デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



西首塚



東首塚についてはこちらで触れたが、戦いの後に徳川家康から遺体の処理の命を受けた竹中重門(たけなかしげかど:合戦時に関ヶ原一帯を領していた)は遺体を埋葬し東首塚・西首塚を造営した。
解説板には明治時代に行なわれた鉄道工事や梨の木川改修工事の際に夥しい数の白骨や刀が出土したとある。


戦死者の慰霊や地域の安全と平和を願う行事は、地元住民により今も続けられているという。
過去に関ヶ原の合戦がありました、と教えられ、さまざまな学問書や小説などで戦のことを知ってはいても、大量の人骨や刀が出土した事実はやっぱり本当にあったことなんだと歴史のリアルを感じぜざるを得ない。


旧中山道松並木












江戸ー京都間を走る道(約532km)には69もの宿場があったとは知らなかった。関ヶ原宿(せきがはらじゅく)は中山道58番目の宿場だった。




山内一豊陣跡

関ヶ原宿から歩いてすぐの所に山内一豊陣跡がある。山内一豊については『功名が辻』も未読だし大河ドラマを適当に見た程度である。ドラマの転封された山内一豊が土佐に船で向かっていると陸から鉄砲で威嚇された場面は妙に覚えている・・・。
山内一豊は関ヶ原の合戦では南宮山に布陣した毛利秀元を抑える役割を与えられたが、戦いの前から徳川家康は毛利方の吉川広家や安国寺恵瓊に対して調略を仕掛けていて毛利軍を動けなくしていたので、家康にとって山内一豊の役割は実際のところ動けない毛利軍に対する見張り役や「万が一の保険」ぐらいだったように思う。

遅めの昼食を摂るため国道21号関ヶ原バイパスのコンビニに寄ったら、

甲冑姿の人が。何かの撮影!?


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