心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

カトレア

2008-05-25 09:49:54 | Weblog
 昨夜から早朝にかけて断続的に雨が降り続きました。梅雨の季節の前触れなのでしょうか。愛犬ゴンタが待ちに待った日曜日ですが、お散歩は手短なところで済ませて、今は静かな朝の時間を過ごしています。
 そうそう、先日から気になっていた、庭の木の枝に吊るしたカトレア「ラベンダー」が開花しました。雨に濡れた大きな花びらが輝いて見えました。さっそくデジカメを取り出して撮影しました。このカトレア、春の洋ラン展で購入した株です。種類の異なるもう一株も、半月後には開花しそうな感じです。今年から樹木の枝に吊るしたためでしょうか、葉陰と陽光が交互に訪れる環境が良かったようです。例年になく元気な姿を見せています。そんなわけで、今日は久しぶりにアンジェラ・ゲオルギューの歌うオペラ・アリア集を聴きながらのブログ更新です。
 といっても、今日はあんまりのんびりもしていられません。午後には、明日の仕事に備えて広島に出発です。支社の周年行事のためです。昨日は昨日で、わたしにとって思い入れの深い仕事のお披露目がありました。2年前に手掛けて、その後職場を異動になりましたから、後半は側面支援の役回りになりましたが、それでも時代の転換点を思うに十分な手ごたえがありました。
 最近、社会の在り様が悲観的、自信喪失気味なのが気になります。マスコミも政治の世界も、他責化の主張を連発するのみ。みょうな正義感が一人歩きしています。私たち庶民は、そんな不確実な時代環境のなかを右往左往しながら生きています。でも、視点を変えて1週間先、半年先、1年先、数年先、あるいは10年先、25年先とレンジを広げていくと、決して悲観的なものではないことに気づきます。「動いている」ことを実感できます。目の前の悩ましい出来事が、実は大きな流れのなかの小さな淀みにしか過ぎない。そう思うと、なんとなく心穏やかになります。
 雨上がりの我が家の庭の片隅に、大きなカトレアの花が際立って見えます。頑張っています。それは春先の芽立ちの季節と同じく生命感を漂わせています。凛として自らの姿勢を示そうという花心を感じます。そんな花の姿に考えさせられることが多いのです。
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お気楽な演繹的人間

2008-05-18 12:41:07 | 愛犬ゴンタ

 清々しい快晴の朝、きょうは5時過ぎには目が覚めました。でも、ラジオのスイッチを入れると、また布団のなかに潜り込んでしまいました。そんな気楽な休日の朝が、私は大好きです。これで人生終わっても良い、などと真剣に思ってしまいますから、なんともお気楽な人間なのでしょうよ。きっと。
 きょうは、愛犬ゴンタの予防接種でした。近くの動物病院からお知らせをいただいていたのですが、ずるずると1カ月が経ってしまいました。午前10時開院をめざして一番乗りと思ったのですが、すでに玄関口には老若男女のワン君、ネコ君、小鳥さんがお待ちでありました。6種混合ワクチンと狂犬病予防注射、同時に打つのは良くないのだそうですが、飼い主の責任ということで一緒に注射をしていただきました。写真は、診察台のうえで不安そうに注射を待つゴンタです。ついでにフィラリアのお薬もいただいて、しめて2万円。我が家で一番医療費が高くつくゴンタ君でありました。
 ところで話は変わりますが、朝日新聞の経済面の片隅に「経済気象台」という欄があります。たかだか600字程度の記事ですが、天声人語よりも肩の力を抜いた、おうようさが気にいっています。先週、目にとまったのは15日の「帰納と演繹」です。
 いわく、「20世紀の科学は、帰納法を中心に発展した」「問題を分析し解明する帰納的人間が社会的エリートとして幅を利かせてきた」。しかし、複雑極まりない現在の諸問題は、帰納的人間の手に負えなくなった。複雑系の科学と呼ばれる演繹的方法論が必要になった。「振り返ってみれば、歴史的な節目で世界の経済、政治を動かしてきたのは、帰納的な人間ではなく、大局的な決断ができる演繹的人間である」と。なるほど、と思いました。
 職場でも、さまざまな問題解決法や分析手法が話題になり、帰納的人材教育が盛んですが、それですべてがうまくいっているのかといえば、必ずしもそうではない。専門化と高度化が進む時代状況をどう読み説くのか、その大局的な見通しや判断が求められているように思います。
 政治・経済・社会のあらゆる分野で、ものごとが行き詰まりをみせています。ある特徴的な動きをキャッチすると、マスコミを含めて何もかも、あたかもそれが救世主のように、それに靡いていく社会現象。何かおかしい。左脳ばかりに頼らず、ときどき感性脳、イメージ脳といわれる「右脳」を使ってみるのも手かもしれません。私が、LPレコードの世界に浸ったり、小林秀雄や南方熊楠、柳田國男などの世界を戯れるのも、ひょっとしたら無意識のうちに右脳が求めているのかもしれません。そう考えると、やはり日曜日は大事にしたい。
 先週の日曜日、「南方熊楠百話」で中沢新一の「ヘリオガバルス論理学」を読んで、10数頁ほど文章でしたが、私にとっては異次元の世界のようで楽しく拝読した次第です。それに触発されて昨日は仕事帰りに、古本屋に立ち寄って同氏の「純粋な自然の贈与」を買いました。その本の一節「バルトークにかえれ」を、実はきょうの朝、ベッドのなかで読みました。読み終わって、またうとうと。......きょうは、バルトークのピアノ協奏曲をアルゲリッチの演奏で楽しみながらのブログ更新でありました。

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グレン・グールドと南方熊楠

2008-05-11 10:39:06 | 古本フェア

 ここ数日、急に寒くなってきました。大阪では3月下旬並みの気温です。季節はずれの寒波到来で、きょうの休日は部屋に閉じこもることになりそうです。でも、目の前の窓が、急に明るくなり、小鳥の囀りも聞こえてくるようになりましたから、徐々にお天気は持ち直すことでしょう。
 ところで、きのうは、午前中職場に立ち寄って書類の整理をすませると、ひと足早く退社して、ひさしぶりに日本橋界隈のLPレコード店を見て回りました。いつものDISC J.J.とサウンド・パックです。手にしたのは、グレン・グールド奏でる「平均律クラヴィーア曲集(第1巻)」「モーツァルト・ソナタ全集(Vol.4)」そして「ハイドンの後期6大ソナタ」です。
 実は連休中の5月6日から、NHKテレビ「知るを楽しむ:私のこだわり人物伝」で「グレン・グールド”鍵盤のエクスタシー”」が始まっています。第1回目は「伝説の誕生」で、話は1955年5月、ニューヨークのCBSスタジオで録音された歴史的名盤「ゴールドベルク変奏曲」の録音風景から始まりました。グールド22歳、私が5歳の頃のことです。SPレコードに代わって各社がLPレコードを競って出すようになったのが1950年代からですから、比較的早い時期のレコーディングになります。
 きのう手にした「ハイドンの後期6大ソナタ」は、同じCBSスタジオで1981年に録音されました。手許にある「ゴールドベルク変奏曲」も同じ年の再録音盤です。そしてグールドは、翌年の1982年の秋、50歳の若さでこの世を去りました。つまり、この2枚のレコードは他界する1年前に録音されたものであることが判りました。
 グールドのレコードは、学生時代からよく聴いています。なんとも不思議なピアニストであるために、深くは考えないけれども、おおいに気になる存在でした。それがテレビでは、当時の映像を交えながら概観できる。こんなに楽しい番組はありません。低い椅子に座って全身をゆすぶりながらの演奏、レコードを聴いていると時々鼻歌まで聞こえてくる自由奔放さ、そして独特の楽譜解釈。ところが、どういうわけかある時期を境に演奏会活動を完全に止めてレコーディングに専念する。そのあたりの考え方も知りたい。わたしの興味は尽きません。
 少し長くなりますが、週末の気軽さで、きのうは日本橋からの帰り道、古本屋さんにも立ち寄りました。手にしたのは「南方熊楠百話」(八坂書房)。定価の半額でした。南方熊楠日記全4巻もありましたが、これは当分お預けです。百話は、没50周年を記念して1991年に出版されたもので、鶴見和子、柳田國男、孫文、土宜法竜、徳富蘇峰、中沢新一など100人の方々の論評が収録されています。相当部厚い本ですが、気の向くままに気になる方のページをめくる。読書にはそんな楽しみもあります。今朝、何気なく新聞に目を通していたら、第18回南方熊楠賞が文化人類学者の伊藤幹治氏(国立民族学博物館名誉教授)に授与されたことが報じられていました。
 考えてみれば南方も、これまた不思議な人物なのです。私のような単純な人間は、グールドや南方など、世間からは変人と言われるような人物に強い関心を抱きます。先ほどからなぜだろうと考えていたら、逆に「変人とは何か」という問いが浮かんできました。南方は江戸の末期の生まれ、しかし20代の若さで欧米を歩き、南方曼荼羅に象徴されるような独自の世界観を築いた。グールドは従来の楽譜解釈から一歩踏み出し独自の境地にたつ。世間が常識と思っていることを覆すエネルギー。これは変人ではありませんね。そんなあたりに惹かれるのかもしれません。暇を見つけては当分こだわっていく人物になりそうです。
 きょうは、グールド奏でる「ゴールドベルク変奏曲(J.S.バッハ)」を部屋中に充満させながらのブログ更新でありました。

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心の整理

2008-05-06 18:32:48 | Weblog
 次男君を再びビジネスの世界に送り込んで、連休最終日の今日は、ひっそりとした1日でした。伸び放題の庭草を片づけながら、今年は洋ランの鉢を針金で樹の枝に吊るしたり、トマトやナス、ピーマンの苗の世話をしたりして、愛犬ゴンタと一緒に土と戯れました。農家に生まれたわけでもないのですが、やたら土が恋しくて、雑草といわれる草のひとつひとつを愛でながら、ゆったりとした1日を過ごしました。
 そんな作業をしていると、都会地でありながら、いく種類もの小鳥の囀りを楽しむことができます。贅沢な時間です。姿が見えないので、どんな小鳥なのか判りません。でも、昼下がりに、私の目の前の庭の木には、10羽ほどの小鳥がやってきました。1㍍ほど先のところの枝にとまって私を見ています。人慣れしているのでしょうか。この春に巣立った小鳥もいるのでしょうか。初めてのご対面です。1、2分ほど枝の上を飛び回っていましたが、そのうち、皆でどこかに行ってしまいました。
 夕方までには作業を終えて、夕食前のひとときを部屋で過ごします。やはり、仕事復帰の体勢に入りつつあるのでしょう。久しぶりにビル・エバンスのジャズピアノを鳴らしながら、書類の整理です。
 連休中に何冊かの本に目を通しました。そのなかに「自分らしさ」を問うマネジメント関係の本がありました。いくつかの問いかけがあって、それを自身に当てはめて考えてみるのです。「これまでの人生を振り返って、自分が最も影響を受けたのは、どのような人物、あるいはどのような経験か」「自分の生活態度は一貫しているか。生活のあらゆる場面、たとえば職場、職場以外、家族の前、コミュニティーのなかで、いつも同じ人間でいられるか。そうでないとすれば、何が障害となっているのか」....。
 サラリーマンにとって、休日は、非日常の世界のようにも思えます。しかし、そこに一貫性を求める。そんな時空間のなかで、自分自身を見つめなおしてみる。すると、日常の世界とは違った感覚にきづく。その感覚は、極めて幼稚であるとともに、極めて原始的であり、人間の原点に突き当たる。.....と、そんなことを考えていると、職場の上司から電話が入りました。
 さあ、ゆったりとした時間も、これで当分お預けです。迷うことなく前を向いて全力疾走するのみ。あぁ、なんだか、子供の頃の、長い休みの最終日のような気分です。宿題がないだけましです。といっても「心の整理」という宿題はありました。確実にこなしました。(^^♪
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人の心を繋ぐもの

2008-05-04 22:02:03 | Weblog
 つい1カ月ほど前までは、時間が止まったように見えた樹木が、いま、青々とした柔らかな葉っぱを広げ、おてんとうさまの光を浴びて生き生きとしています。そんな樹木の下を、愛犬ゴンタと二人でゴールデンウィークのお散歩を楽しんでいます。
 この連休には、横浜から次男君がご帰還とあって、長女夫妻も孫を連れてやってきました。久しぶりに賑やかな我が家です。孫も6カ月を過ぎ、寝返りもなんなくこなし、あとちょっとで「お座り」ができるまでに成長しました。お祖父さんを見て二コリを笑みを浮かべてくれると何とも可愛くて、このところ優しいお祖父さんぶりを発揮しております。(^^♪
 明日は「子供の日」ですが、考えてみると、私自身は、父親と一緒に遊んだ思い出が、そう多くありません。ずいぶん歳をとってからの子供でしたし、父親自身が企業戦士の真っただ中にあって家族を省みる年齢でもなかった、とは後日談ですが、明治生まれの人ですから、ある意味仕方ないと割り切ってきました。
 それでも、5月の連休には田舎に1週間ほど帰ってきました。その間は、山の樹木の成長ぶりを確かめるために森林組合の方を連れては「山歩き」をするのが、父の楽しみでもありました。それに愛犬ゴローと一緒に同行するのが、私の役目でした。ずいぶん山の奥まで入っては、村の方にいろいろ話を聞いていました。当時、あかげら(キツツキの一種)の被害が広がっていたこともあって、その話だけは子供ながら耳を欹てて聞いていた記憶があります。
 そんな山道を歩いているとき、父が道端に咲く濃紫のスミレの花を見つけて「こんなに色の濃いスミレは初めて見た」と、しばし座って眺めていた姿が、どういうわけか私の記憶のなかに鮮明に残っています。汗ばむほどの春の陽の下、ウグイスの谷渡りの鳴き声が木霊のように山並みに響き渡る。そんな光景を思い出します。その道端に座って、みんなでおむすびを食べたことも覚えています。小さな頃の思い出は、この歳になると断片的になってしまいますが、なぜか、この光景だけはよく覚えています。私の数少ない父親との思い出だからでしょうか。
 人間、家族、社会、共同体...。人の繋がりというものは、不思議なものです。それを繋ぐものとはなんでしょうか。生物学的にはDNA。でもそれだけじゃあない。欧米にならって契約説を唱えましょうか。いえいえ、精神論的な、価値観あるいは理念、いや、もっと現実的には宗教心?。こう考えていくと、限りなく理屈の世界に入ってしまう。とりあえずは、家族を起点にしておきましょう。
 でも、人間社会には、ときどき、これを壊す動きが浮上することがあります。理屈をつけては相手を攻撃する人が出てくる。でも、ちょっと待って。それってあなたに問題があるんじゃあないの、と思うことも何度かあります。人を貶めるだけの主張は、人間社会を壊します。こんな場面に出会うと、この歳になっても、大人の世界はどうも好きになれません。
 孫の透きとおった目をみていると、ほっとします。孫は、お祖父さんを見つけると、二コリと笑みを浮かべて両手を差し出してくる。だっこのおねだりです。そんな素直な意思表示を受けて、だっこをしないお祖父さんっていないですよね。ゴールデンウィークは、ときに普段の生活で忘れがちな「こころ」の大切さを気づかせてくれました。
 きょうは、昼間は皆でお出かけでしたので、この時間のブログ更新となりました。BGMは、久しぶりにセルゲイ・プロコフィエフの交響曲第1番二長調「古典交響曲」作品25を選びました。2台ピアノ編曲版で、マルタ・アルゲリッチと伊藤京子さんのデュオです。CDのタイトルには「こどもたちへ」とあります。
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