先週は広島市内の料亭で会食懇談をしたあと、最終の新大阪行きの新幹線に飛び乗って帰阪しました。我が家に到着したのは午前1時でした。時あたかも広島市内は刑務所から脱走した犯人捜しで騒然とした雰囲気でしたが、なんとか身柄を拘束できたようでなによりでした。
さて、今朝の朝刊のトップ記事は大学入試センター試験でした。試験問題の配付ミスが続出したり、被災地の試験場にリスニング機器が届いていなかったりと、なかなかたいへんなようでしたが、今年もいよいよ入試シーズン本番のようです。といっても、昔と違い最近は推薦入学で定員の半分近くを確保しているようですから、かつての「入試シーズン本番」とは少し状況は違います。
ところで、昨夜、自宅PCのデータ整理をしていたら、以前のホームページのデータの断片が見つかりました。当時のHPにも「こころの風景」という部屋を開設していて、月1回程度の割合でアップしていました。その後、ご訪問いただいた方から「HPよりブログの方が向いているかも」とのアドバイスをいただき、それが今日のブログ「心の風景」に繋がっています。
それはさておき、2003年1月26日付の記事は「タコツボ型とササラ型」でした。政治学者・丸山眞男氏の著書「日本の思想」(岩波新書)を引用しています。
「文科系、理科系のいろいろな学部をもっている大学を総合大学といいますが、総合という言葉はじつに皮肉でありまして、実質はちっとも総合ではない。法科とか経済とか、いろいろな学部があって、それが地理的に近接しているというのを総合大学というにすぎない。そこで総合的な教養が与えられるわけでもなければ、各学部の共同研究が常時組織化されているわけでもない。ただ一つの経営体として、大学行政面で組織化されているというだけのことです。ユニヴァーシティーという本来の意味からは甚だ遠いのが実情です」(丸山眞男)
ついで私のコメントが続きます。
「丸山氏は、日本の社会なり文化なりをふたつの型に分けて眺めました。そのひとつがタコツボ型です。『タコツボっていうのは文字通りそれぞれ独立したタコツボが並列している型であって、専門分化のなりの果てとでも言える状況を想像すれば察しがつきます』。これに対峙するものとしてササラ型が提示されます。『ササラというのは、竹の先を細かくいくつにも割ったものです。手のひらでいえば元のところが共通していて、そこから指が分かれて出ている』状態であって、そういう型の文化をササラ型と定義します。学問領域の専門分化が進み、学部名称だけではその学部がいったい何を学ぶところなのか迷ってしまうような現状のなかで、丸山氏の視点の確かさは今日もなお新鮮さを失わずに生きつづけているように思います」。
さらに話は、ササラ型組織を支える「共通の根」に焦点を当てます。「西欧にはキリスト教文化という確固とした精神基盤があるが、敗戦を境に共通の”精神基盤”を失った日本人にとってどんな共通の根を見出すことができるのか」と。どう言うわけか、ここでウィーン・フィルの首席クラリネット奏者オッテンザマーの言葉が登場します。ウィーン・フィルといえば、奏者一人ひとりが確固たる音楽観をもつ、言えば「個」の確立されたプロ集団です。
「そんな個性豊かなウィーン・フィルの団員として定着するための三条件についてオッテンザマーは、こう述べています。(1)「音楽家」として優れていること(2)「人間」として一流であること(3)協調性を備えていること。..問題は、「優れている」とはどういうことか、「一流」とはどういうことか。こうした地道な問いかけが、いま、わたしたちに要請されているのかも知れません。上からのお仕着せではなく、個々人のそうした努力を抜きにして「共通の根」というものは見えてこないのではないか。ひょっとしたら、丸山氏もそんなことをお考えではなかったか」と。
昔はけっこう難しいことをテーマにしていたようです。でも、考えてみれば、指摘されている状況は9年前と全く変わっていません。18歳人口の減少と大学の乱立、限られた市場でのパイ(学生)の奪い合いのための底ざらい、特待生という名の学力優秀者授業料ダンピング、いったいキャンパスの中で今どんな高等教育がなされているのか。9年前より事態はむしろ深刻になっているのではないでしょうか。
日曜日のTV政治番組では、税と社会保障一体改革論議が賑やかしい。高齢化社会に向けての税の仕組みを変えていこうという高邁なお話ですが、いまの若者が高齢化したときの時代の姿を想像できないところに空恐ろしさを思います。わたしも含めて皆が気が付いていながら手を拱いている現実に、無力感を感じます。
先日、広島でご懇談をさせていただいた方は、私と同じ法学部政治学科をご卒業された方でした。お互いのゼミの先生の名前を知っているというだけでも話題は事欠きません。楽しいひと時を過ごしました。