心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

「こころ」の視点

2007-05-20 15:20:03 | Weblog
 初夏の爽やかな休日を迎えました。なんだか得をした気分になります。新しい部屋にも慣れて、ずいぶん住み心地のよい空間を楽しんでいます。そんな清々しい休日の昼下がり、シベリウスのピアノ小品を聴きながら、ブログの更新をしています。
 わたしの部屋を1階から2階に移動して、まず思うのは、視点の違いです。同じ目線で眺めるのと、少し上から眺めるのとでは、風景がずいぶん違って見えます。睨めっこしているパソコンの画面から窓の外に目をやれば、青い空に浮ぶ雲の流れを追うことができます。目の前に庭木の梢が見えます。梢の先で小鳥が羽根を繕っています。そおっと眺めていると、優しい自然の営みを感じます。いつも見ている同じ風景が、視点を少しずらしただけで風景がこうも変わって見えるものかと不思議に思います。
 同じ風景なのに、見る角度によってものの見え方が違って見える。単なる視点のせいでしょうか。見る者の「こころの視点」はどうでしょう。それに左右されることってないでしょうか。そう考えていくと、わたしたちは目の前の事象が、どのように、どの程度見えているのか、いささか不安になります。見えていると思っていて、実はその真実は見えていないのかもしれません。あれこれと考えていくと、なにやらプラトンの洞窟の比喩を思い出しますが、このあたりはブログ「心の風景」が追い求めているテーマでもあります。
 ところで今朝、何気なくフジテレビの「報道2001」を見ていたら、歴史小説家として知られる塩野七生さんがご登場でした。昨年「ローマ人の物語」全15巻を完結したことをご存知の方も多いのではないでしょうか。鋭い視点で今日の時代状況を見つめ、政治行動を見つめる塩野さんの人間観・歴史観を興味深く拝聴しました。最近テレビ報道番組を見ていると、何かしら強引かつ軽薄に結論を導き出そうとする傾向があって、わたしなどは嫌だなぁと思うことが時々あります。塩野さんの報道番組へのご登場で、逆にコメンテーターの存在が小さく見えてしまいました。
 取り留めのない内容になってしまいましたが、最近、目先の損得に流されて自分の足元が見えていないと思われる事件があまりにも多すぎます。寂しいですね。かく言う私も、何をどこまで見えているのか些か心もとない状況です。でも、こころの鏡を磨く努力は惜しまないつもり。そう、ありたいです。
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