心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

寄る年波と夏の風景

2008-06-29 09:27:18 | Weblog
 昨夜から断続的に雨が降り続いています。この時間になって、やっと小休止ですが、天気予報ではまだまだ雨マークがとれません。そんなどんよりとした空を眺めながら、ブログの更新です。きょうも、グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲を聴きながら綴っています。
 さて、昨日は、職場のボート競技に参加しました。ナックルフォア艇(コックスと4人の漕ぎ手)に乗って大川縁の500メールを競うお遊びです。大川の真ん中に浮かぶと、小さな舟艇はまさにオフィーリア状態です。悠々として流れる川面から普段とは異なる風景を眺めることができました。久しぶりに全身を使ったためか、きょうは目覚めとともに足腰に筋肉痛が走ります。寄る年波には勝てないということでしょうか。それでも、競技後の冷たいビールのおいしかったこと。人間、やはり身体を動かさなくてはならないということです。
 寄る年波といえば、私が愛用していた扇風機が、とうとうダウンしてしまいました。何を隠そう、私が社会人になった年に買った旧型です。数年前、発火する危険性がある扇風機と公表された同じ型です。ともかく35年間おつきあいをしてきたものですから、手放し辛く細心の注意を払いながら使い続けてきました。しかし、今年初めて30度を超えた日、何気なくスイッチをつけたところ、押黙ったまま。いろいろチェックしましたが、原因不明。やはり寄る年波には勝てないということなんでしょう。
 暑い夏を大阪で暮らしながら、クーラーをつけて眠るのが嫌いです。いつも部屋の窓を全開にして、扇風機を回して寝るのが私の夏バテ防止法です。夜の深まりとともに、枕元の網戸越しに涼しい風が入ってくるまでの間、足元の扇風機はそよ風を送り続けてくれます。夏の朝、小鳥たちの囀りに目を覚ます、そんな寝起きの良い朝は、1日中、快適に過ごすことができます。
 そんなわけで、扇風機を新調しました。最近のものは、さまざまな機能がついているのですが、とにかくシンプルなのが一番です。先代の扇風機とは35年のお付き合いになりました。同じほどの寿命を考えると、今度は私の方が先に逝くことになりそうです。でも、それまでの間は、良い関係を保ちたいと思います。さっそく使おうかと思ったのですが、このところ雨のためか涼しい日が続いています。 
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夏目漱石とグレン・グールド

2008-06-22 09:44:26 | Weblog
 先週の日曜日は「ルノワール+ルノワール」展を観た後、久しぶりに平安神宮をお参りしました。ついでに、これもずいぶん久しぶりですが、神苑内を散歩しました。南神苑から入り、花菖蒲が美しい西神苑を歩いて、そのあと今にも開花しそうな蓮の群生を眺めながら東神苑に入ると、いかにも京都らしい庭園風景が広がります。少し歩きつかれたので、栖鳳池にある泰平閣(橋殿)でひと休み。そこで、気になっていた「草枕」の最後の数頁を読み終えました。
 最後の場面になって、...「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と那美さんが注文する」...。この小説の底流に流れる謎めいた那美さんの存在が、ぐっと迫ってきます。そして、...「それだ、それだ、それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声で云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。...これが草枕の最終章です。
 妙な余韻を感じながら、通り過ぎる外人さんたちの姿を追っていると、急に目の前を舞妓さんが通り越して、向いの席に腰かけました。付人らしき方が熱心に写真を撮影していらっしゃる。私も、とっさにカメラをかまえました。写り具合を確認していると、なぜか時代を越えた風景に思え、そのうちに舞妓さんの姿が那美さんの姿と重なって見えてきました。掲載した写真がそれです。白黒に補正をしたら余計な色が消え良い雰囲気に仕上がりました。
 草枕を読み終えた数日後、私は「”草枕”変奏曲~夏目漱石とグレン・グールド」(横田庄一郎著)という本を注文しました。昨日届きました。表紙をめくって、口絵を開くと、なんと先週紹介したミレイの「オフィーリア」の絵が載っていました。短編30章の中にはオフィーリアに関するものが3篇ありました。草枕、漱石、グールド。この三者のなかで、オフィーリアがひとつの共通項として在る。オフィーリアを介して音楽と文学の世界が在る。そんな思いを強くしました。
 湿っぽい空気が漂っています。私の机には、ルノワール作「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」の小さな陶板が飾ってあります。雨音を感じながら、きょうはグレン・グールドのLPレコードから、エリザベート・シュワルツコップと唯一の共演となったR.シュトラウス「オフィーリアの3つの歌作品67」を取り出しました。それを聴きながらのブログ更新となりました。グールド、草枕、漱石。そしてオフィーリア。不思議な出会いです。湿っぽい梅雨の季節に、なぜか似合うテーマでした。来週の土曜日は、老体に鞭打って職場のボート競技に出場します。大川にわが身を浮かべる思いで汗をかくことにいたしましょう。
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「草枕」とオフィーリア

2008-06-15 09:29:17 | Weblog
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」。ご存知の「草枕」の書出しです。漢文の知識に乏しい私は、これまで何回か手にとりながら数頁ほど読み進んでは閉じてきました。しかし、グレン・グールドが愛読したことを知ると読まない訳にはいきません。
 まだ30頁ほど残っていますが、オフィーリアの名前が数か所に登場するので気になっていたところ、新聞の折込にミレイの「オフィーリア」が大きく印刷されていたので、じっと眺め考えていました。これまで何度か見かけたことのあるこの絵。きんぽうげ、いらくさ、ひな菊、紫蘭の花などを編み合わせた花環を手にした中世の美しい女性が、小川の流れに身を委ねて流れゆく姿。美しいけれども、なぜか悲しい風景です。昨年、涼を求めて滋賀県米原市の醒ヶ井に水中花(梅花藻)を見に行ったことがありますが、その美しさにも似ています。
 オフィーリアは、元はと言えば、シェイクスピアの「ハムレット」に登場する悲劇の女性です。ハムレットに父を殺され心を痛めた彼女が、ある日、花環を枝垂れ柳の木に掛けようとして、誤って小川に落ちてしまった。「祈りの歌を口ずさんでいたという、死の迫るのも知らぬげに、水に生い水になずんだ生物さながら。ああ、それもつかの間、ふくらんだすそはたちまち水を吸い、美しい歌声をもぎとるように...」(新潮文庫「ハムレット」)。
 ところが、草枕では、少し興ざめします。画家の主人公が「透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わしてみた。ふわり、ふわりと魂がくらげの様に浮いている」というくだりに続いて登場しますから、オフィーリアには少し可哀そうな気がしなくもありません。でも、よくよく考えてみると、人間って突っ張って生きていると、時々、全身の力を抜いて、母なる自然に身を任せてしまいたい。そんな気持ちになるのも事実です。私なんぞは、人生の最後は穏やかな心で迎えたいと、真剣に考えているのですから。それはともかく、とりあえず草枕を通読し、改めてグレン・グールドの心象風景に迫ってみたいと思っています。
 珍しく絵画の話題になってしまいました。実は、きょうの日曜日は、これから奥様とご一緒に京都国立近代美術館にお出かけなのです。印象派の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールと、その次男でフランスを代表する映画監督ジャン・ルノワールをテーマにした「ルノワール+ルノワール」展のご鑑賞であります。どうも最近、いらいらが募るので無意識のうちに非日常の世界へ入り込んで行っているようにも思います。そんな自分にふと気づいて笑いが込み上げてきますから、まぁ、結構強かには生きているのでしょう。力んでみてもしようがありませんから。激動の時代、小川の流れに身を委ねる時間が、ひょっとしたら必要なんだと思います。きっと。
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温故知新

2008-06-08 10:20:52 | Weblog
 きょうは雨の日曜日と覚悟していましたが、なんとかお天気が持ちそうな、そんな明るい朝を迎えています。足元に雫の残る下草を感じながら、愛犬ゴンタと朝のお散歩ができました。 
 愛犬ゴンタといえば、このところの雨で身体が鈍っているだろうからと、昨夜も遅くにお散歩にでかけました。夜の街を30分ばかりうろうろしていましたが、公園の横にさしかかったところで、目の前の路面に、細長い人間と犬の影が動くのに気づきました。なんということはありません。街灯に照らされた、わたしとゴンタの影が闇夜に浮かび上がったということです。ゴンタがわたしの傍に近づいたり離れたり。嬉しそうなゴンタの動作を、影絵で楽しみました。
 そのとき、ふと浮かんだのが、プラトンの国家論だったかに登場する洞窟のメタファーのお話でした。洞窟の中に囚われ人が、壁に映し出される幻影を現実世界と信じ込んでいる。あることをきっかけに、一人の囚人が洞窟の外の眩しい世界を目の当たりにして驚く。それを洞窟内の仲間に伝えるが、信じてもらえない。何かそんなお話であったように記憶しています。要は何をもって事実を認識するのかということであったかと思います。
 でも、そんな難しいことは別にして、影絵は、幻想世界にわたしたちを誘ってくれます。現実の汚れきった世界を闇で覆い、オールカラーの自然色を廃し、真実のみを墨絵のように浮き上がらせます。いや、それを真実と思い込みたいという思いを募らせます。何やら不思議な感覚に囚われた夜のお散歩ではありました。
 土曜休日のきのうは、例のごとく午前中で仕事を切り上げ、街中を散策しました。といっても出かける先は決まっています。お気楽なLPレコード探しです。新規開拓店を含めて5軒ほどを見て回りました。グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲の1955年録音盤(モノラル)を探すのが目的でした。そのモノラル版をステレオに録音しなおしたLPは手元にあるのですが、原盤を探すのです。で、あるにはあったのですが、庶民が手を出せるお値段ではなかったので、感触だけを確かめておきました。結局、そのLPをモノラルのままCDに録音したものを手にして帰りました。LPの方は、ヘンデルのオラトリオ「サムソン」8枚組。1978年の録音です。往時の定価8千円を2千円で売っていました。
 でも、お馬鹿さんですね。オーディオ機器の進化が目覚ましいなかで、ひとつの時代を終えたメディアを追いかけるなんて。LPといい、古本といい、何か後ろ向き人生のような気がしますね。ところがどっこい。古きをたずねて新しきを知る。たかだか50年、100年足らずの時代の変遷に人間が右往左往することはない。その底流に一貫して流れる「清き心」を感じたい。などと殊勝なことを考える、考えることができるほどに心安らかな休日の朝を過ごしています。
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NHK「知るを楽しむ」

2008-06-01 09:51:14 | Weblog
 気の赴くままに振舞う人間にとって週1回の休息日は貴重です。日曜日が潰れると2週目の後半は、頭がかちかちになって、思考力が低下し、次第に前のめりになっていく自分に気づきます。少し危険だなぁと思いながら、なんとか週末を迎えました。昨日今日は久しぶりの連休です。ふいに孫もやってきて、お祖父さんに愛想をふりまいてくれました。
 ところで、先週の日曜日は、午後から広島に出かけました。4時過ぎには宿所に到着したのですが、その日の仕事は夜8時30分からのホテルとの打ち合わせのみ。というわけで、市電を横目にJR広島駅界隈から平和公園をめざして徒歩で市内散策を楽しみました。
 八丁堀界隈から横道に入って、少し賑やかな商店街を歩きました。日曜日とあって、家族づれやら若者たちが街にあふれていました。喫茶店で休憩したあと、歩き出したところで、なんと古本屋さんを発見しました。ビルの1、2階を占めるしっかりしたお店でした。店主との雑談を含めて1時間はいたでしょうか。「南方熊楠の森」「柳田國男アルバム」の2冊をもって店を出ました。どうも最近、職場がごたごたしていて、無意識のなかで自分の足元を見つめる衝動にかられているようです。
 足元といえば、以前ご紹介したNHK教育テレビ番組「知るを楽しむ/グレン・グールド」が、先週27日に4回のシリーズを終了しました。これまで何気なく、しかしある種の拘りをもって聴いてきたグルードの、人となりを概観できました。なによりも、理屈だけでなく生前の映像を通して知ることができたのは幸いでした。楽譜を記号として構造化して見つめていく姿勢を貫くなかで独自の音楽観を創り出したグールドの姿が印象的でした。その、孤高の天才ピアニストと言われるグールドが、夏目漱石の「草枕」を愛読していたことも意外でした。ラジオ番組で自ら朗読したという当時の録音も聞くことができました。草枕の何が彼を惹きつけたのか。英語の題名は「三角の世界」だそうです。気になります。いずれ追ってみたいと思います。
 そうそう、NHK「知るを楽しむ」は、今週から8回シリーズで「オペラ偏愛主義」が始まります。しっかり録画しておこうと思います。その水先案内人である島田雅彦氏はテキストの序言で語っています。「壮大な夢、革命運動の揺り籠、古代への憧憬、日常からの逃避、おのが本能に目覚めるための神聖な儀式、そんなオペラの世界にひとたび誘惑されたら、もう帰ってこられなくなる」と。う~ん.....、納得です。
 きょうはバッハの「ゴールドベルク変奏曲」をグールドの演奏(1981年録音)で楽しみながらのブログ更新でした。檸檬の木にぶら下げている洋ラン「レリア・ロバタ」が意外と早く開花しましたので、その写真も添えることにしました。
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