心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

こころの声を聴く

2016-11-25 23:32:52 | 旅行

 Gooブログでは週1回、「1年前に書いた記事の感想を書いてみませんか?」ということで、1年前の記事(抄)が届きます。今週のメールには、昨年11月21日の記事「中之島界隈の散策(その2)」の書き出しと愛犬ゴンタの写真が載っていました。テーマは大阪市中央公会堂であったナカノシマ大学11月講座のことでしたが、書き出しは明らかに違います。
 夫婦揃って別の用事で帰りが遅くなった雨の夜のこと。ひと足早く家に帰ると、雨の中で愛犬ゴンタが横たわっていました。当時、お留守番は庭の小屋の中で、夜はお家の中のベッドで眠るという暮らしをしていたゴンタでしたが、まさか自分の力で立ち上がれなくなっているとは。以後、ゆっくりではあってもお散歩にでかけていましたが、一日中家の中での生活が始まりました。でも、徐々に歩けなくなって、お散歩にも行けなくなってしまいました。
 私のリタイアの2週間前にゴンタは亡くなりました。その前日の日曜日、抱っこをしてお風呂に入れてあげたのが最後でした。あれから4カ月経ちますが、いまでも夫婦揃って出かけたときはふっとゴンタは大丈夫かなと思ってしまいます。16年8カ月も我が子同然に一緒に暮らしていたんですからしようがありませんね。
 さて11月も最終週に入ろうとしています。今週も、またもや京都にでかけて紅葉を楽しんだり、以前から計画していた能登半島の和倉温泉にでかけたりと、夫婦揃っての珍道中でしたが、カバンの奥に河合隼雄対談集「こころの声を聴く」を入れて、ぼんやりと眺めながら過ごしました。
 和倉温泉は、京都、滋賀、福井と通って石川県に入りなお北上、金沢市を過ぎて能登半島の中ほどにある七尾市にあります。その間、ずっと日本海を眺めながら「海」を考えていました。私の生まれ故郷は山々に囲まれた盆地にありましたから、海を見たのは幼稚園の頃、親戚の家に行ったときが初めてでした。その時、水平線というものを初めて見ました。海の向こう側が見えない。その先が見えないという怖さが半分、それまでに見たこともない世界があるという期待感が半分。そんなことを子ども心に思ったものでした。浜に出ると、いとも簡単にハマグリを採ることができるし、大人たちは大きなお魚を釣って帰ってきます。恵みの海でもありました。
 その「海」を、明治維新の若者たちは大きな夢を抱いて飛び出していきました。そのエネルギーが日本のその後の発展を支えました。戦争の時代には外地に飛び出していった若者も数知れません。多くの若者たちが海の藻屑となりました。そして最近では、北朝鮮の拉致問題も、まさにこの日本海を舞台に行われました。
 きょうの毎日新聞「経済観測」欄で冨山和彦さんは「『Lの世界の反乱』再び」をテーマに小論を寄せています。米大統領選の結果を例に、「グローバリゼーションの果実を手にどんどん豊かになる少数のグローバルエリート層(Gの世界)と、その恩恵を受けにくいうえに移民による賃金、雇用の悪化圧力にもさらされるローカル密着型のサービス産業や農業に従事する人々(Lの世界)の間の分断と格差感が極めて深刻」であると。そして「少なくとも先進国においては、グローバルゼーションの減速と、Lの世界重視への政策シフトは不可避」と言います。
 「こころの声を聴く」を眺めていると、意識、自我、物語といった言葉がなんどとなく登場します。美しく見えてしまう論理とは別のところで、なにか大切なものを置き忘れてはいないだろうか、ふとそんな気持ちになります。

 おっと、ブログで難しいお話しはやめにしましょう。そうそう、先日京都に出かけたのは京都市美術館で開催中の「生誕300年若冲の京都/KYOTOの若冲」展を観るためでした。いつでも行けると思いつつ日が経っていました。この日も大勢の方々がお越しになっていましたが、独特のタッチの水墨画、色鮮やかな花鳥図などを心ゆくまで堪能しました。
 その後、東山山頂にある将軍塚青龍殿に向かいました。京阪三条からバスで20分、京都市内を一望できる「大舞台」が2年前に新築されて以後、人気のスポットになっています。一度は登ってみたいところでした。あいにく曇り空でしたが、「庭園」も見事な造りで、京都の紅葉を今年は存分に楽しむことができました。
 というわけで一週間があっというまに過ぎていきました。そんななか、かつての同業他社の方から至急に連絡がとりたいとの伝言が秘書室からありました。週の初めには研究部門の幹部だった方から呑み会のお誘いも。そのたびに「もう昔のことは忘れました」と(笑)。
 来週は、予定を変更していた四国遍路の旅で愛媛県今治にでかけます。引き続いてカレッジの宿泊研修、その翌日は所要のため奈良へと、毎日楽しいおでかけの一週間になりそうです。

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