心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

橙色のコスモス

2011-09-23 10:02:13 | 四国遍路
 台風15号が去って快晴の空が眩しく感じられる休日の朝、少し肌寒ささえ感じます。本来の意味は別にして、「初秋」という言葉が似合う季節を迎えました。こんな爽やかな朝は、モーツアルトのピアノソナタを、グレン・グールドの演奏で聴くことにいたしましょう。 
 きょう9月23日は国民の祝日「秋分の日」です。広辞苑によれば、秋の彼岸の中日、昼夜の長さがほぼ等しくなる秋分にあたり、祖先をうやまい、亡くなった人々を偲ぶ日なのだそうです。改めて、言葉の意味を思いました。そんな季節、わたしは父の25回忌のため、土・日、田舎にとんぼ返りです。長崎に学んだ父は枇杷が大好物でした。その枇杷の実が、ずいぶんな年数を経て、我が家の庭で今年初めて実をつけました。

 もう10年ほど前でしょうか、8月も末の頃、奥出雲の山の中に佇む1軒の温泉宿に泊まったとき、それは綺麗な橙色のコスモスを見つけました。澄んだ空気の中で育ったからでしょう、濃い橙色の花がいちだんと映えて見えました。それと同じ品種のコスモスが、毎朝通るバス停付近で、いま満開です。かつて老夫妻が手塩にかけて育てたものです。今は、手をかける者もいないのに、橙色のコスモスは、毎年私たちの心を和ませてくれます。
 前回帰省したのは2年前でした。今回も、どうしても寄り道したいところがあります。その温泉宿です。人工的な音から解放され、小鳥の囀りと葉の擦れ合う音以外、何も聞こえない真空のような空間が嬉しいのです。帰省の折には必ず1泊します。すべすべと肌にまとわりつくアルカリ性単純泉で、掛け流し。気に入っています。お姉さま方からは実家で泊まるように何度かお誘いを受けますが、末っ子の気楽さで別行動です。
 と言うよりも、この歳になると、なぜか実家に泊まることが怖いのです。掃除が行き届いているとはいえ、40年前と同じ私の部屋を覗くと、古き良き時代を思い出して、立っていられなくなるような、そんな不思議な思いがこみ上げてくるから。子供の頃、法事があると、全国に散らばる親戚の伯父さん叔母さん方がざわざわとやってきて、大広間では夜遅くまで宴が催されました。でも、一夜明けると何事もなかったかのように、騒々しさがさあっと引いていく。それと同じように、私も、法要のひと時を皆で過ごし、お墓参りが終わると、さあっと姿を消す。何事もなかったように。そして、言い訳のように、心の中で、父は(あるいは母は)私の心の中にある、なんて思いながら、日常の世界に舞い戻っていく。この幼稚さは、歳をとっても直りません。

 そんな私が、最近、新聞広告でときどき目を凝らしてみるものがあります。四国巡礼の旅。かの南方熊楠が、独り、熊野の山奥に籠って植物採取に励んだように、日常を拒否して、巡礼の旅に憧れる。そんな気持ちになることが、ときどきあります。でも、本当の自分ではないような気がするし、いや本当の自分であるような気もする。そんな不思議な年代になったよう。 
 
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クラシックとジャズ

2011-09-18 10:18:44 | Weblog
 昨夜の雨はどこへやら、きょうは秋晴れの日曜日となりました。といっても遠くには分厚い雲が陣取っていますから、この天気いつまで持つことやら。そんな初秋の街を愛犬ゴンタとお散歩をしていると、夏を惜しむかのように芙蓉の花がひっそりと咲いていました。
 さて、先週は、週の半ばに広島に移動して、2日目の夜は流川で開かれた呑み会に顔を出したあと、最終の新幹線でいったん帰阪、午前1時のご帰還でした。翌朝、いつも通りに出勤してトップとの打合せをすませると、夕刻再び広島に向かう、そんな1週間でした。

 夜、広島駅に着いて、少し中途半端な時間だったので食事をする店に困りましたが、トーマス・マンの「魔の山」下巻を買いにジュンク堂書店に立ち寄った帰り、出雲蕎麦のお店が目にとまりました。11階にあるこのお店、奥出雲そば処「一福」さんです。遅めの時間だったので、お客もまばら。雨の夜景をながめながら、「天婦羅割子蕎麦」(1450円)を美味しくいただきました。地酒「簸上正宗」の熱燗もいただいて、ほろ酔い気分で夜な夜な雨の広島の街を宿舎に向かいました。

 そんな週末、所用を済ませると、駅前の中古レコード店「GROOVIN(グルーヴィン)レコードステーション店」さんに立ち寄りました。車で移動する際に発見し、何度か位置確認をしていたお店です。ざっと見て、9割はジャズとハード系でクラシックは1割程度ですが、LPを丁寧に扱っているお店のよう。新幹線出発時刻ぎりぎりまで品定めをしていました。で、きのう手にしたLPは、ジャズ2枚、ビル・エヴァンス・トリオの「EXPLORATIONS」とヘレン・メリルの出世作ともいえる「HELEN MERRILL」。

 エヴァンスもメリルも、広島の宿舎にはCDを持ち込んでいますが、グレン・グールドのピアノを聴いていると、ある瞬間に無性に聴きたくなることがあります。脳味噌を解きほぐしてくれます。エヴァンスのLPの説明書には「彼の音楽を絵画に例えるなら、磨き抜かれ、研ぎ澄まされた感性のエッチングである」「自己に厳しい人間であり、あいまいさを非常に嫌っている」「レコーディングでも、表現に完璧を期している」とあります。グレン・グールドの音楽に対する姿勢に何かしら近いものがあります。クラシックとジャズの関係って不思議ですね。でも、ひょっとしたら聴く側の問題なのかもしれませんが。

 余談ですが、つぎの土日は、父の25回忌のため田舎にとんぼ返りです。本来なら夏に行うところ、今年は法然上人800年祭の関係でこの時期になったよう。25年ということは、私が30代半ばに父は他界したことになります。母が20代半ばでしたから、考えてみたらずいぶん早く両親を亡くしました。
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機上の風景

2011-09-11 23:09:20 | Weblog
 長男君の第2子にご挨拶をするため、この土日連休を利用して上京してきました。一家とは1年半ぶりの再会でしたが、東京に転勤になって、盛岡に出張中にはあの大震災に遭遇し、また連日連夜の仕事に追われるなかで、第2子の誕生を迎えた様子でした。さぞ奥さんもたいへんだったことでしょう。今は、新しい生活にも慣れたようで、孫娘も私を近所の児童センターに誘い、楽しそうに遊んでいました。

 ところで、今回は格安航空券を使っての上京でしたが、機上から眺める景色はいつ見ても人の心を敬虔なものにします。地上から高く聳える山並みを眺めるのではなく、すでに機上から山並みと雲を見降ろし、なおかつ、青く輝く天空を遠くに眺めることになります。人は死んだら天に昇っていくと良く言われますが、そうであるならば、機上はまさに人を天に誘うもの?なんてことを思ってみても、この広大な宇宙のなかの、それはちっぽけな存在でしかないことを改めて実感する、そんな思いに耽ることになります。
 かのグレン・グールドは、飛行機が大嫌いだったようで、一度だけヨーロッパ、ロシアなどにでかけたことがあるようですが、その後は全く海外に足を伸ばしていません。あれだけ日本でも脚光を浴びたピアニストなのに、一度も来日したことはない。しかし晩年、夏目漱石の「草枕」をベッドの横に置いておくほどに読みこんだことは、よく知られています。
 かつてプロペラ機が全盛であった頃は、確かに、恐怖感のようなものがありました。グールドもそうだったのだと思います。でも、ジェット機に変わってから、機内が非常に安定して静かです。新幹線など比べようもありません。グールドが今に生きていたら、世界中を飛び回っていたのではないでしょうか。

 ともあれ、新しく生を受けた孫君が大人になった頃、この地球上はどのように変わっていることやら。いやいや、変えていくのは、まさに孫君たちの行動如何ということなのでしょう。その頃には、私は天空から人の営みを眺めているのでしょうよ。きっと。

【写真説明】
上段:機上の眺め。大阪伊丹空港を飛び立って15分ほど経った頃。
下段:孫君の小さな手の平に「おじいちゃんだよ」と指しだして握手。にこりと笑ってくれました。
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トーマス・マン再読

2011-09-04 09:28:48 | Weblog
台風12号が四国・中国・阪神地域を通過して行きました。ここ大阪も、昨夜はたくさんの雨が降りました。9月1日「防災の日」を過ぎて、日本をターゲットにするとは、おてんとうさまもなかなか強かな御方です。
 台風が近づいているというのに、おとといは京都の北区、それもずいぶん入ったあたりで開催された会合に出かけてきました。京都市地下鉄に乗って終着駅の国際会館前下車、横なぐりの雨を避けながら京都バスに乗って10数分、会場に着いた頃には足元はずぶ濡れでした。午後たっぷり4時間をかけて意見交換をしたあと、夕刻は烏丸四条の懇親会場に移動しました。最近、こんなパターンが続きますが、話は夜遅くまで尽きませんでした。

 ところで、先週日曜日の昼下がり、本棚をごそごそしていたら、トーマス・マン著「魔の山」(岩波文庫)がこぼれ落ちてきました。学生の頃に読んだ文庫です。今と違って昔の岩波文庫は、表紙が薄い油紙で覆われていたのですが、ずいぶんと年数を経て、本全体が黄ばんでいました。懐かしさのあまり、ぺらぺらとめくってみると、小説の内容よりも、これを読んだ当時のことの方がぼんやり浮かんできました。1巻目は下宿の布団のなか、2巻目は京都御所の芝生の上、3巻目は帰省した田舎の離れで、そして4巻目は鴨川べりのベンチに座って、......。
 懐かしいの一言です。しかし、久しぶりに読み返すと、どうも表現が込み入っていて読みづらいのです。ドイツ語の翻訳だからでしょうか。最近、この種の文体に読み慣れていないからでしょうか。別の書棚には、社会人になってから揃えた、トーマス・マン全集12巻(新潮社)が鎮座しています。600頁近い分厚い本を常時持ち歩くわけにもいかず、いずれすべてに目を通したいと思いながら、こんな歳になってしまいました。
 社会人38年を経て、マンの作品が今の私にどう映るのか。「ヴェニスに死す」「トーニオ・クレーゲル」など小品以外は、大作ばかり。そんな時間の余裕はありません。でも、でも、隙間時間を利用して、せめて「魔の山」は再読してみたい。そこで近所の書店で新潮文庫の「魔の山」を見つけました。文字の大きさは岩波よりも大きくて読みやすい。なによりも高橋義孝氏の訳に違和感がない。そんな次第で、私のトーマス・マン再読が始まりました。

 今回は、マンがプリンストン大学の学生たちに語った「自作について<『魔の山』入門>」(全集第3巻「魔の山」巻末)に目を通してからの再読となりました。マンの奥様が一時期過ごしたことのある、アルプスの一画にあるサナトリウムを舞台に物語は始まります。きのうの土曜休日は、台風の風音を聞きながら、読んではうたた寝する、うたた寝しては頁をめくる、時間をめいっぱい引き延ばしたような、そんな贅沢な時空間のなかで、私自身がハンス・カストルプになってしまったような気分で過ごしました。
 広辞苑で「時間」の意味を調べると、「時の流れの2点間(の長さ)。時の長さ」「空間と共に人間の認識の基礎を成すもの」とあり、「一般に出来事の継起する秩序で、過去から未来への不可逆的方向をもち、前後に無限に続き、一切がそのうちに在ると考えられ、空間とともに世界の基本的枠組を形作る」といい、また「近代になって時間は客観的規定と見られたが、カントは時間を空間と共に現象を構成する主観の直観形式と考えた」「ベルクソンは意識の直接的な流れとしての純粋持続を、ハイデガーは「現存在」の存在構造としての時間性を、時間の根源と見ている」とあります。私のような凡人には理解しがたい内容ですが、この「魔の山」、人を介して時間と現実世界が通底している、そんな印象があります。
 
 さて、来週の土日は、1泊2日の日程で長男君宅に出かけ、第2子にご対面の予定です。家内がせっせとネットで何かをチェックしていると思っていたら、格安旅行券の手配でした。大阪・東京往復の航空券とホテル代込みで、2人で5万円強?探せばあるものですねえ。リタイアしたら、こんな楽しみも増えるのかも。そんな次第で次回のブログ更新は不定です。
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