デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



前回、『罪と罰』の訳を江川訳にした理由について少し書いた。しかしあれだけじゃ、自分の中で消化不良であることには変わりない。よって、亀山郁夫著『『罪と罰』ノート』(平凡社新書458)を私なりに読んでみた。
うーむ、本のあとがきにある、

本書は、一年半におよぶ作業プロセスのなかで生まれた発見を、これまでのドストエフスキー研究の成果に照らして記した覚書である。

という言の以上でも以下でもないなぁというのが率直な感想。(ちなみに作業というのは、亀山氏が『罪と罰』の翻訳に取り掛かっていたことを指す。)
本の中身はあくまで覚書なので、氏の思い切った仮説を氏自身で注意深く検証し、立論したものではない。よって、私個人は氏が引用している清水正氏の解釈(ソーニャに関するもの)を読んで、なるほどと思ったこと以外は保留した。

ところで、前回書いた「検証」のサイトの一つに、「亀山郁夫氏の『罪と罰』の解説は信頼できるか?」というサイトがあるのだが、私としてはいろんな意味で残念な現象だと思っている。はっきりいって専門家が在野の一般読者からこんなことを言われたら終りだと思うし、今回の『罪と罰』読書も誤訳問題や解題の問題が尾を引いているのが正直なところだ。
亀山氏は専門家であるし、ドストエフスキーが生きていた頃の時代考証とその裏づけも専門家でしか示しえないことを、読者にわかりやすく書いてくれていることは事実だ。だが、氏の「斬新な解釈」はいささか性急で、これまで誰も言ってなかった仮説をつねに考え付こうとする気負いみたいなものが私の中で感じられてきた。氏の言うことがある程度の批判に耐えうるしっかりとした論理に裏付けられたもので、加えて先人の研究成果をアンチョコにした焼き直しなどではないものなら大いに歓迎するのだが、今となっては古典復興に対する使命感ゆえか『悪霊』に出てくる「つくりなおし」を商業ベースに則って文学界でやろうとしているというか…。悪い人ではないんだろうけどなぁ…。
思えば、一昨年スタンダールの『赤と黒』の新訳版を放り出して、別の訳者ですんなり読めたことのあの違和感に身をゆだねるべきだったのかもしれない。
自分で恥をさらすようだが、私は以前このような記事を書いた。この記事以降の私の記事をご覧になれば、おそらくここで私がいわんとしていることが察せられると思う。つまり、私はいつかというか近いうちにまた別の訳で『カラマーゾフの兄弟』を読むだろうということだ。

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