M・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』に以下のような一節がある。
ニコラス親方が、いったい誰の作品かと思って取り上げてみると、それは『雷名高き騎士ティランテ・エル・ブランコ』であった。
「これは驚いた」と、司祭が大声をあげた。「こんなところに、『ティランテ・エル・ブランコ』があったとは! さあさ、こちらに渡してもらいましょうか、親方。これを手にするとは、まさに楽しみの宝庫、気晴らしの鉱脈に出くわしたようなものですよ。ここでは、勇士ドン・キリエレイソン・デ・モンタルバンとその弟トマス・デ・モンタルバン、さらには騎士フォンセーカらが颯爽(さっそう)たる男ぶりを披露し、豪勇の騎士ティランテが猛々(たけだけ)しいアラーノ犬とわたりあい、侍女のプラセルデミビーダが才覚を発揮し、寡婦レポサーダが色恋沙汰において手練手管を弄(ろう)し、はたまた名だたる女帝が従士のイポリトふぜいに懸想(けそう)したりするんです。実を言えばね、親方、その文体からしても、これは世界一の良書ですよ。なにしろ、ここでは騎士たちがものを食べたり、眠ったり、ベッドの上で死んだり、死ぬ前に遺言をしたりといった、この種のほかの本には見られない、さまざまなことをするんですからね。とはいうものの、わたしはあえて言うが、この本の作者は、あれほど多くのばかげたことを故意に書いたわけではないのだから、終身漕刑(そうけい)囚としてガレー船に送られてしかるべきですな。ともかく、これを家に持ち帰って読んでみれば、わたしの言ったことがすべて本当だとお分かりになるでしょう。」
M・セルバンテス(牛島信明訳)『ドン・キホーテ(前篇一)』第6章(岩波文庫、p121~122)
気の利いたことを言ったり、洒落(しゃれ)たことを書きつけたりするのは大変な才知を要することです。芝居においていちばん才能のいる役柄は道化であるが、それというのも、観客にばかに思われようとする者が本当にばか者であっては具合が悪いからですよ。
『ドン・キホーテ(後篇一)』第3章(岩波文庫、p69)
後者の方で言わんとしている事は読者にも理解しやすい。前者でセルバンテスが司祭の口を借りて品定めをしている要素は、実は『ドン・キホーテ』を読む上でとても重要である。
とはいうものの、わたしはあえて言うが、この本の作者は、あれほど多くのばかげたことを故意に書いたわけではないのだから、終身漕刑(そうけい)囚としてガレー船に送られてしかるべきですな。
この言い回しこそ、『ドン・キホーテ』の真骨頂なのだ。つまり機知のある作者ならその故意でより、『ティランテ・エル・ブランコ』がもっとおもしろいものになる、少なくともばかげたものではなくなるはずなのだ、ということだから、この作者がなんの機知も持ち合わせていない作者であることを、セルバンテスは司祭の口を借りて辛らつな評価を下しているわけだ。セルバンテスの小説に対する姿勢、とりわけ笑いに対するこだわりは並々ならぬものがあって、人を楽しませる作品を書くには機知を要して作品に取り掛かる信念を垣間見ることができるように思う。
この箇所は訳者の牛島氏もかなり気をつけたようである。さらさらと読んでいけば見落としがちになるし、一瞬何を言いたいのか分かりづらいと思うかもしれないが、作品の中に顕れるキラリ光るもの、「こう書かれちゃかなわんなぁ(笑)」といったことを捉えられれば、読書はもっと楽しいものになると思う。
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