心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

感動の握手

2009-09-27 10:02:20 | Weblog
 秋彼岸の候とは言え、日中は30度を超える暑さに戸惑いますが、それでも「秋」は着実に深まりつつあって、朝夕めっきり涼しくなりました。これからの数カ月、愛犬ゴンタ共々に過ごしやすい季節を迎えます。
 日曜日だというのに、少しお仕事の話になりますが、先週末、私は大阪地方裁判所というところに出かけました。ある事件の2回目の審理があったからですが、裁判所というのはいつ出かけても、居心地の良い所ではありません。民事部のフロアーには、法の判断を仰ごうと様々な人々が集まっています。この世知辛い世の中、いったん拗れた人間関係は容易に修復することができず、長く会社務めをしていると、こういう場所に何度かおじゃますることになります。広報関係の仕事をしていた頃には、裁判所内の記者クラブで記者会見をしたこともありました。
 でもねぇ。法律論争を横で聴いていると、人の「心」が見えなくなっていけません。その意味で、法律や判例に縛られない普通の人がごく普通の判断を下せる裁判員制度には期待するところ大なのです。幸い、これまでのところ完全敗訴は皆無に等しく、今回もなんとか思い通りに事が進んでいることに安堵して職場に戻りました。
 ところで、その日の夕刻は、終業時刻と同時に職場を飛び出しました。行先はザ・シンフォニーホールです。以前ご紹介したように、この日は指揮者・西本智実さんのコンサートなのでした。演奏するのは英国ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団です。曲目は、昼間の心の疲れをほぐすにはちょうど良い、まずはモーツァルトの歌劇から「後宮からの逃走」序曲、おなじくモーツァルトのピアノ協奏曲 第20番ニ短調。これは若きピアニストであるフレディ・ケンプとの共演でした。
 ひと息ついて、いよいよ期待のマーラー「交響曲 第5番 嬰ハ短調」です。これには感激しました。西本さんの指揮で管弦楽団の持ち味がいかんなく発揮された名演でした。私にとっては、マーラーの新しい発見ともいえるもので、ワルターでもカラヤンでもバーンスタインでもマゼールでもショルティーでもメータでもない、西本マーラーを存分に楽しむことができました。当然、スタンディングオベージョンでありました。
 実は、そんな素晴らしい演奏のあと、私はある人を介して、演奏直後の西本さんにお会いする機会に恵まれました。ついさっきまで指揮台で凛々しくも指揮棒を振っておられた西本さんは、疲れを見せることもなく私たちを笑顔でお迎えいただきました。なんと握手まで。この歳になって恥ずかしながら、天にも昇る気分とはこのことです。あの大曲マーラーの第五を指揮されていたお姿とのギャップに、改めて西本さんの人間のおおいさを思ったものです。
 ともあれ、この日は、人の争いの場から音楽を楽しむ社交の場まで幅広い時空間を彷徨いながら、厳しさ、冷たさ、重々しさ、荒々しさ、情熱、優しさ、雄大さ、感動....様々な心が揺れ動いた私自身の存在を、マーラーの交響曲第5番の中に見い出した、そんな素晴らしい1日であったように思います。きょうは、その余韻を確かめるかのように、ブルーノ・ワルター指揮の「第5」を聴きながらのブログ更新となりました。暑かった夏も終わり、いよいよ10月を迎えます。
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夜のメリケンパーク

2009-09-23 16:56:38 | Weblog
 4日間のシルバーウィークもあっという間に過ぎて行きました。毎朝、愛犬ゴンタと散歩するのが日課になり、これがリタイア後の私の生活かと思うと、少し工夫が必要だろうことを思ったものです。それでも、散歩の合間に小さな秋を見つけて、何かほっとするような、そんな楽しい時間を過ごすこともできました。
 そうそう、昨日は職場の若い方の結婚式でした。場所は神戸・三宮、メリケン波止場の近くにあるホテルでした。お披露目の席で門出を祝うスピーチをしたあとは、美味しいワインをいただきながら、生い立ちを紹介するビデオを見たり、友人たちの楽しいスピーチなどに耳を傾けます。結婚式に出席していつも思うのは、誰にもそれぞれの生い立ちがあって、過去、現在、そして未来に繋がる道があるということ、そのなかで結婚というのは、やはり大きな節目であろうこと。それは、誰にも真似することのできない、その人の、その人しか経験できない人生であって、両親をはじめ周りの多くの人々との関係性のなかで成立していること、そんなことを、自分の人生と絡めて思ったものです。
 美味しい食事とお酒をいただいてホテルを出ると、すでに陽は落ち、ネオンサインが波止場を照らしていました。知人と少しメリケンパーク界隈を散策して帰途につきました。電車に乗れば三宮から15分足らずでポートランド、その先に神戸空港があります。仕事では何度か訪れたことがありますが、プライベートでは初めてでした。いやいや、この三宮界隈には、数年前に家内と神戸ルミナリエを見学にやってきたことがありました。

 ところで、連休最後の休日は、花壇や畑の整理に汗を流しました。暑い夏を過ごした「ひょうたん」も蔓や葉っぱが枯れたので、収穫(?)。といっても、この青い「ひょうたん」をどう処理したら、いわゆる「ひょうたん」になるのか。ことし面白半分で植えたので、どうも様子がわかりません。きょうは、インターネットを頼りに、蔓を切り取った部分に穴を開けました。次に、大きな器に水をはって「ひょうたん」を沈めて中身が腐るのを待つことにしました。と、まあ、ここまでの作業を完了しました。
 うまく行けば、中身を取り出したあと、乾燥させて表面にニスを塗るのだそうです。お隣から注文もあります。孫君も楽しみにしています。失敗するわけにも行かず、なんとも困ったものです。さあて、どうなることやら。(^^♪
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ローマ人の物語

2009-09-20 09:08:00 | Weblog
 昨日始まった連休をシルバーウィークと言うのだそうです。なにか聞き覚えのあるネーミングですが、11月初旬の祝日前後も、同じように呼んでいたと思います。でも、そういうことはどうでもよいこと。お休みが増えるのは心身ともにリフレッシュできるという意味で、歓迎すべきことなんでしょう。でも、9月の5連休が次に登場するのは6年後のようです。ということは、ひょっとしたらリタイアした後、私にとっては毎日がお休みの時代なのかもしれない、と思うと何か忙しなくなってきます。
 そんな休日の朝、愛犬ゴンタと近くの里山を散歩しました。まだ木々が色づくのは早いものの、秋早朝の空気を肌で感じると、今年は意外と早く紅葉が見られるかもしれないと思いました。爽やかな秋空とひんやりした森の息遣い。ドングリの実も充実度を増しています。秋といえば結婚式の季節。明後日は部下の結婚式でもあります。
 ところで、前回の更新の際、ひさしぶりにアンドレア・ボチェッリに触れました。昨日帰宅途中には、買いそびれていたCD「サンタ・ルチア~魅惑のイタリアン・ソング」を手にしました。掲載した写真は、そのCD。今朝、散歩の途中で分けていただいたハナミズキの赤い実と葉っぱを添えてみました。
 ここ数年、「イタリア」から少し遠ざかっていたのですが、急に思い立って、読みかけの塩野七生さんの文庫本「ローマ人の物語」27巻(すべての道はローマに通ず)を開きました。昨日、書店に寄ってみると、いつの間にか37巻まで出版されていました。
 「ローマ人の物語」に手が伸びたのは、ボチェッリだけによるものではありません。先日、東京に行って何か落ち着かない感覚に襲われたのも理由のひとつです。世の中が大きく変わろうとしている時の身の処し方。私は官僚でもなんでもありませんが、以前、似たような感覚に襲われたことがあります。それは、社内に政争が起きた時でした。その時期、私は、この「ローマ人の物語」を読んで、塩野さんの鋭い歴史観、時代を見通す視点に、おおいに勇気づけられたことがあります。ひょっとして、今の私はそういう気分なのかもしれません。
 「すべての道はローマに通ず」をぱらぱらめくっていると、社会資本としての、あるいはインフラストラクチャーとしての「道」というものが、ローマ人特有の時代精神に根付くものであることを知ります。10年前にイタリアを旅したとき、自分の足でアッピア街道を体感したことがあります。そして2年前には、中国は万里の長城を自分の足で登りました。このふたつの歴史的遺産を、塩野さんは、人の往来を断つ防御としての「長城」と、人の往来を促進するものとしての「街道」とを対比させながら、ローマ人特有のネットワーク思考、多様性に着目します。キリスト以前のローマは多神教でした。敗者を従属させるのではなくローマ市民として受け入れることで、あの巨大なローマ帝国は形成されていった。その多様性こそが1000年にわたるローマ帝国を支えたのです。
 そのことは、取りも直さず政権交代なった日本にも突き付けられた時代的テーマであろうと思います。私たち一人ひとりに突き付けられた課題でもあります。・・・・・・・・あぁ、あまり難しく考えるのはよしましょう。今日は久しぶりに孫君がやってくるようですから、そろそろ良きお祖父さんに変身しなければ・・・・・・・・・。
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自由の女神コンサート2000

2009-09-13 09:53:09 | Weblog
 昨日の土曜日は、何日ぶりの雨だったでしょうか。地面も街の木々も久しぶりにたっぷりと水分を吸収して、今日は街の風景がふだんとは違って見えました。そんな清々しさが何とも言えず、愛犬ゴンタと一緒に朝の散歩を楽しみました。
 ところで、先週の後半は1泊2日の日程で東京に出張していました。時間に少し余裕があったので、今回も目的地までは徒歩で向かいました。といっても電車ひと駅程度ですから15分もかからない場所です。歩きながらその街の息遣いを感じるにはちょうど良い距離でした。駅前の丸の内オアゾ5階で軽く昼食をとったあと、皇居方面に向かい、そこで右に折れます。途中、首都高速と交差する神田橋を通過、お茶の水方面に向かう途中に目的地はありました。神保町とも意外に近く、この界隈の位置関係が次第に判ってきました。
 高いのっぽのビルが乱立する東京のビジネス街を歩いていて、米国同時多発テロのことを思い出しました。あのビルが崩れていく場面は今でも頭の片隅に残っています。9月11日、あれから8年が経ちました。
 週末ひと息ついて、私は、アンドレア・ボチェッリのCD「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」を取り出しました。その付録DVD「ニューヨーク自由の女神コンサート2000」を久しぶりに見たいと思ったからです。この野外コンサートは、あの事件の1年前に、自由の女神像が立つリバティ島に近接したエリス島のリバティー州立公園で開かれたものです。ステージの背後には、あの破壊される前のニューヨーク貿易センタービルの雄姿が、夕闇せまるマンハッタン街に浮かんで見えます。
 そこでボチェッリは、「女心の歌」「見よ、恐ろしき炎を」「乾杯の歌」「ああ、麗しの乙女」「遥かなるサンタルチア」「帰れ、ソレントへ」「オ・ソレ・ミヨ」を次々と歌いあげます。誰が、あの悲惨なテロを想像したでしょう。
 エリス島は、かつてヨーロッパなどからアメリカへ移住を希望する移民のための管理局があったところです。みんながアメリカン・ドリームを求めてやってきた、そんな歴史のある島の目の前で、センタービルは崩壊していきました。イデオロギーの違いは理解するとしても、その手段の残忍さ、人の心を踏みにじる行為、いつの世であっても許されるものではありません。
 今回の出張目的は、経済団体関係のお勉強会でした。「ワーク・ライフ・バランス」「クオリティー・オブ・ライフ」、要するにワークとライフの質を問うのがテーマでした。政権交代は、政治思想は別にしても、私たちに新しい価値の創造と変化を求めています。これまで判っていても手をつけられなかった問題、日本人の労働観であったり、人間観であったり、あるいは歴史観であったり。 それらを一人ひとりがそれぞれの立場から問い直すこと。それには、よい機会なのかもしれません。同時テロで、私たちが失ったもの、私たちが大事にしなければならないもの、さまざまな思いが交差する2009年9月11日でありました。

※掲載した写真はCD「タイム・トゥ・セイ・グッバイ~ボチェッリ・スーパー・ベスト」付録DVDから借用いたしました。
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爽秋

2009-09-06 18:01:07 | Weblog
 ことしの夏は、いつの間にか通りすぎていきました。ここ数日、日中こそ暑さのぶり返しがありますが、朝夕の涼しさは、とっくに秋。「爽秋」という言葉が似合います。こんな季節が私は大好きです。
 でも、ひと夏を越した庭の草木は、少しお疲れのご様子です。葉っぱは萎れ、なんとなく元気がない。夕方になって散水すると目が覚めるようですが、それでもしんどそう。人間と一緒で夏バテなんでしょう。きっと。考えてみると、私自身もなんとなく気だるさが抜けきれません。長椅子に横たわって、さて、何の曲を聴こうかと迷ってしまいます。珍しく、きょうはニュージーランドの女性歌手ヘイリーのCD「クリスタル」を聴きながらのブログ更新です。 ヘンデルの「私を泣かせてください」、プッチーニの「私のお父さん」、カッチーニの「アヴェ・マリア」・・・
 そんな9月の初旬、私は京都に行ったり来たりしました。先週の土曜日は知恩院のお参り、月曜日の夜は祇園界隈で知人との懇談会でした。そしてここ2日間は、お勉強会に出かけておりました。そうそう。祇園界隈では、花見小路を歩いていたら30人ほどのカメラを構えた外国人観光客に出くわしました。なんだろうと目を凝らすと、花街を歩く舞妓さんがお目当て。異国文化に惹かれる気持ちは判らないではありませんが、少し行き過ぎではと思ってしまいました。きのうは、京阪電車の三条駅から河原通りに向かう途中、お昼だというのに鴨川沿いの1軒の川床に人の群れ。なんだろうと眺めると、なんと川床に牧師さんの姿。結婚式が行われていました。京都の風物詩、鴨川沿いの納涼床も、そろそろお終いなのでしょうが、なかなか粋な結婚式風景ではありました。
 ところで、この夏は鶴見和子曼荼羅「知の巻」を読破しようと思っていましたが、中野孝次編「すらすら読める方丈記」に触発されて、小休止。少し古文に目覚めました。大阪と京都との間を移動する時間を利用して、いまは中野孝次編「すらすら読める徒然草」を読んでいます。この歳になって改めて眺めてみると、なかなか読み応えがあります。現在にも通じる歴史観・人生観のようなものを知ることができます。といっても、深読みをしているわけではありませんから、吉田兼好さんの思いのどこにまで到達しているのかは、なんとも心もとないところではあります。それでも、京の街を歩いていると、ときどき頭の中で平安、鎌倉時代に時間移動します。ふと、近代的な建物が目の前に現れると、現実の世界に逆戻り。あっちに行ったり、こっちに行ったり。季節の変わり目は落ち着きがありません。
 人と向き合っている仕事をしていると、あまり目先の損得に惑わされない、何かもっとスケールの大きな視点から現実を見つめることができればと思うこの頃です。・・・と書き綴ってきて、さて、きょうは何が言いたかったのだろうと自問する私が、ここにいます。お疲れ気味かも。
 上の写真は、先日帰省した際、鳥上の里で足元にあった草木を撮影したものです。秋の深まりとともに、枝先の実が真っ赤になるのでしょう。これから年末に向けてまっしぐらです。
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