心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

堺の町を歩く

2016-10-28 23:37:20 | Weblog

 きょうは家内のピンチヒッターで孫次男君が通っている幼稚園の「お迎え」に行ってきました。午後2時、お婆ちゃんが来ていると思っていた孫君は、一瞬驚いた様子でしたが、お婆ちゃんが急に歯医者さんに行くことになったことを告げると、事態を納得したようでした。
 そんな孫次男君に、「アケビの実って知ってるかい」と聞くと「知らない」と予想どおりの答えが返ってきました。私が小さい頃は、秋も深まるこの時期に里山を歩いていると、木に絡まった蔓の枝先に淡紫色に熟したアケビの実を簡単に見つけることができました。ぽっかりと口を開けたアケビの甘い実を頬張ったのはずいぶん昔のことです。
 そのアケビの実が、ことし我が家の庭で実りました。自生の苗を湖北の山小屋の裏から持って帰って十数年。数年前から春先に花が咲いて実をつけるようになりましたが、ことしは初夏に3個ほどの小さな幼実が確認できました。その後、固く青い実のままで暑い夏が過ぎましたが、秋も深まり朝晩肌寒さを感じるようになって、まさにここ数日のことですが、急に色づき始めました。さっそく紙袋をかけて鳥害から実を守ります。分厚い果皮がぱっくりと割けるのも時間の問題です。
 霜始降(しもはじめてふる)、霎時施(こさめときどきふる)、楓蔦黄(もみじつたきばむ)......。秋も深まり、そろそろ「立冬」の季節を迎えようとしています。
 さて、今週はカレッジで社会見学をしました。行先は、茶道千家の始祖・千利休が生まれ、歌人・与謝野晶子が22歳で上京するまで過ごした堺の町です。奈良時代の僧・行基の生まれた町でもあります。JR天王寺駅から、大阪唯一の路面電車・阪堺電車にのって「宿院」をめざしました。
 午前中は「さかい利晶の杜」で学芸員の方から堺の歴史を学びました。長年大阪にいて、大和川より南の方に出かけることが滅多になかった私にとって、堺の町は新鮮でした。江戸時代には7万人もの人口を数える都市でありました。
 市内には、有名な仁徳天皇陵古墳があります。5世紀の頃、古墳をつくる道具を製造する必要から鍛冶技術の基礎が築かれたようですが、その技術が刀づくりに繋がり、16世紀にポルトガルから鉄砲が入ってくると火縄銃が、タバコ葉栽培が伝わると葉を刻む「タバコ包丁」がつくられるようになります。それが今日の伝統産業「刃物づくり」に繋がっています。千五百年にわたる鍛冶技術の伝統は近年、自転車製造に受け継がれており、日本の産業史に一定の存在感を示しています。
 「さかい利晶の杜」館内の千利休茶の湯館と与謝野晶子記念館を見学したあと、午後は観光ボランティアさんの案内で、千利休屋敷跡のほか、臨済宗大徳寺派龍興山「南宋寺」、日蓮宗本山由緒寺院廣普山「妙國寺」、堺伝統産業会館などを見て回りました。
 特に印象に残っているのが妙國寺です。明治維新前夜の混乱期、1868年2月、和泉国堺で土佐藩士とフランス水兵とが衝突した、いわゆる「堺事件」。お寺のパンフレットによれば「堺のまちを警護していた土佐藩士と上陸してきたフランス水兵とが出くわした際に言葉が通じないこともあり意思疎通が出来ない中、いざこざとなり、発砲が起きフランス水兵が殺傷された。死者は11人と多数の負傷者が出たことから外交問題に発展し、賠償金15万ドルの支払いと加担した者のうち20人の切腹を(妙國寺の)境内で行うことになった」とあります。「双方立ち合いの下で行われたが、余りにも凄惨な光景となったため、11人の切腹を最後にフランス側から中止の申し入れがあった」と記されています。
 宝物資料館には、土佐十一烈士の遺品が多数展示されていました。彼らの多くが20代前半の若者であったこと、事の発端が言葉の意思疎通の欠如による偶発的なものであったことを思うと、なんとも胸の痛む史実です。なお、日本側の立会人は、昨年、朝のテレビ小説で有名になった、後に大阪商工会議所などを創設する外国局判事・五代友厚だったのだそうです。
 土佐十一烈士のお墓は妙國寺境内にあります。観光ボランティアさんのお話しによると、死亡したフランス水兵11人のお墓は、なんと先日登ったばかりの六甲・再度公園の外国人墓地にあるのだそうです。堺の町を歩きながら、様々な人と場所が繋がってきます。何百年にわたる大きな歴史の流れのなかに立っている自分を感じた一日でした。そして長い一日の終わりは、もちろん班のメンバーで呑み会を開き懇親を深めました。(笑)

 明日は京都・百萬遍知恩寺境内で開かれる京都古書研究会主催「秋の古本祭」に出かけてきます。そのあと、紅葉には少し早いと思いますが、久しぶりに東山の「哲学の道」を散策して帰ろうかと思っています。そんな次第で今夜は、3年前にご病気のため長期休養に入っておられたギタリスト・村治佳織さんの5年ぶりの新作「ラプソディー・ジャパン」を聴きながらのブログ更新とあいなりました。

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秋の神戸ハイキング

2016-10-24 09:59:25 | 歩く

 きのうの日曜日は、朝から庭掃除でした。掃除というよりも草むしりといった方が良いかもしれません。いつでも時間があるからとほっておいたらとんでもないことになっていました。半日を費やした作業が終わるとシャワーを浴びて小休止です。すると家内が「すだち茶を飲む?」と。え?それなに?。
 今年はすだちが豊作で、一本の木から百個ほどできました。そのうちの半分を収穫して、陰干しにしていたのですが、それを使って家内がマーマレードを作ったのです。それを湯呑茶碗に入れて熱い湯を注ぐと、なんとも香しい「すだち茶」に変身です。これでこの冬は風邪をひかないだろうというのが初老の夫婦の会話でありました。(笑)
 さて、おとといは「秋の神戸ハイキング」に行ってきました。阪急交通社では、ハイキングを三つに区分しています。標高差250m前後、3時間前後の山歩きを「初級」、標高差400m前後で4時間前後の山歩きを「中級」、標高差400m以上、4時間以上を健脚向きの「上級」といった具合です。これより軽い、起伏の少ない整備された道を歩くのが「ウォーキング」、逆に標高差500m以上で4時間以上歩くのが「登山」あるいは「トレッキング」と言うのだそうです。
 今回わたしが初めて挑戦したのは「ハイキング中級」にあたります。阪急神戸三宮駅から徒歩5分のところにある生田神社から出発して、およそ2時間で六甲山系の再度公園に到着、そこで昼食休憩をとったあと、布引貯水池、みはらし展望台、布引の滝を通って異人館街に至るというものです。標高差408m、約4時間、12㎞でした。
 早めに家を出たので、生田神社には午前8時30分に着きました。この日は二千人という参加枠でしたが、まだ人もまばらでした。それでも50人ほど集まると順次、軽くストレッチをして出発とあいなりました。第一陣は健脚揃いの方々ばかりで、皆さん一定のリズムで気持ちよく歩いていらっしゃいました。わたしもそれに負けじと、そのリズムに合わせて歩き始めました。こんなとき、早朝散歩の成果が現れます。最後までリズムを崩さずに歩きとおすことができました(笑)。
 神戸山手女子高校を過ぎるあたりから徐々に山深くなってきます。大師道あたりは結構きつい山道が続き、やっと猩々池で一服です。
 そこからさらに嶮しい道をのぼると視界が急に開けて、昼食ポイントである再度公園に到着です。広い池を眺めながら、一緒に歩いた方々とおにぎりを美味しくいただきました。
 あたりをぶらり散策すると、「弘法大師修法之地」と刻んだ石碑がありました。そういえば、途中に「大師道」や「大竜寺」という矢印が気になっていました。帰ってネットで調べてみると、唐の国にいく弘法大師が所願成就を祈願したお寺で、無事帰国した弘法大師は帰朝報告奏上のため再び参籠したのだとか。それで、この山が「再度山」(ふただびやま)と呼ばれるようになったとありました。違和感のあった「再度」の名前の意味が分かりました。
 昼食休憩が済むと今度はゆるやかな下り坂です。清流を横目に林の中の径をひたすら歩きます。布引貯水池が見えてきました。これが神戸の水瓶なんでしょうか。こうした六甲の豊富な水が灘の酒を美味しくしているのでしょう。
 なお下ると、神戸市内が見わたせる展望台に着きます。ここでひと休みです。神戸三宮の市街地と神戸港を望むことができます。来年は「神戸港開港150年」なのだそうです。
 そしてさらに下ると、布引の滝「雄滝」が見えてきます。その美しい姿に足が止まります。なによりも、このあたりの水の美しさ、清らかさ。市街地にほど近いところに清流が流れています。手で掬って飲んでみたいほどですが、清流は径のずいぶん下を流れています。
 新幹線の新神戸駅の裏側付近に着くと、今度は最後の上り坂。これが気持ち的には結構きつかったように思います。あと少しと思っていたところでの急な坂道だからです。最後の力を振り絞って、やっと観光客で賑わう異人館街に到着しました。

 そんな具合で、午後1時過ぎには三宮駅の構内にいました。思っていた以上に楽に歩けたので、その余力を使って三宮界隈を散策して帰ることにしました。駅前のチケット屋さんを何気なく覗いてみると、神戸市立博物館で開催中の神戸開港150年プレイベント「松方コレクション展~松方幸次郎 夢の軌跡」のチケットを売っていました。それではということで、駅から港に向かって徒歩15分ほどのところにある博物館に向かいました。
 私が松方幸次郎なる人物に出会ったのは、玉岡かおるさんの小説「天崖の船」でした。川崎造船所の初代社長で、当時としてはめずらしく海外の大学に学び、欧米との行き来をするなかでホンモノの美術品に魅せられた人物です。ロートレック、モネ、ピカソ、ロダン、歌麿など観て、これまたふだんとは異なる心の世界をハイキングしました。
 こうして午後3時、阪急電車に乗って帰途につきましたが、なんと大阪・梅田駅について席を立とうとすると、足が棒になっていました。(笑)だめですねえ。もう少し鍛錬して20㎞ぐらいは楽に歩けるようになりたいですね。秋も深まりますので、いろんなハイキング企画を調べてみることにいたしましょう。

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素の自分と向き合う

2016-10-21 21:24:33 | Weblog

 読者登録をしているブログに「愛犬まるの風だより」があります。昨日の記事を見ると、まる君が21歳のお誕生日を迎えたのだと。歩けなくなり、立つこともできないようですが、まる君の21歳のお誕生日は、私にとっても嬉しいニュースでした。今は亡き愛犬ゴンタは、16歳を越えたあたりから徐々に衰え始め、お散歩の途中で歩けなくなって以降、歩くことも自ら立ち上がることもできなくなってしまいました。でも、まる君はめでたく21歳。大学3年生です。
  きょうは朝、かつて愛犬ゴンタと一緒に歩いた近くの小さな森をぶらり散歩してきました。山あり谷ありの径を、ゴンタは落ち葉を踏みしめながら元気いっぱいに歩いていましたが、今は小鳥たちの囀りだけが響いています。 話は変わりますが、先日、京都に向かう電車の中で、文庫本になったばかりの村上春樹「職業としての小説家」を読んでいました。その第四回「オリジナリティーについて」の中で村上春樹は言います。「自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスにしていく」という作業が必要とされるみたいです」と。
 あまりに多くのものごとを抱え込んでしまっていて、自己表現をしようとすると、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こしてしまう。身動きがとれなくなってしまうと。だから、とりあえずは必要のないコンテンツをゴミ箱に放り込んで情報系統をすっきりさせてしまえば、頭の中はもっと自由に行き来できるようになるはずだと。そのとき、必要なものと必要ではないものをどう見極めるのか。それは、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか」がひとつの基準になるだろうと。
 文脈の中の一部を抜き出していますから、ひょっとして誤解があるかもしれません。でも、情報過多の時代、私たちはいろいろな知識・情報に溺れてはいないか。振り回されてはいないか。自分自身の支柱が曖昧になってはいないか。
 田舎から都会の大学に進学した時、大学を卒業して社会人になった時、そして会社をリタイアした時。振り返ってみると、人生には常に「不連続性」が付きまとっているような気がします。その時々で、自分なりに、必要なものとそうではないものを整理してきた。上洛する際、受験参考書類のすべてを焼き捨てたときの爽快感。リタイアにあたり仕事関係の書籍すべてを処分したときの開放感。背負ってきた荷物をそっと降ろして過去の扉を閉ざす。そして新しいステージの向こうに見える「楽しさ」を追う。この繰り返しだったかもしれません。
 でも、ほんとうにそうなのか。ひょっとしたらそれらは表層的なことであって、深層部分はなんにも変わってなんかいないのではないか。亡き母と交わした手紙、高校時代のアルバム、大学時代に書きなぐった諸々、部屋の本棚をながめていると、何も変わってなんかいないじゃないか。そんな幼稚性が見え隠れしています。そこに、もう一度光を当ててみたい。素の自分と真正面から向き合ってみたい。そんなことをぼんやりと考えました。
 そうそう、今週のシニアカレッジのテーマは「社会福祉」と「アクティブ・シニア」でした。午前と午後に分けて4時間。いわゆるアクティブ・ラーニング形式で授業は進みました。そのなかで先生から「一日の中でいちばん幸せに思う時はどんなときですか」という問いかけがありました。「一日を終えた後に一杯の酒を呑むとき」「お布団の中に入るとき」「お風呂に入るとき」「孫と遊んでいるとき」「夫婦そろってでかけたとき」「なんにも問題がないとき」........。いろいろな意見がありましたが、つまり「幸せ」の定義は人ぞれぞれということです。飾りっ気のない素の自分と向き合い、人それぞれが言葉の意味付けをしていく。そこから何か新しい世界が見えてくるのかもしれません。先生は最後に、「千の風になって」を作詞・作曲した新井満の訳による、サムエル・ウルマンの詩「青春」を参考文献として示されました。
 カレッジは、この日から4班に分かれてグループ活動が始まりました。我が班は終業後さっそくキャンパス界隈のカフェでお茶会でした。みんな40年前の学生のようです。役割分担、連絡網の形成、懇親会という名の呑み会の日程などを決めました。三分の二が女性という終始賑やかなグループの旗揚げです。さあてどこまで着いて行けるかどうか。(笑)
 横道にそれてしまいましたが、先日京都にでかけたのは大学時代のクラブOB会開催の下打ち合わせのためでした。今年はホームカミングデーに合わせて開催の予定です。まずは早朝、南禅寺裏の若王子山にある創設者・新島襄のお墓参り。ついで場所を大学キャンパスに移して情報交換会です。懇親会は少し足を伸ばして伏見の酒どころ伏見桃山界隈で開催することになりました。来年は会津訪問、再来年はアメリカ訪問、いずれも新島襄の足跡を追う企画が動き始めています。 

 ここまで書き上げたところで、家内から「四天王寺さんの骨董市に行かない」とのお誘いを受けました。京都・東寺の弘法市には時々でかけるのですが、四天王寺さんは古本祭りしか行ったことがありません。そんなわけでお昼前にお供しました。四天王寺さんに到着すると、広い境内にたくさんのお店が出店していて、平日にもかかわらず驚くほどの人出でした。
 そこで私はビクターのトレードマーク、蓄音機に耳を傾けるニッパー君に出会いました。すでに1匹はいますが、ひと回り大きなニッパー君を、ふだんなら二千円以上はするところ千五百円で購入しました。下の写真は、我が家のニッパー君とご対面シーンです。(笑)
 このような次第で、なんともお気軽な日々を送っていますが、明日の土曜日は旅行会社主催の神戸ハイキングにでかけてきます。神戸の生田神社を起点に、再度公園を折り返し、最後は異人館街にゴール。約12キロを4時間ほどで歩こうというものです。歩き遍路の試金石といったところでしょうか。(笑) 「きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていける」。お気に入りのトレッキングシューズを履いて、須賀敦子さんの美しいエッセイに我が心を捧げることにいたします。

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秋の夜長に古本と戯れる

2016-10-14 21:32:03 | 古本フェア

 朝晩の冷え込みが増して草木に宿る露が冷たく感じられる季節、それを「寒露」というのだそうです。きょうから長袖のシャツを着て朝のお散歩に出かけましたが、不動尊の境内には銀杏の実がたくさん落ちていました。そんな小さな変化に一喜一憂する季節、家内の今月のお花のテーマは「ハロウィン」でした。
 このところ奈良時代に生きた行基なる人物のことが気になっていましたが、先日、関西古書研究会主催の「四天王寺大古本祭」に出かけた際、1冊300円コーナーで金達寿著「行基の時代」(朝日新聞社)に出会いました。ページを開くと岸和田だんじり祭りの話、なんだろうと読み進んでいくと、そのむかし灌漑用の久米田池を築いたのが行基であって、その行基さんに感謝し五穀豊穣を願ったのが祭りの起源なのだと。知りませんでした。
 仏教が朝鮮半島から伝わったこと、当時の朝鮮半島では百済、高句麗、新羅など国同士の争いが絶えず、戦いに敗れた国の知識人たちがこぞって日本にやってきて帰化し、国づくりに一定の役割を果たしたこと.......。なにやら中学校の歴史教科書を思い出します。想像以上にグローバルな開かれた時代、内と外の境目がきわめて柔らかな時代だったのかもしれません。
 行基自身も百済系渡来人の出で、15歳にして都に出て官寺にはいり、般若心経をはじめ多くの経典を学びました。後年、国家に奉仕することよりも民衆の救済に軸足を置き、東国、西国と行脚するなかで、雨不足に悩む貧しい農民たちに出会います。彼らのために井戸を掘ったり、灌漑池をつくったり、はたまた当時は知識に乏しかった肥料の大切さを説いたり、薬草の知識を広めたりと、民と共に生きた、そんな人間・行基の姿がぼんやりと見えてきます。
 その百年後に登場する空海が、各地に池をつくり、井戸を掘り、病を癒したことの時代的な背景が理解できます。民間信仰というものが時として伝承の中身を誇張しがちだとしても、農民の生活向上に果たした空海の役割は否定できません。後々弘法大師として崇められることになった所以なのでしょう。
 たまたま出会った一冊の本を通じて、千五百年前の日本の仏教と農村社会を垣間見ることの楽しさは、古本の醍醐味でもあります。「大古本祭」ではこのほか渡辺照宏・宮坂宥勝著「沙門空海」(筑摩書房)を手にしました。
 四天王寺さんの次に向かったのは、地下鉄谷町線で20分ほどのところにある大阪天満宮で開催中の大阪古書研究会主催「天神さん古本祭」でした。規模は小さいけれど選書のし易さが気に入っています。この日は「名作狂言50」(世界文化社)、外山雄三著「音楽の風景」(新樹社)、宮本常一著「忘れられた日本人」「家郷の訓」(岩波文庫)などを買って帰りました。この日のお値段はしめて3千円。秋の夜長、たっぷりある時間の流れに身をゆだねて古(いにしえ)の世界に浸ります。
 今週は珍しくお出かけの多い週でもありました。そのひとつが、こころの未来研究センター主催の「第2回京都こころ会議」です。京都にでかけて久しぶりに脳みそを使いました(笑)。なかでも民族学者・赤坂憲雄先生の「遊動から定住へ~そのとき、こころの変容は起こったか」は、示唆に富むお話しでした。13歳の少女の「なぜ逃げてはいけないの」という素朴な疑問(詩)を提示しながら、一万年前の定住革命以前の「遊動」を常とする時代の人々の在り様に触れ、離合集散を繰り返しながらやわらかく関係性を維持していた時代は、逃げる、去る、離れるといった行動原理がプラスに働いていた時代ではなかったのかと。その後、定住することによって、閉じた社会が出現し、逃げる、去る、離れることのできない「逃げられない社会」に変わっていったのではないかと。いじめ、村八分......、人の「こころ」の深層に迫ります。
 ぼんやり聞き流していると大事なメッセージを見失いがちですが、定住によって人類は素晴らしい生活基盤、社会基盤を確立したけれども、一方で固い社会、組織を作ってしまった結果、「逃れられない社会」を作ってしまった、ということなんでしょうか。「こころ」の有り様が問われています。「こころの内と外(In and Out of Kokoro)」というこの日のテーマの主旨がぼんやり見えてきたように思います。

 そうそう、今週からシニアカレッジが始まりました。1日目は開校式、2日目はオリエンテーション、来週から本格的に始まります。受講生は総勢65名。平均年齢67歳の元気なシニアたちです。大学の先生や有識者のお話しを聞くだけでなく、参加型・対話型の受講姿勢が求められ、今後2年間、歴史・古典文化・近代文学・音楽・美術・自然科学・社会貢献など、知識の再学習を通じて興味のある分野を心と頭と身体で深掘りしていくことになります。
 仕事を離れて3カ月、現役時代の堅苦しい裃を脱ぎ捨てて、まったく新しい更地の上に新しい人間関係を築く、これも楽しそう。とりあえずは飲みにケーションからスタートです。(笑)
 明日と来週の土曜日は予定が入っているため、先週に続いて金曜日のブログ更新です。夕食後、若干のほろ酔い気分を引きずりながら、久しぶりにグレン・グールド奏でるバッハの平均律クラヴィーア曲をBGM代わりに、とりとめのないことを綴ってしまいました。

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発心の道場

2016-10-07 22:03:22 | 四国遍路

  7月から始めた四国遍路の旅ですが、先日のツアーで阿波国・徳島県の23カ寺すべてをお参りしたことになります。ものの本によれば、この徳島の遍路を「発心の道場」と言います。「発心」とは正しい目覚めに対して心をおこす意味のようですが、要するに遍路の旅に出たいと思う気持ち、それが「発心」であり、その後の修行へのスタートラインになります。
 今回は、第十六番札所・観音寺から第二十三番札所・薬王寺までを巡りました。最も印象深かったのは、山の上にある太龍寺と鶴林寺でした。前回尋ねた焼山寺を合わせて「阿波の三大難所」と言われています。
 西の高野山といわれる第二十一番札所・舎心山太龍寺は、今ではロープウェイで登ることができます。道の駅「鷲の里」から全長2.7キロメートルの間、眼下に深い森林を眺めながら101人乗りのゴンドラに乗って約10分、標高600メートルの山頂の駅に到着します。そこから樹齢数百年もの杉並木を歩き、女厄坂、男厄坂の石段を登って本堂に向かいます。深く暗い山道を歩いて登った昔に比べれば様変わりですが、昔の「歩きお遍路」がいかに厳しいものであったかが判ります。若き空海が修行した太龍寺のご本尊は虚空蔵菩薩です。
 第二十番札所・霊鷲山鶴林寺も、標高550メートルの山の上にあります。歩けば「遍路転がし」とも呼ばれる難所です。ご本尊は地蔵菩薩。鶴が舞い下りてきたという謂れがあり、仁王門にも本堂前にも鶴の像が鎮座していました。
 第十八番札所・母養山恩山寺は、弘法大師の母・玉依御前ゆかりのお寺です。その昔女人禁制だったそうですが、弘法大師は修行を積んで女人禁制を解き母との再会を果たしました。母・玉依御前はこの寺で髪を剃り出家したとされ、その髪の毛が安置されている「御母公堂」が、太子堂に寄り添うよう建っています。ご本尊は薬師如来です。
 今回は「弘法大師ゆかりの霊水」を巡る旅でもありました。第十七番札所・瑠璃山井戸寺には、大師が付近の水が濁水なのをあわれみ、錫杖で井戸を掘ったところ一夜のうちに清水湧出したという「おもかげの井戸」があります。お加持水をいただいて帰りました。ご本尊は七仏薬師如来です。

 第二十二番札所・白水山平等寺にも、弘法大師が加持祈祷のための水を求めて杖で地面を突いたところ白い水が湧き出てきたという「弘法の霊水」があります。現在は無色透明ですが、万病に効く霊水なのだそうです。また、その昔、犬が曳く木製の車に乗って八十八カ所を巡礼していた足の不自由な人が、この寺にお参りして不自由な足が治ったという謂れがあるそうです。ご本尊は薬師如来です。
 徳島でもっとも南に位置する第二十三番札所・医王山薬王寺は、ウミガメの産卵で知られる日和佐海岸を望む高台にありました。ご本尊は薬師如来です。本堂の裏に「肺大師」という祠があり、ラジウムを含んだ霊水が湧出していて、肺病など諸病に効くのだとか。微量の鉱物元素が含まれていることが科学的にも証明されているようです。ご利益とお寺の名称「医王山薬王寺」がぴったり合っています。不思議ですね。信じたくなります。
 台風18号の影響を受けて2日目は朝から雨が降っていました。第十九番札所・橋池山立江寺では、土砂降りのなかでの参拝でした。ご本尊は地蔵菩薩です。
 街並みに溶け込むように佇む第十六番札所・観音寺のご本尊は、千手観世音菩薩です。千本の手で人の苦を救ってくださる仏様なのだそうです。太子堂の横には「夜泣き地蔵」がひっそりと佇んでいました。

 先達さんの説明では、いくつかのお寺の創建が行基によるとのことでした。先日訪れた長崎は雲仙温泉でも行基の名前が記されていましたが、行基は空海より100年ほど早い奈良時代に活躍した僧です。そのあとを引き継ぐように弘法大師空海が平安初期に活躍したことになります。時代の変わり目に時代を牽引する人、名僧がいたということです。その跡を追うように、けもの道のような暗く細い遍路道を独り黙々と歩き続けたお遍路さん。その強靭な精神力と人間力に思いをいたしました。私の存在のなんと小さいことか。...........薬王寺から宿泊先の徳島市内に向かう途中、那賀川の向こうに見える夕日を追いながら、そんなことを考えておりました。
 ところで明日は、長女の孫次男君の保育園の運動会があります。カメラマン役のお爺さんの出番です。ただ、お天気が微妙で、夕刻、開始時間を早める旨の連絡があったよう。なので、1日早くブログの更新をいたしました。(笑) 

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景色と意識の三層構造

2016-10-01 10:07:48 | Weblog

  先日ネットを眺めていたら、こころの未来研究センター主催のシンポジウム「遠野物語と古典」(2009年11月)に辿り着きました。基調講演は宗教学者で元国際日本文化研究センター所長の山折哲雄先生。テーマは「『遠野物語』と『源氏物語』の距離」でした。
 お話しの中で山折さんは、日本社会の三層構造という表現を使いました。日本列島を3千メートルの上空から眺めると、森林山岳社会としての日本の景色が見える。しかし千メートルまで下がると稲作農耕社会としての景色が見えてくる。そして五百メートルまで下がると近代工業社会の景色が見えてくるのだと。先日、飛行機で九州に行ったとき機上から眺める景色もそうでした。
 山折さんは、視点の高低を調整することによって日本列島の形成における文明化のプロセスが見えてくると言い、人間の意識の中身まで方向づけているという意味で、意識の「三層構造」に触れます。最も根っこにある部分、つまり森林山岳社会を「深層」意識と位置づけ、そこに柳田國男の「遠野物語」の土台を見ます。
 人口の都市集中が懸念され、地方再生の掛け声が高いご時世、狭い狭い都市空間のなかで人が蠢く。しかし、限られた空間のなかでさらに分断化されていく日本社会。かつてのようなムラ社会が良くも悪くも崩壊し、無縁社会といった言葉まで生まれています。
 久しぶりに、柳田國男の「遠野物語」を開いてみました。手元には、筑摩書房の柳田國男全集のほか、大和書房と河出書房の単行本があります。講談社の「遠野物語を歩く~民話の舞台と背景」といったカラー刷りの案内書も。そのうち大和書房の「遠野物語」は、初版序文、再版覚書、遠野物語、遠野物語拾遺、後記(折口信夫)、解説(谷川健一)、補注と充実しています。
 なぜ遠野物語に拘るのか。それは、日本が極めて急速に西欧化し、かつ敗戦によって古き良き文化と伝統を蔑ろにしてしまった上に築かれた近代工業社会、その後に形成される知識・情報社会に、ヒトの心の脆弱性を思うからです。個の中で完結性を求め、上空3千メートルから物事を鳥瞰する視点を失ってはいないか。全体最適の意識が薄れてはいないか。
 毎日のように報じられる東京・豊洲問題。組織が肥大化し縦割りと無責任体制が蔓延する組織風土。そのうえお金に対する意識が欠落しているから始末が悪い。残念なことです。これは東京都に限った話ではなく、わたしには現代日本を象徴している出来事のように見えてしまいます。
 日本の森林率は約7割と言われます。残り3割に過ぎない面積のなかで繰り広げられる不可思議な人の営み。何か大切なものを見失ってはいないかどうか。もういちど原点に立ち返ってみる必要がありそうな気がします。

 少し話が飛躍してしまいました(笑)。ここで話題を変えます。久しぶりに秋晴れとなった昨日、九州旅行のためお彼岸にお参りできなかった家内の両親のお墓参りに行きました。霊園が大和路線の沿線にありますので、お参りが済むとその足で奈良に向かいぶらり初秋の奈良を散策しました。
 JR奈良駅から観光客に交じって「もちいどの商店街(漢字では餅飯殿と書きます)」に入りお店を冷やかしたあと、興福寺に向かいました。ちょうど「五重塔」「三重塔」の特別公開をしていました。五重塔では阿弥陀三尊像、弥勒三尊像、薬師三尊像、釈迦三尊像を、三重塔では弁才天坐像や板絵などが拝観できます。
 三重塔に向かう途中、南円堂にお参りすると、四国遍路の第十三番札所大日寺でお目にかかった賓頭盧(びんずる。梵語でPindola)さんに出会いました。お酒に酔ってお釈迦さまから破門されたというお話しは聞いたことはありますが、案内板には次のように記されていました。
 「十六羅漢の第一尊者、賓頭盧尊者と称する。江戸時代から徐病の撫仏として有名。右手と左手で三回ずつやさしく頭をなでると無病が約束されると言う。赤身は酒を飲みすぎて、一時お釈迦様から破門されたが、後に修行を重ねて一番弟子になった。(しかし、これは俗説)。赤色の本当の意味は、生命が充満して生気の血がみなぎっているさまを言い、それは修行が最高に高まった状態を言う。その時の強い力をいただいて、病気にかからないと言う」。
 どうやら一面的に捉え過ぎていたようです。改心して破門を解いてもらう日を待っているだけではなく、修行を重ねて徳を積んでいる仏さまなんだと。けさ、近所の不動尊にも鎮座している賓頭盧さんを確認しました。ただ、こちらの賓頭盧さんは参拝者に撫でられて赤色が剝げ落ちていたので気づきませんでした。その分、多くの参拝者の方々をお守りになったということなんでしょう。
 遠野物語に登場する昔話。河童、ザシキワラシ、山男、オシラサマ、.........。民間信仰。仏さま。なにやらお伽噺のようですが、その背後にある深層心理に光を当ててみるのも良いかもしれません。きょうは午後、科学と宗教に関するシンポジウムを覗いてきます。
  

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