台風15号が去って快晴の空が眩しく感じられる休日の朝、少し肌寒ささえ感じます。本来の意味は別にして、「初秋」という言葉が似合う季節を迎えました。こんな爽やかな朝は、モーツアルトのピアノソナタを、グレン・グールドの演奏で聴くことにいたしましょう。
きょう9月23日は国民の祝日「秋分の日」です。広辞苑によれば、秋の彼岸の中日、昼夜の長さがほぼ等しくなる秋分にあたり、祖先をうやまい、亡くなった人々を偲ぶ日なのだそうです。改めて、言葉の意味を思いました。そんな季節、わたしは父の25回忌のため、土・日、田舎にとんぼ返りです。長崎に学んだ父は枇杷が大好物でした。その枇杷の実が、ずいぶんな年数を経て、我が家の庭で今年初めて実をつけました。
もう10年ほど前でしょうか、8月も末の頃、奥出雲の山の中に佇む1軒の温泉宿に泊まったとき、それは綺麗な橙色のコスモスを見つけました。澄んだ空気の中で育ったからでしょう、濃い橙色の花がいちだんと映えて見えました。それと同じ品種のコスモスが、毎朝通るバス停付近で、いま満開です。かつて老夫妻が手塩にかけて育てたものです。今は、手をかける者もいないのに、橙色のコスモスは、毎年私たちの心を和ませてくれます。
前回帰省したのは2年前でした。今回も、どうしても寄り道したいところがあります。その温泉宿です。人工的な音から解放され、小鳥の囀りと葉の擦れ合う音以外、何も聞こえない真空のような空間が嬉しいのです。帰省の折には必ず1泊します。すべすべと肌にまとわりつくアルカリ性単純泉で、掛け流し。気に入っています。お姉さま方からは実家で泊まるように何度かお誘いを受けますが、末っ子の気楽さで別行動です。
と言うよりも、この歳になると、なぜか実家に泊まることが怖いのです。掃除が行き届いているとはいえ、40年前と同じ私の部屋を覗くと、古き良き時代を思い出して、立っていられなくなるような、そんな不思議な思いがこみ上げてくるから。子供の頃、法事があると、全国に散らばる親戚の伯父さん叔母さん方がざわざわとやってきて、大広間では夜遅くまで宴が催されました。でも、一夜明けると何事もなかったかのように、騒々しさがさあっと引いていく。それと同じように、私も、法要のひと時を皆で過ごし、お墓参りが終わると、さあっと姿を消す。何事もなかったように。そして、言い訳のように、心の中で、父は(あるいは母は)私の心の中にある、なんて思いながら、日常の世界に舞い戻っていく。この幼稚さは、歳をとっても直りません。
そんな私が、最近、新聞広告でときどき目を凝らしてみるものがあります。四国巡礼の旅。かの南方熊楠が、独り、熊野の山奥に籠って植物採取に励んだように、日常を拒否して、巡礼の旅に憧れる。そんな気持ちになることが、ときどきあります。でも、本当の自分ではないような気がするし、いや本当の自分であるような気もする。そんな不思議な年代になったよう。
きょう9月23日は国民の祝日「秋分の日」です。広辞苑によれば、秋の彼岸の中日、昼夜の長さがほぼ等しくなる秋分にあたり、祖先をうやまい、亡くなった人々を偲ぶ日なのだそうです。改めて、言葉の意味を思いました。そんな季節、わたしは父の25回忌のため、土・日、田舎にとんぼ返りです。長崎に学んだ父は枇杷が大好物でした。その枇杷の実が、ずいぶんな年数を経て、我が家の庭で今年初めて実をつけました。
もう10年ほど前でしょうか、8月も末の頃、奥出雲の山の中に佇む1軒の温泉宿に泊まったとき、それは綺麗な橙色のコスモスを見つけました。澄んだ空気の中で育ったからでしょう、濃い橙色の花がいちだんと映えて見えました。それと同じ品種のコスモスが、毎朝通るバス停付近で、いま満開です。かつて老夫妻が手塩にかけて育てたものです。今は、手をかける者もいないのに、橙色のコスモスは、毎年私たちの心を和ませてくれます。
前回帰省したのは2年前でした。今回も、どうしても寄り道したいところがあります。その温泉宿です。人工的な音から解放され、小鳥の囀りと葉の擦れ合う音以外、何も聞こえない真空のような空間が嬉しいのです。帰省の折には必ず1泊します。すべすべと肌にまとわりつくアルカリ性単純泉で、掛け流し。気に入っています。お姉さま方からは実家で泊まるように何度かお誘いを受けますが、末っ子の気楽さで別行動です。
と言うよりも、この歳になると、なぜか実家に泊まることが怖いのです。掃除が行き届いているとはいえ、40年前と同じ私の部屋を覗くと、古き良き時代を思い出して、立っていられなくなるような、そんな不思議な思いがこみ上げてくるから。子供の頃、法事があると、全国に散らばる親戚の伯父さん叔母さん方がざわざわとやってきて、大広間では夜遅くまで宴が催されました。でも、一夜明けると何事もなかったかのように、騒々しさがさあっと引いていく。それと同じように、私も、法要のひと時を皆で過ごし、お墓参りが終わると、さあっと姿を消す。何事もなかったように。そして、言い訳のように、心の中で、父は(あるいは母は)私の心の中にある、なんて思いながら、日常の世界に舞い戻っていく。この幼稚さは、歳をとっても直りません。
そんな私が、最近、新聞広告でときどき目を凝らしてみるものがあります。四国巡礼の旅。かの南方熊楠が、独り、熊野の山奥に籠って植物採取に励んだように、日常を拒否して、巡礼の旅に憧れる。そんな気持ちになることが、ときどきあります。でも、本当の自分ではないような気がするし、いや本当の自分であるような気もする。そんな不思議な年代になったよう。