心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

音楽と戯れる初秋の休日

2013-09-22 00:07:51 | Weblog

 秋の夜長、肌に優しい微風を感じる素敵な季節となりました。三連休の初日の今日は、一週間遅れで野菜の種蒔きをしました。ルッコラ、サラダ菜、二十日大根、そして孫次男君の大好物ベビーキャロットです。野菜作りにもだんだん慣れてきて、我が家だけでは食べきれない収穫は長女のお宅にお届けです。
 そんなのんびりとした昼下がり、長椅子に寝転びながらLPレコードを聴きました。取り出したのは、ラザール・ベルマンの「カーネギー・ホール・コンサート’79」(ライブ録音)です。クレメンティ、モーツァルト、ベートヴェン、ショパン、リスト。アンコールはショッパンとガーシュインの作品でした。
 そんな曲を聴きながら、ふと思い出したのは高橋昌一郎著「小林秀雄の哲学」(朝日新書)です。新幹線の中で数ページほど読み進んで、はたと考え込んでしまいました。いわく「読者は、小林が実践した<思索>の軌跡をたどることによって、小林の<体験>を自己の体験と同一化し、小林の論理構造に自らの精神を委ねているのである。その時、読者は<考えて>いるのではなく、むしろ<信じて>いるのである」と。
 考えてみれば、なんの素地もなく、なんの脈絡もなく、ただただ難しい作品というだけで小林秀雄の人となりに拘ってきた。南方熊楠のそれと似ている。そんな小林との関係性のなかで、果たして私は何を考えてきたのか。改めて問い直してみると、なんとも心もとないものがあります。
 グレン・グールドにしてもそう。彼の生き様に拘りながら、果たして彼の演奏から何を感じ取ってきたか。まさに「音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい」(小林秀雄「美を求める心」)。
 いえいえ、まさにこの言葉が示すように、小林秀雄の言葉の中から、私はたくさんの気づきをいただいたし、なにかしら生きる力のようなものを感じ取ってきたのではないか。ものを見る視点、考える視点、私が持ち合わせていない時代を読み解く視点、そういうものを私は小林作品から学んだのではないか。そんなことをぼんやりと考えました。
 一服して次に聴いた曲は、ジャズピアニスト山中千壽の新作CD「モルト・カンタービレ」でした。先日、読売新聞で山中千尋「モルト・カンタービレ」…クラシック名曲を解体、という記事を見て、さっそく聴いてみました。「トルコ行進曲」「夢のあとに」「エリーゼのために」など全10曲が収められています。
 私にとってジャズは、脳味噌をシャッフルするのに最適です。頭の中を空っぽにして、すべての思考回路をぐちゃぐちゃにしてしまう。聴き終わったあとの爽快感。でも、そこからどう立ち上がっていくのかは、そのときの気分次第。こうして、私は右に振れたり左に振れたりしながら生きてきた。そうなんでしょうよ。きっと。
 そして秋の夜長、まん丸いお月さんを眺めながら聴いている曲はヘイリー・ウェステンラのCD「祈り」です。クラシックからジャズ、そしてクラシカル・クロスオーバーの女性歌手の世界へ。冷たいビールをいただきながらブログ更新の総仕上げです。(笑)
 そうそう、今週末はバスツアーに出かけます。といっても単なるツアーではありません。この夏、生野銀山を舞台にした玉岡かおるの「銀のみち一条」で、直利(なおり)という言葉に出会いました。その言葉を引きずって歩いていた頃、朝日新聞の旅行企画「銀の馬車道ウォーク」に目が留まりました。「室町時代に本格的な採掘が始まり、江戸時代には幕府の財政を支えた生野銀山。生野に産出した銀を飾磨港(姫路港)まで運ぶため築かれた日本発のハイウエー銀の馬車道」「往時の面影を辿りながら歩く近代化産業遺産の旅全5回」、とありました。心が動きました。1回目だけでも参加してみたくなりました。先日手続きが終わり、初秋の生野銀山界隈を散策します。距離にして9キロですからウォーキングといっても初心者コースです。
 さあて、日曜日は家内の両親の墓参りです。久しぶりに家内の妹夫婦ともお会いします。孫君たちも付いて行くというので大勢での墓参になります。そして10月初旬の土日には田舎に戻って兄の法要です。いろんな意味で、次を見据えた動きが少しずつ始まろうとしています。その日々を大切にしたいものです。

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