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デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ガラスのピラミッドを目の前にする

一八五七年に電気による街灯が初めてできた(ルーヴル宮の近くで)。   [T1,4]
  ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

アルフレッド・フィエロ『パリ歴史事典』(白水社)の電気の項目にはこの記述は載っていないので、『パサージュ論』にある断片が歴史的事実であると言い切ることはできないものの、パリで電気による街灯が点ったのがルーヴルの近くであったのなら、現在のガラスのピラミッドがライトアップされた眺めもちょっと見方が変わるかもしれないと思った。
前にも書いたが、ベンヤミンは電灯が登場したこともパリのパサージュの没落の原因の一つに挙げている。おそらくパサージュで電灯が用いられるより、街灯に電灯が用いられ普及するほうが早く、そのせいでパサージュの方が色褪せるというか、妖しく光るどころか暗いものになってしまったのでは、と私は考えている。


夜のルーヴル宮中庭は不思議な空間だ。

これまで、パレ・ロワイヤルの記事の分も含めると4ヶ月以上に渡ってパリを旅行したときのパリのパサージュとヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』について触れてきたが、今回と次回で一旦パリのパサージュについての旅行記は終わりにする。

パサージュの没落ではなく急変。一瞬にしてパサージュは「現代(モデルネ)」のイメージが鋳造される鋳型となった。ここに一九世紀は自らの最新の過去を嘲笑とともに反映させたのだ。    [S1a,6]

「よそにあるものはすべてパリにある。」
  ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』(『全集――小説七』パリ、一八八一年、三〇ページ「ココニぱりアリ、ココニひとアリ」の章)

「死滅するものは何もない、すべては形を変えるだけだ。」
  オノレ・ド・バルザック『思想、主題、断片』
  パリ、一九一〇年、四六ページ

バルザックのエピグラフは、地獄の時間を説明するのに非常に適している。つまりなぜこの時間は死を認めようとしないのか、そしてなぜモードは死を愚弄するのか、どうして交通の加速化と、次々に版を重ねる新聞のニュース伝達の速さが、いかなる中断も突然の終わりもなくしてしまうことになるのか、そして区切りとしての死が神の司る時間の直線的連続とどのように関係しているのか、ということを説明してくれる。――古代にはモードというものがあったのだろうか。あるいは古代の持つ「枠の力」がそれを不可能にしていたのだろうか。    [B2,4]

永遠回帰の呪縛圏のなかでの人生は、アウラ的なものから脱していない生活を可能にしてくれる。   [D10a,1]

産業館の建設が決定される前に、水晶宮(クリスタル・パレス)を模範にしてシャンゼリゼ通りの一部をその並木もろとも屋根で蔽う計画が練られていた。   [F6,4]

各種の博物館・美術館のひそかな構造図式としての産業博覧会。――芸術、すなわち過去へと投影された産業生産物。   [G2a,6]

人間に「全的体験」を得させる何よりのものは、交換価値への感情移入なのではなかろうか?   [m1a,6]

新たな製造方式はさまざまな模造製品を生み出すことになるが、それとともに仮象が商品のうちに現われることになる。   [J66,3]

探究者、賭博師、遊歩者に共通している自発性はひょっとしたら猟師のそれではなかろうか。つまり、すべての労働の中で無為ともっとも密接に絡み合っている、労働のこのもっとも古い形態のもつ自発性なのではなかろうか。   [m5,2]

アウラの衰退の経済的な主因は大量生産であり、社会的なそれは階級闘争である。   [J64a,1]

フーリエとサン=シモン。「経済分析と現存社会秩序批判の面ではフーリエのほうがずっと興味深く多面的である。しかし反対に将来の経済発展についての見解では、サン=シモンのほうがフーリエにまさっている。当然のことながらこの発展は世界経済の方向へと……動くはずであって……フーリエが夢想したような自立した小経済のほうに向かわなかった。サン=シモンは資本主義的秩序を……一つの段階と捉えているが……フーリエはこれを小ブルジョワジー的といって拒否する。」V・ヴォルギン「サン=シモンの歴史的な位置づけについて」(『マルクス=エンゲルス・アルヒーフ』Ⅰ、<フランクフルト・アム・マイン、一九二八年>、一一八ページ)   [W4a,4]

学問の方法の特徴は、新しい対象へ導きつつ、新しい方法を発展させるところにある。ちょうど芸術における形式の特徴が、新しい内容へ導きつつ、新しい形式を発展させるところにあるのと同じである。一個の芸術作品には一つの形式しかないというのは、また、一つの研究には一つの方法しかないというのは、外面的な見方にすぎない。   [N9,2]

何年にもわたって一冊の書物の中のふとした引用の一つ一つに、何げない言及の一つ一つに鋭敏に耳を傾ける必要がある。    [N7,4]

「真理は、多面的だからと言って、二つあるわけではない。」Ch・B『作品集』Ⅱ、六三ページ、『一八四六年のサロン』「ブルジョワへ」    [J48,3]

街路はこの遊歩者を遥か遠くに消え去った時間へと連れて行く。遊歩者にとってはどんな街路も下り坂なのだ。この阪は彼を下へ下へと連れて行く。母たちのところというわけではなくとも、ある過去へと連れて行く。この過去は、それが彼自身の個人的なそれでないだけにいっそう魅惑的なものとなりうるのだ。にもかかわらず、この過去はつねにある幼年時代の時間のままである。それがしかしよりによって彼自身が生きた人生の幼年時代の時間であるのはどうしてであろうか? アスファルトの上を彼が歩くとその足音が驚くべき反響を引き起こす。タイルの上に降り注ぐガス灯の光は、この二重になった地面の上に不可解な〔両義的な〕光を投げかけるのだ。    [M1,2]

遊歩者というタイプを作ったのはパリである。それがローマでなかったというのは奇妙なことである。それはどうしてであろうか。ローマでは、夢さえもおきまりの道を行くのではなかろうか。そしてこのローマは、神殿、建物に囲まれた広場、国民的聖所があまりに多いので、一つ一つの舗石や店の看板ごとに、階段の一段ごとに、そして建物の大きな門をくぐるたびごとに、歩く人の夢の中にこの町はそっくり入り込みにくいのではなかろうか。また多くの点ではイタリア人の国民性によるのかもしれない。というのもパリを遊歩者の約束の地にしたのは、あるいはホフマンスタールがかつて名づけたように「まったくの生活だけからつくられた風景」にしたのは、よそ者ではなく、彼ら自身、つまりパリの人々だからである。風景――実際パリは遊歩者にとって風景となるのだ。あるいはもっと正確に言えば、遊歩者にとってこの町はその弁証法的両極へと分解していくのだ。遊歩者にとってパリは風景として開かれてくるのだが、また彼を部屋として包み込むのだ。    [M1,4]

「時代を越えた永遠の真理」などという概念とは、きっぱりたもとを分かつのが良い。しかし真理というものは――マルクス主義が主張するように――ただ単に、認識の時代的関数であるばかりではなく、認識されたものと認識するもののうちにともに潜む時代の核〔Zeitkern〕に結びついている。この点はまさに真であり、それゆえ永遠なるものはいずれにしても、理念というよりはむしろ洋服のひだ飾りのようなものである。    [N3,2]

子どもが(そして、成人した男がおぼろげな記憶の中で)、母親の衣服のすそにしがみついていたときに顔をうずめていたその古い衣服の襞に見いだすもの――これこそが、本書が含んでいなければならないものなのである。■モード■    [K2,2]

ここに引用させてさせていただいた断片のほかにも『パサージュ論』を構成する重要なエッセンスはたくさんあるだろう。とりあえず私が理解できた範囲で、たぶんベンヤミンはこういったことを言いたかったのではないか、と思ったものを挙げさせていただいた。ベンヤミンについて書かれている本では既に触れられてあるのは承知の上で、私なりにベンヤミンと彼の『パサージュ論』について(勝手に)整理した内容を開陳する。これまでの研究で分かっているベンヤミンの『パサージュ論』成立の過程と関係することは少ないが、少しでも上の引用の理解に役立つところがあったなら幸いである。

ベンヤミンはたぶん自分の幼少期にベルリンで見た皇帝パノラマ館(ディオラマ館?)を作り出した時代が19世紀、つまりそれらが19世紀のパリの産物で、その19世紀を「他人の語る」歴史は終末的で狂気じみていて悲惨な地獄の時代であるといった描き方をしているのを、ベンヤミンの目には常々おかしいものとして映っていたのではないだろうか。(とはいえ往々にして、「現在」を生きている人にとってその現在(の時代)は常に地獄であるものだ。まさに渡る世間は…だ(笑)、ドストエフスキーも自分の時代について地獄みたいな描き方をしている(笑))
誰も書かなかった自分なりの19世紀を書くための、足がかりになったのが、落魄したパリのパサージュに集っていたシュルレアリストたちの呼びかけに応じたことで歩き回ったパサージュで得た幼少期のことを想起した体験であった。ベンヤミンが幼年期に見た前時代の産物皇帝パノラマ館は、子どもにとっては最新のものであり、パリに残っていた寂れたパサージュもまさにその幼少期の記憶を想起させるものであった。
ベンヤミンのパリのパサージュでの体験は、夢見心地にさせてくれるものではあったが、それはまた幼年時代を想起させてくれるということは目ざめた人間であるからこそ想起できることを意味していたわけで、夢を見ながら覚めている状態をまず彼は自覚した。そういった目ざめたというか半覚醒状態にあって、19世紀をパリを群衆に紛れ研究し生きたのが文士であり、いわゆる遊歩者であった。遊歩者はパリの群衆や風俗や商業や産業を単にレポートするのではなく、その動きや働きの本質を詩的にかつ的確に表現する能力に長けていて、根が孤独な遊歩者であるベンヤミンは19世紀の孤独な遊歩者、その代表格であるボードレールによっぽど惹かれたのだろう。
以来、19世紀のパリはいかなる都市であったのか、パリのパサージュ、ひいては19世紀のパリに関する資料をオタクの星たるベンヤミンは蒐集家(マニア)の視点でかき集め、かき集めたものを、彼はまさに引用符が見当たらないような文章に仕立てて書いてやろうとした。ただ、資料をかき集めるうえでの信念は、まさに遊歩者しか気づかないような、19世紀の進歩に寄与していないとみなされがちなものでも進歩を説明するものであれば集め、物事の発展と衰退の捉え方を見直すかたちで、たとえ19世紀と20世紀の間を分断する溝やひびがあったとしてもその「ひび」を研究することによって、これまで意識化されてこなかった知を呼び覚まそうとする目的があったものだったのではと思う。
その遊歩者の視点から、これまで意識化されてこなかった知を呼び覚まそうとするベンヤミンの研究内容は多岐に渡った。とりわけ、19世紀から起こる商品の物神性の発生や、お金で全的体験を得れるということ、物神性を発生させるには商品が大量生産され、大量生産された商品はモードの発生とモードの死を延々と繰り返す現象の探究の意義は大きい。商品が物神性を獲得する現象をつくった、ひいては19世紀のパリの社会構造を作る時代の基調となったのは、フランス革命をきっかけにしたフーリエやサン・シモン主義の思想を実践に移した政治家と投機で儲けたブルジョワの行動力であった。彼らがフランスを産業国家へと押し上げる時代は、ちょうど商品が物神性を持ち、パリが公衆衛生面を改善および見通しをよくするために大改造・再開発に踏み切り、鉄骨建築の技術が進歩し鉄道が敷かれ、万国博覧会で群衆が自分の生活が豊かになり未来への夢を見た時代であった。それはまた倦怠を伴った延々と繰り返される進歩の夢を見させてくれる時代でもあった。
しかし群衆に未来への夢を見させた(眠りそのものの?)資本主義の黎明期の象徴である、鉄骨建築の技術が未発達だったころに建てられた温室やパノラマや、ベンヤミンが幼少期に見たようなディオラマのあった(欲望を肯定し進められたフーリエのファランステールの象徴でもあった)パサージュは、衰退してゆき、その存在を急速に忘れ去られるのであった。これらは消費者が全的体験を得れる物神性を帯びた商品を扱うデパートや、パリでの万国博覧会の開催や、フランスが産業国家としての地位をなすまでの戸惑いや踏み台になった残渣のような存在であり、逆にいえばそのパサージュの建設がなければ近代社会におけるすべての思想的潮流の始まりをもの語る口火は切られることはなかったのである。

ベンヤミンが幼少期のことを想起するきっかけとなったパサージュは19世紀の集団の夢の始まりであり、その夢を見ている眠っているときの心地よさは、彼の二度とない幼少期の記憶に結びつく、と書いていいのだろうか。その夢の内容は、商品の大量生産がまだできない時代のパノラマや、階級闘争が起こる前の時代のアウラであり、当然ではあるが目ざめた者にしか書けないところが残酷といえば残酷だ。
しかしその夢に留まろうとせず、その内容を暴こうとしたベンヤミンの精神力は強い。暴く方法として追悼的方法や前後に分断された時代の過去の生活形式が現在の生活形式に入り込んでいるものを捉えようする革命的な方法を用いようとした『パサージュ論』は、19世紀を地獄の描写から救出する試みであり、まさに夢からの目覚めを扱うものなのである。また『パサージュ論』はその独自性ゆえか、権威に擦り寄らない自由な精神を感じさせてくれる心地よさがあるように思う。おそらくベンヤミンは生活には困窮し孤高の人であったろうが、それは既存の権威から離れることであり同時にパイオニアとしてのさらなる権威と説得力をベンヤミンの著書に与えているといえ、自分の書くものが大変なものになる自信に満ちた、自分の時代が来ることを信じていたことになるのかもしれない。それだけでも十分かっこいい。

歴史を観るに当たってのコペルニクス的転換とはこうである。つまり、これまで「かつてあったもの〔das Gewesene〕」は固定点とみなされ、現在は、手探りしながら認識をこの固定点へと導こうと努めているとみなされてきたが、いまやこの関係は逆転され、かつてあったものこそが弁証法的転換の場となり、目覚めた意識が突然出現する場となるべきなのである。これからは政治が歴史に対して優位を占めるようになる。もろもろの事実とは、立った今我々にふりかかってきたばかりのおのとなり、そして、この事実を確認するのは想起の仕事である。実際に、目覚めとは、こうした想起の模範的な場合、つまり、われわれがもっとも身近なもの、もっとも月並みなもの、もっとも自明なものを想起することに成功するような場合である。プルーストが、目覚めかけた状態で家具を実験的に配置換えするという話によって言おうとしたこと、ブロッホが、生きられた瞬間の暗さという表現で見抜いていたことこそが、ここで、歴史的なものの次元において、集団的に確定されるはずのものにほかならない。かつてあったものについてのいまだ意識されざる知が存在するのであり、こうした知の掘り出しは、目覚めという構造をもっているのである。    [K1,2]

そして、現在にとってベンヤミンのとる方法は古く非現実的か、といえば私は決してそうではないと思う。むしろ今まで妄信されていた説に新たな光を照らし、思わぬ「ひだ」を感じとれそうな研究が増えているように思う。
その典型として、私は以前にも書いた『ユダの福音書』の存在から分かるキリスト教史も挙げられるのではないかと思う。ある意味(言葉は悪いが)教会の派の政治力と圧力と狂気でもって成立した現在の新約聖書の内容のつじつまの合わない箇所は、実はイスカリオテのユダが裏切り者でなくイエスから最も信頼されていた弟子であることを逆説的に証明しているにとどまらず、それを最も説得力のあるかたちで説明してくれている(それこそ当初はあたかも「ぼろ・くず」の状態で発見された)『ユダの福音書』の内容は、まさに過去(の自然なつじつま)が現代(にも分かるつじつまとして)に食い込んでくることそのものじゃないだろうか。

ところで、もう既に誰かがやっているかもしれないし、どこかで聞いた覚えのあるような気がしないでもないが、『パサージュ論』のことを考えていて、日本でも同じような題材でベンヤミンがやろうとしたことをするならば、「映画館論」がいいかもしれないとか思った。しかしこれは現在もシネコンどころか映画産業自体が十分に盛んなので、きびしいか。それに映画のもととなると、結局はフランスかよ!ということになってしまうし(笑)。

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