの僅かな変化が、心を楽しませてくれます。
さて、土曜休日の朝、少し遅めに起きると、家内いわく「これから、京都に能を見に行かない」と。このひと言で一日の予定が決まりました。京都・岡崎にある京都観世会館の浦田定期能です。さっそく電話をいれて当日券の有無を確認すると、午前11時20分の開場めざして飛び出しました。会館は京阪電車三条駅から歩いて15分のところにありました。近くには、美術館や平安神宮があります。
この日の曲目は「隅田川」と「融」でした。その間に、仕舞と狂言「水掛聟」があります。正午に始まった公演は、休憩を挟んで延々5時間におよびました。久しぶりの能楽鑑賞でしたが、現実と非現実が行き交う不思議な世界です。ワキ(旅の僧)とシテ(亡霊=今は亡き狂女や融の大臣)のやり取りを通じて、人の本性、情念のようなものが、単純化された舞台の中で表現されていきます。異次元の空間に身をおいて、硬直化した脳味噌を柔らかく解きほぐしてくれる時間を楽しみました。
「隅田川」は、伊勢物語第九段「東下り」で知られた隅田川の世界を背景に、我が子を尋ねて物狂いとなった母親の悲嘆を描いた名曲です。「融」は、源融(とおる)の大臣(おとど)が六条河原院の庭園でかつて塩を焼いていたことを思いつつ時代の変遷を嘆き悲しみます。こちらは古今和歌集や今昔物語に登場するお話です。そして、この2曲の間に演じられる狂言が、ふたつの曲の場面転換に独自の存在感を示します。狂言の意味を再発見いたしました。
この日は正面前列の2列目に陣取ったため、能面を被った演者の動作を目の前で見ることができました。見る、というよりも、対峙する、と言ったほうが良いのかもしれません。心地よい緊張感をもって能を楽しむことができました。こうした日本の伝統芸能が、中世のルネッサンスの時代よりも前に、東洋の島国で演じられていたと思うと驚きです。
帰り際に、同志社大学文学部国文学科の「伝統文化継承者特別入学試験」のパンフレットが目にとまりました。この日も、若い演者の姿を多数見かけましたが、単に伝統文化を守るということではなく、能楽そのものを極める、そんな空気を体感しました。パンフレットには「感性を 品格を 人格を 己を磨く」とありました。
ところで、お「能」といえば、先日、「脳」ドックの診断結果が送られてきました。予想どおり若干の指摘があって経過観察ということでしたが、今すぐに何かをしなければならないといった状況でもなさそうでした。これに対して家内の方は、病院からお呼び出しがあって、急きょ精密検査をすることになりました。でも、専門医の一回目の診断は「大丈夫だろう」とのことなので楽観しています。
ひょっとしたら、急な能楽鑑賞の裏には、そんな嬉しくない気分を振り払おうという意味合いもあったのかもしれません。週末の京都の夜を楽しんで帰りました。