先週末、讃岐の国・香川県へお遍路ツアーに出かけてきました。66番雲辺寺、67番大興寺、68番神恵院、69番観音寺、70番本山寺、71番弥谷寺、72番曼荼羅寺、73番出釈迦寺、74番甲山寺、75番善通寺、76番金倉寺そして77番道隆寺の12カ寺です。
巡ったお寺が多すぎてまとめにくいのですが、ふっと浮かんできたことからご紹介しますと、まずは本山寺。広い境内でひときわ目立つ五重塔と美しい芙蓉の花が浮かんできます。
今回のお遍路では樹齢千数百年の巨木に何度か出会いました。たかだか70年足らずの人生しか歩んでいない者にとって気の遠くなるような長い間、同じ場所にじっとしてあたりの風景を眺めてきました。
善通寺では南大門から入ってすぐのところにその大楠はありました。今年は弘法大師空海生誕1250年の年にあたります。この大楠はひょっとしたら空海が幼少の頃からここに立っていたのかもしれません。
大興寺では、本堂に向かう石段の横に、樹齢千二百年あまりのカヤの木(イチイ科の常緑針葉樹)と大楠が聳えていました。
観音寺では、本堂前に樹齢八百年と言われる大楠が聳えていますが、岩盤の上に立っているのでしょうか。根元が地上に盛り上がっています。凄い生命力です。鐘楼の屋根の下には大きなスズメバチの巣があり、しょっちゅうハチが出入りしていました。
善通寺界隈は、弘法大師空海(774年~835年)が生まれた所、真魚と呼ばれた幼少期を過ごしたと言われています。その善通寺は、和歌山の高野山、京都の東寺と共に空海の三大霊跡のひとつと言われます。
まずは、広い伽藍にひときわ目立つ金堂(本堂)に向かい大きな薬師如来坐像に再会しました。空海が生まれた佐伯家の邸宅跡に建つ御影堂近くの御影池には、修行中の空海を真ん中に、中央に弥勒菩薩、左に父(佐伯善通卿)、右には母(玉依御前)の座像が置かれています。
そういえば、前回、本山寺から弥谷寺に向かうのにずいぶん歩いた記憶があります。やっと参道までたどり着いても、その先本堂まで540段の石段があり大変でした。大師堂の奥には獅子之岩屋という岩窟があり、空海が幼少の頃ここで勉強したと伝えられている神秘的な空間です。
お参り中に土砂降りの雨に見舞われた出釈迦寺の奥の院には、捨身が嶽禅定と言う言い伝えがあります。弘法大師空海が7歳の頃、絶壁から身を投じたところ天女が現れ抱きとめたとされる遥拝所があります。さあてどうなんでしょう。なにかの拍子に足をすべらせた真魚がうまく木の枝に引っかかって一命をとりとめた、というのが私の見立てですが、信じる信じないは人それぞれです。 こんなお話しもありました。曼荼羅寺の境内に、近くの丘に庵を建てて7年余り暮らしていた平安時代末期の歌僧・西行法師が、時々本堂前の平らな石の上で昼寝をしていたという平らな石があり「西行の昼寝石」と呼ばれています。西行がこのあたりに来ていたことは歴史的事実ですが、昼寝石というのは、信じるか信じないか。
今回の旅の圧巻は、四国八十八カ所の中ではもっとも高い911mの山頂に建つ雲辺寺です。ロープウエイで7分かけて上りました。山頂に降りると、参道に五百羅漢が建ち並び、聖地の空気が漂います。大師堂横には、優しいお姿の観音像が目に留まりました。なにやら西洋の彫刻を思わせます。そういえば、善通寺の境内には法然上人を祀る祠、親鸞聖人を祀るお堂などがあり、宗派を超えた一大聖地になっています。いま中東では新たな争いが勃発していますが、他を受容する「心」の大切さを思ったものでした。
そういえば、前回雲辺寺をお参りしたときは、土砂降りの雨の中、遍路道を歩いて下山しましたが、途中で道に迷い次の大興寺に向かうのにずいぶん苦労したことを思い出しました。山を下りてもあたりは田圃ばかりで人家なし。道を尋ねる人もいない。やっとこさ境内裏の入口を見つけました。納経所で次に向かう道を丁寧に教えていただきましたが、この日は疲れ切ってやむなくコミュニティーバスで観音寺駅に向かいました。
こうして今年1月から始まった四国八十八カ所遍路の旅も来月をもって3回目の結願となります。リタイアして7年、その間に3回巡ったことになります。これでひとつの区切りになります。
【追記】
ブログを更新してから気づきました。私は今週末から来週半ばにかけて、長男君と次男君一家に会うため3泊4日で横浜・東京に出かけてきます。そんなわけで次週の更新はお休みします<m(__)m>。