心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

レコードのジャケット

2006-11-26 15:55:54 | Weblog
 落葉の季節は、もの悲しい風情が漂います。早春の頃、寒い冬を耐えた木の芽が膨らんで、春の陽とともに、いつの間にか一面が淡い緑に包まれる。そんな心の高揚が過ぎ、夏には力強ささえ感じさせる木の葉が、秋を迎える頃には老練な姿に変り、と思っているうちに、赤や黄に色づき始め、いつの間にか地面にひらひらと舞い落ちる。そして土に返っていく。何千年も何万年もの間、絶えることなく続いてきた自然の営みが、そこにあります。人間だって、形を変えれば、同じことなんでしょうよ。きっと。きょうは、庭の木の葉を集めて焚き火をしながら、ぼんやりとこんなことを考えていました。
 ところで、祝日休日の日に、家内とお出かけのついでに中古レコード店に立ち寄りました。手に入れたのは、ストコフスキー指揮のチャイコフスキーの交響曲第5番、ボスコフスキー指揮のリストのハンガリア狂詩曲、カンプラの歌劇「ヴェネチアの祭り」からの組曲、そしてパーセルの歌劇「ディドとエネアス」の、以上4枚でした。チャイコフスキーの5番のように、指揮者を変えて一貫して収集している曲以外は、ジャケットの絵の楽しさで選んだ衝動買いでした。なかでも歌劇「ディドとエネアス」のレコードは、箱入の米国盤で、印刷されていたニッパー君の絵柄が気に入りました。蓄音機のスピーカーの前で、怪訝そうに、かつての飼い主の声に耳を傾ける彼の姿に、何とも愛しさを感じてのご購入でありました。ちなみにカルタゴの女王ディドの忠実な侍女ベリンダ役をシュワルツコップが演じています。私が生まれた頃のずいぶん古い録音でした。
 今回訪ねたお店も、お気に入りのDISCJ.J.でした。3階のレコードコーナーに行くと、いつも若いお兄さんが仕入れたばかりのレコードのお手入れに余念がない。訪れる客は、わたしと同年輩かそれ以上の年代の方々。時々こだわり派の若者がちらほら。都会の喧騒を離れ、軽いBGMが流れる空間のなかで、静かに品選びでした。そういえば以前、東京に出張した際、神田神保町界隈で中古レコード店を何件かハシゴをしたことがあります。古書店が入居しているビルの9階にあった、愛好家仲間で有名なお店を覗くと、確かに品ぞろいも豊富で、LP盤どころかSP盤も所狭しと並んでいました。でも、大阪に比べてとにかく高い。以後、品質の良いレコードが流通している間に大阪で仕入れてしまおう、という思いを強くしたものです。今年も暇を見つけては足繁く通った一年でした。
 そんなわけで、今年もとうとう11月最終の日曜日となりました。師走の慌しさに、おそらくあっという間に2006年も幕を閉じるのでしょう。でも、少なくとも次のステージに進む足がかりは掴んでおきたい。....そんなことを考えていたら、プロコフィエフのフルート・ソナタニ長調作品94のレコードが終わろうとしています。フルート演奏はゴールウェイ、ピアノはアルゲリッチでした。(^^♪
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生き物とのコミュニケーション

2006-11-19 17:23:50 | 愛犬ゴンタ

 小雨舞う秋の休日ですが、きょうは午前中、職場に出かける用事がありました。その帰り道、ペットショップに立ち寄って、熱帯魚用の蛍光灯とグロー球を買ってきました。数日前から水槽の蛍光灯がちかちかしていたからです。帰ると早速、大きな水槽を掃除して、水を入れ替え、新しい蛍光灯をセットしました。
 いま、我が家の水槽で暮らしているのは、12㌢ほどのゴールデン・セベラムが一匹、8㌢ほどのゴールデン・グラミーが数匹。圧巻は20数㌢のセイルフィン・プレコで、背ビレを大きく広げた時の雄姿はなかなかのものです。時々、好物の乾燥赤虫、糸ミミズを与えるものだから、わたしの顔をよく覚えていて、水槽の前を通ると、さっと寄ってきて挨拶をしてくれます。以心伝心、コミュニケーションができているのでしょう。そんなわけで、休日ともなれば動物園の飼育係さんよろしく、愛犬ゴンタの散歩の次は、熱帯魚のお世話、その次は亀五郎夫妻のお世話と続きます。
 さすがに寒くなると、亀五郎夫妻も食事が進みません。そろそろ冬眠の準備です。きょうは飼育箱を掃除して、砂を入れ替え、枯れ葉を積み、水辺も綺麗にしてあげました。さっそく、枯れ葉の中に隠れてしまいました。温かくなるまで、静かにお休みなのでしょう。でも、不思議ですね。夏の暑い季節は食欲旺盛で、野菜や鶏肉をパクパク食べるのに、冬の数ヶ月間は何も食べないで過ごします。安上がり?ひょっとして仮死状態?。それとも、人間が座禅を組むように、じっとして「無」の境地にいて考え込んでいるのでしょうか。とにかく不思議な生き物です。こんな亀五郎夫妻も、飼育係はよく知っています。飼育ケースの蓋を開けると、わたしの手元にやってきます。おねだりをします。甲羅を洗ってやると、嬉しそうにしています。そこには、言葉ではない何かのコミュニケーションが働いています。
 もちろん、愛犬ゴンタ君も、そう。話すことはできないけれど、目を見つめれば、彼が何を考えているのか手にとるように判ります。撫でてやると、わたしに何かを伝えようと妙な声(言葉?)を発します。そんなときのゴンタは、「犬」という生き物ではなく人格をもった存在として、わたしの目の前に存在します。それによって、逆に「癒されている」。そんな関係を思います。
 考えてみると、彼らはみな、ストレートに感情を表現します。素直に自分の気持ちを伝えようとします。なのに人間さまは、どうして回りくどいことを言うのでしょう。なぜ正直に自分の気持ちを表そうとしないのでしょう。上や下や、右や左や、そんなことは少し横に置いて、虚勢を張らず、もっと正直に生きたいものです。
 いったい、誰に言っているのかい(^^♪。休日の安らぎのなかで、1週間を振り返ると様々な人間模様が浮かんできます。

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ギア・チェンジ

2006-11-12 11:56:27 | Weblog
 少し肌寒い休日の朝を迎えました。薄いセーターを着て、愛犬ゴンタと久しぶりのお散歩でした。あとは、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調作品24《春》を、アルゲリッチのピアノ、クレーメルのヴァイオリンで聴きながら、ぼんやりとして、そしてパソコンの前に座りました。
 そういえば一昨日の真夜中、強烈な雷鳴に目を覚ましました。お隣の家にでも落ちたかのような、それは凄まじいものでした。自然の脅威というものを忘れがちな都会生活のなかで、久しぶりに体験した出来事でした。こうした自然への畏敬の念を抱くことで、私たちは自らの力、存在を確かめ、見つめなおすことになります。人間の尊大さ、傲慢さに気づくことになります。
 昨夜は、録画しておいたNHKテレビ「その時歴史が動いた”日本を発見した日本人~柳田国男・“遠野物語”誕生~”」を見ました。生活のいたるところに欧米文化が押し寄せつつあった明治の時代に、あえて日本の民間伝承に光をあてた民俗学者・柳田国男を追ったものでした。「遠野物語」は、岩手県遠野地方に伝わるお話を纏めたものですが、手許にある本を開いてみると「山の神」「ザシキワラシ」「山男」「山女」「かっぱ」「天狗」など、一見、子供向けの絵本の台本のような印象です。しかし、これらのお話しの中に「代々村人が守ってきた村の歴史や教訓が込められている」。そこには、安易に西洋文明に流されるのではなく、自らの足で大地を踏みしめ、自らの目で世の中の動きを見つめることの大切さを訴える柳田の視点がありました。
 さて、11月も半ば、今年もあと1ヶ月半を残すのみです。若干の焦りもありますが、焦ったってしようがありません。昨日は、仕事の流れが一瞬止まる瞬間がありました。止まるというよりも、真空状態になったといった方が正解かもしれません。で、何をしたかといえば、デスクの書類整理です。わたしは時系列にファイル管理をしていますから、開かない書類はどんどん奥の方に溜まっていきます。昨日は、思い切って引き出しの奥に溜まっている書類すべてを、ろくに中身も確認することなく廃棄しました。1時間ほどかけてシュレッダーで裁断したら、急に肩の荷が下りたような、不思議な感覚が私を包み込みました。様々な過去の柵からの解放感というのでしょうか。人間って、どうしようもなく硬直化するときがあります。そんなときは、いっそ思い切って連続性を絶つというのも悪くない。ギア・チェンジをして、もう一度足元からものごとを組み立て直してみる。これも楽しいことです。
 私が愛用している、野口悠紀雄先生考案の『超整理手帳』も、明日13日からいよいよ2007年バージョンです。A版四つ折りサイズで、ジャバラ式のスケジュール・シートを開けば、最長8週間の予定がひと目で見渡せる一覧性が魅力です。かれこれ10年近く愛用しています。これに Post- it Noteを組み合わせれば、わたしの携帯アナログ情報管理ツールが整います。さぁ、長い人生、もうひと踏ん張りしてみますか。
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33年ぶりの再会

2006-11-05 23:40:30 | Weblog
 きょうは午後、大学時代に所属していたクラブの同窓会に出席してきました。何年かに一回はご案内をいただくのですが、もうひとつ足が進まず、今回は半強制的なご案内をいただいたので、卒業後初めての、実に33年ぶりの再会となりました。
 会場となった大学の講義室に顔を出すと、何人かの方々が見覚えのある雰囲気を漂わせていらっしゃる。一人ひとりにご挨拶をしながら、古き良き時代を懐かしんだものです。それにしても、人間って、基本的な部分は、それほど大きく変わることがないのだと、つくづく思いました。
 ところで、自己紹介のとき、妙な視線を感じました。私の斜め後ろで、時々私を見つめてニコニコしているご婦人がいらっしゃいました。振り返るわけにもいかず、それでいて本当に気になる存在でした。私が自己紹介を終えて、そして何人かが終わってその方の番。...旧姓のお名前を聞いて驚きました。すぐに後ろを振り向きました。すると彼女が、笑顔で私に合図をしてくれました。そう、学生時代の後半を極めて近くで過ごした彼女でした。事情があって、その後互いの道を選択したのですが、その彼女が相変わらずの笑顔で私を見つめている。実に33年ぶりの再会でした。聞けば彼女も、卒業後初めての出席でした。偶然とはいえ、私にとっては劇的な再会でした。
 会合のあと、学生時代に入り浸った喫茶店に向かいました。もちろん、そんな店は既にありません。付近のお店で互いの近況報告をいたしました。「お子さんは何人?」「3人」「わたしは4人」「頑張ったんだ」「そう、頑張ったのよ」.....。それぞれの道を歩み、それぞれの幸せを見つけて、それでも、過去は過去として決して忘れない。私たちも、そんな年代になったんだと思いました。お互いに、学生時代を忘れようと突っ張って生きてきた33年間。やっと、ここに来て、大人になった。過去は過去として見つめることのできる心の余裕ができたということなのでしょう。
 私たちには、記憶を消し去ってしまいたいことはたくさんあります。でも、パソコンでもあるまいし、クリックひとつで消去できるわけがありません。それが人間の性なのです。それならいっそ、それはそれとして真正面から受け止め、いまの自分というものを見つめることの大切さを大事にしたい。改めて思いました。
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