心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

グレン・グールドの「ハイドン」を聴く

2016-02-20 23:04:47 | Weblog

 きょうは朝から小雨が降っていました。夕方には本降りになりましたが、この時間は静かです。雲の間からお月様まで顔を覗かせています。それにしても二十四節気「雨水」とはよく言ったものです。ものの本によれば、降っていた雪がいつしか雨に変わり、積もった雪や氷が解け始める時季なのだとか。春一番が吹き、寒くなったり暖かくなったりしながら、しかし確実に「春」は近づいています。
 そんな春を前に、出勤途上の公園では剪定された樹木が寒そうに立っています。夏には青々とした葉を広げて陽の光を全身に浴びていた樹木ですが、太い枝を切り落とされています。老木に刺激を与えることで樹木を活性化しようということなのでしょうが、こんな無残な姿にまでしなくてもと思います。老木には老木の生き方があります。そこまで人間が自然を支配しなければならないのかどうか。どうなんでしょうね。
 でも、みんな頑張っています。先日の日曜日には畑の片隅で蕗のとうを見つけました。大地が湿り気を帯びたばかりの季節ですから、まだまだ可愛い芽ですが、例年になく数が多かったので、いくつかを採取して、その日の夜、お鍋に浮かべて芳しい春の香を楽しみました。なんと贅沢な時間だったことか。
 そんな他愛ないことを考えながら、土曜休日の昼下がり、グレン・グールドのLPレコードからハイドンの「後期6大ソナタ」(2枚組)を聴きました。ハイドンを聴くのは久しぶりですが、その解説に、こんな記述がありました。
 「私がもしピアニストだったら、ハイドンのソナタを、こういうふうには弾かないだろう。かりにグールドと同じだけの腕が与えられたとしても、こういうふうには弾かないだろう。また、私がピアノ教師であったなら、この演奏のまねはするなと、生徒たちに言うであろう。万一まねができてもこういうふうには弾くなと、生徒たちにいうであろう。にもかかわらず、このハイドンはすばらしい。ひじょうに特異でありながら並外れた説得力をもち、わがまま勝手であるように見えながら、曲の真髄をこの上なくあざやかに伝えてくれる、グールドのハイドン。これを天才の業と呼ばずして、いったいなんと呼ぼう」(礒山雅氏)
 若い頃から聴いてきたグールドの真髄を突いた言葉です。一見矛盾しているように見えますが、多くのファンが同じような思いで聴いているのではないでしょうか。私も初めて聴いたとき、「これは誰?」という驚きがありました。でも「何か変だなあ」と。にもかかわらず聴き込んでいるうちに離れられなくなってしまう。そんな関係ができあがってしまいました。
 一人のピアニストにしては多すぎるほどの書籍が出版され、音と言葉を通じて、いろんな人々がグレン・グールドのひととなりに迫ろうとしています。手許にあるミシェル・シュネーデル著「グレン・グールド 孤独のアリア」も、そのひとつです。ゴールドベルク変奏曲にならい、アリアから始まり、第1変奏から第30変奏、そしてアリアで終わるこの本。以前、阪急古書のまちの「杉本梁江堂」さんで見つけました。 

 
 
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