心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

内発的発展論ということ

2007-05-27 10:19:52 | Weblog
 きょうも爽やかな休日の朝を迎えました。小鳥の囀りに5時頃には目が覚め、しかし起きるでもなく、昨夜いったん閉じた枕元の本に手を伸ばして再び読み始める、なんとも贅沢な時間を楽しみました。
 いま読んでいるのは鶴見和子さんの「日本を開く」(岩波セミナーブックス)です。内発的発展論の視点から"日本を開く”ということを考える、それを柳田國男、南方熊楠、大江健三郎の仕事を通じて追ってみる、そんな内容です。読み始めて、柳田の「遠野物語」の時代的・精神的な背景を知ることになり、その奥深さに驚き、一方では明治維新以後今日に至る価値観の変遷とこれからの有り様を考えさせられました。読み込んではいったん本を閉じて考える、そしてまた開く、そんな繰り返しです。追いつき追い越せの時代を通り過ぎてぼんやりしている我々に、舶来の文化を無批判に受け入れるのではなく「内」なる自己をみつめ、向き合うことの大切さを教えてくれます。自分でちゃんとものを考えろと。
 このところ再び経営分野に足を突っ込みだしてきて、舶来のビジネス手法に翻弄されながら、しかし足元が見えない現状に一抹の不安を抱いています。皮相的なビジネス論に少しうんざりしています。そこに、この内発的発展論が現れた。もっと根源的な時代認識と人間観が必要だとわたしに迫る。グローバリゼーションという言葉に踊らされるのではなく、まさに自分の足元を見つめ、そこから継続的かつ内発的なエネルギーを感知したい。確かめたい。そんなことを、ぼんやりと考えています。この著書には、これまでのわたしの読書遍歴のなかに登場する、脈絡のあるようでなかった方々が多数登場します。わたしの甘い思想遍歴を集大成するきっかけにもなります。ぼんやりと頭の中を整理していければと思っています。
 ところで昨日の土曜休日は、久しぶりにLPレコードを物色しに日本橋界隈を散策して来ました。最近は、グレン・グールドを作品を漁っています。「ピアノによるワーグナー・コンサート」という変わったLPを手にしました。他に何枚かを抱えて、古本屋に立ち寄りました。柳田國男、南方熊楠の著書を物色しました。変わったところでは、徳富蘆花の「自然と人生」明治33年8月発行。25銭。鶴見さんの本に少し登場したのでさっと目を通すことに。...こんなお遊びをしながら休日はあっという間に終わります。そして再び仕事の場に。でも、大きな方向性は見失わないようにしたいと思っています。
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「こころ」の視点

2007-05-20 15:20:03 | Weblog
 初夏の爽やかな休日を迎えました。なんだか得をした気分になります。新しい部屋にも慣れて、ずいぶん住み心地のよい空間を楽しんでいます。そんな清々しい休日の昼下がり、シベリウスのピアノ小品を聴きながら、ブログの更新をしています。
 わたしの部屋を1階から2階に移動して、まず思うのは、視点の違いです。同じ目線で眺めるのと、少し上から眺めるのとでは、風景がずいぶん違って見えます。睨めっこしているパソコンの画面から窓の外に目をやれば、青い空に浮ぶ雲の流れを追うことができます。目の前に庭木の梢が見えます。梢の先で小鳥が羽根を繕っています。そおっと眺めていると、優しい自然の営みを感じます。いつも見ている同じ風景が、視点を少しずらしただけで風景がこうも変わって見えるものかと不思議に思います。
 同じ風景なのに、見る角度によってものの見え方が違って見える。単なる視点のせいでしょうか。見る者の「こころの視点」はどうでしょう。それに左右されることってないでしょうか。そう考えていくと、わたしたちは目の前の事象が、どのように、どの程度見えているのか、いささか不安になります。見えていると思っていて、実はその真実は見えていないのかもしれません。あれこれと考えていくと、なにやらプラトンの洞窟の比喩を思い出しますが、このあたりはブログ「心の風景」が追い求めているテーマでもあります。
 ところで今朝、何気なくフジテレビの「報道2001」を見ていたら、歴史小説家として知られる塩野七生さんがご登場でした。昨年「ローマ人の物語」全15巻を完結したことをご存知の方も多いのではないでしょうか。鋭い視点で今日の時代状況を見つめ、政治行動を見つめる塩野さんの人間観・歴史観を興味深く拝聴しました。最近テレビ報道番組を見ていると、何かしら強引かつ軽薄に結論を導き出そうとする傾向があって、わたしなどは嫌だなぁと思うことが時々あります。塩野さんの報道番組へのご登場で、逆にコメンテーターの存在が小さく見えてしまいました。
 取り留めのない内容になってしまいましたが、最近、目先の損得に流されて自分の足元が見えていないと思われる事件があまりにも多すぎます。寂しいですね。かく言う私も、何をどこまで見えているのか些か心もとない状況です。でも、こころの鏡を磨く努力は惜しまないつもり。そう、ありたいです。
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頭と身体で覚えることの大切さ

2007-05-13 17:15:12 | Weblog
 日曜日の午後、愛犬ゴンタを連れて近くの動物病院に行ってきました。年に1回の5種混合ワクチンと狂犬病の予防注射のためです。ついでにフィラリア予防薬もいただきました。そして今、やっと落ち着いたところです。温かいコーヒーを飲みながらFM番組「サンデークラシックワイド」をBGMにブログ更新を始めました。
 実はきょうは、朝早くからお出かけでした。大阪の母なる川「淀川」を舞台にした水防訓練がありました。初めての体験でした。土のうを作ったり、釜段工といって漏水の噴出口を中心に土のうを積んで水を貯えその水圧により水の噴出を止める模擬作業を行いました。これによって堤防の決壊を防ぐのだそうです。素人目には都会地を悠然と流れる淀川が決壊するなんてと思ってしまいますが、長い歴史を紐解けば決してそうではありません。日頃から防災意識の高揚と訓練は必要、ということになります。ふだん余り使わない筋肉を使いすぎたためか、帰宅と同時にどっと疲れが出てきました。それでもゴンタ君の予防接種まで突っ走って、きょう1日の予定を終えました。ふぅ~。
 水防訓練とは別に、一昨日は御堂筋完成70周年記念大掃除にも参加してきました。他府県の方はご存知ないのかもしれませんが、御堂筋といえば大阪のキタとミナミを結ぶ全長約4キロほどの大通りです。その御堂筋が完成して70周年ということで、日頃お世話になっている方々で掃除をしようというわけです。多くの企業・団体から1200名余りが参加して、こちらも午前中、路上の吸殻拾いや違法広告剥がし、路上にこびりついたガム剥がしにと汗を流しました。
 両日とも、職場の地域貢献と連携の一環ということになりますが、頭で理解する癖がついている現代人にとって、自ら身体を動かして経験することの意味は大きく、日常とは違った視点で街と自然を見つめることができたのは幸いでした。危機管理、リスクマネジメントなどと、恰好好い言葉が飛び交う昨今ですが、この種の理解は、頭で理解しても駄目ですね。頭とともに身体で覚えることが必要だと改めて思ったものです。そういえば、水防訓練では本番さながらに人命救助訓練もありました。レスキュー犬の何と恰好良かったことか。それぞれが得意分野を生かして「安心」「安全」を守ることを学んだ1日でした。
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風景のなかに思想が見える

2007-05-06 13:10:17 | Weblog
 この連休は、前半は部屋の引越し作業、後半は家族との小旅行と、久しぶりに仕事から解放された日々を過ごしました。そして連休最後の今日は、朝から雨が静かに降っています。静かな時間が流れています。それはある種、贅沢な時間でもあります。音楽を聴きながら部屋の後片付けをしたり本を読んだりと、徐々に仕事モードへの切り替えを始めています。
 ところで、部屋の引越し作業をしているときに見つけた本があります。2001年の秋に放送されたNHKラジオ第二放送の「こころをよむ」シリーズのテキストです。タイトルは「新しい哲学への冒険」で、上巻が「理想を語ること」、下巻が「決断すること」です。講師は桑子敏雄先生でした。その後のわたしが「風景」という言葉にこだわりを持ったのも、実はこの講座がきっかけでした。 このテキストの表紙をめくると、口絵の最初に「風景のなかに思想が見える」という見出しで、こんな言葉が添えてあります。「風景の向こうに何が見えるだろうか。制度に縛られた眼で見るのではなく、解放された自己の眼で見る。そのとき、風景と自己は共に変化する。今までとは違った意味をもつ風景のなかで、ひとは自分の行為をどう選択し、決断するのだろうか」と。講座の中では「配置と履歴の感性論の立場から風景と人間の関係を捉える」ことの意味をお話しになりました。何よりも感心したのは、学説解釈に終始する学会の動きとは一線を画し、「行動を起こすための哲学、生きた知識としての哲学」を提唱されたことでした。
 それまで「哲学」といわれるものについて勉強したことはありましたが、あくまでも知識としての学問にすぎなかったことを思うと、なんとも新鮮な驚きをもって聴講していたことを思い出します。高度経済成長からバブル崩壊に至る時代を生き抜いてきた人々が、何かしらぼんやりと「不安」「迷い」を抱いていた時期に、自らの足場を確認していく勇気をいただきました。このテキストを、わたしは連休中に再読しました。この講座との出会いが、その後の読書遍歴に大きな影響を与えていることを改めて思いました。それが野中郁次郎先生の「知識創造」経営に繋がっています。単なる読書ではなく「行動を起こすための哲学、生きた知識としての哲学」へと繋がっています。.......
 雨の日は、ひとを内省的にするもののようです。愛犬ゴンタも小屋の中でじっとしています。雨が止んだら何をしようかと思案しているのでしょう。いったんは空間のなかに身をおいて、自己を相対化してみる。すると、その先が見えてくる。もういちど冷静に見つめなおしてみたいと思っています。
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