デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



トリニティー教会の中央祭壇とステンドグラス

3月中旬以来、約三ヶ月ぶりの更新である(笑)

ウォール街の傍にある、1697年に当時の英国国王ウィリアム3世に許可状をもらって建てられた、ニューヨークで最古の歴史を誇る教会のトリニティ教会。この日は昼にクラシックのコンサートがあるということで、再度やってきたわけだが、なんと入り口にコンサートは時間をズラすとか表示が出ていた…。なんてこった。その時間は、友人との約束とかぶってしまうではないか!とちょっと憤りを覚えつつ中へ。コンサートは諦めることにした。


聖人たち






信者のための祭壇はとても静かだった。



まさかルネサンス期のロッビア工房の作品?



聖人たち

観光客が押し寄せることもあるだろうから、それなりにざわついているかなと思ったら、意外と静かだった。私以外にも旅行者はいたが、声を落としての静かな会話で聞える程度だった。





大人の男性がいても、この大きさである。






扉にあるレリーフ。なんかドルのお札に出てる人が彫られてる?

ウォール街の喧騒から離れ、ちょっと気持ちが落ち着いたように思う。改めて外に出ると、17・18世紀に教会が持っていたとされる膨大な土地は何に変わってしまったんだろうと思ってしまった。もちろん、当時の教会も持っている土地を活用して教会の収益を上げていたのだろうが、ただ未だ世界を動かしている金融街のなかにポツリと建っている教会の姿に、歴史の容赦の無い流れを感ぜざるを得なかった。

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玄宮園の続き。




















亀が泳いでいた




この記事を書いている現在、『ローマ人の物語』のおかげで西洋の建物や庭のことをイメージすることが多いものの、やっぱりこういった日本の大名庭園もすばらしいと改めて思う。

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今は楽々園の名で知られる井伊直弼が生まれた槻御殿(けやきごでん)の東隣に、玄宮園はある。









玄宮園は井伊家の旧下屋敷の大名庭園だが、名の起こりは、唐(中国)の玄宗皇帝の離宮にならったものだそうだ。












入園券にある説明には、この庭園の造りは近江八景を取り入れられているとある。よって八景亭ともいわれているそうだ。

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白鳥がついてきていた。

玄宮園に入る前に、楽々園という庭園に入って一服した。





もともとは槻御殿(けやきごでん)という名で知られていたそうだ。

第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677年)に着手し、延宝7年に完成した。井伊直弼は文化12年(1815年)にここで生まれた…etcとある。





日が傾いてきた。


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塩野七生の「ローマ人の物語」第7巻『悪名高き皇帝たち』の感想。
この『悪名高き皇帝たち』に登場する皇帝は、アウグストゥスよりあとの、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロである。年譜でいえばキリスト教のイエスが生きていた頃を含め西暦68年に至るあたり、である。
『悪名高き皇帝たち』は、当時のローマ市民や後世の研究者たちに評判が悪い皇帝たちの治世が実際はいかなるもので、あたかも悪い皇帝として断定されがちな彼らの汚名返上を買って出る信念で書かれたようなような本だった。だから、おもしろいといえばおもしろい。その分、本を読んだ人間に訪れる塩野イズム?の影響が強いことも否定できない(笑)。
なぜ、彼らは後世から悪評を被ったのか、一つには当時の記録を残した歴史家が皇帝のことを悪く書いているからといえると思う。しかし、記録を残すような歴史家(表現者)の目に映った世の中というのは一概に悪い世の中とはいえないこともある。本には「悪しき皇帝たち」の時代が、著述業でメシを食っていない多くの一般市民にとっては平和を享受できた世の中でもあったということが強調されている。
上に羅列した皇帝のなかで、とりわけ有名なのがカリグラとネロであると思う。カリグラはA・カミュが戯曲にしたことでも有名だが、本当のところ根っからの暴君であったのかは判断が難しい。
ネロについては、多くの人が「あぁ、あのネロか」と思うことだろう。多かれ少なかれ、ネロはやりすぎた部分もあったなぁと私も思う。しかしなぁ、本で何度も引用されている「悪しき結果に終ったことの多くは、そもそもは良き動機から発していたのである」というカエサルの言葉のとおり、誤解キングともいえそうな、かわいそうなところがネロにはあるのではないか。それに血のつながりだけで若くして皇帝にさせられてしまった、当人は本当は竪琴弾いて詩を詠って生涯をすごしたかったかもしれぬと思うと、ちょっとやりきれない。
しかし、芸術家の一面もあれば政治家として功を成した一面もネロにはある。通貨改革はその後もしばらくは改変される必要の無いしっかりしたものであったそうだし、また有能な配下のお膳立てがあったとはいえ、パルティア王国との外交で一定以上の成果をあげ、平和をもたらしたところなど、政治家としてやることはやったのだ。
現代は世界四大宗教の一つであるキリスト教を信仰する人が多く、古代ローマの研究者達もキリスト教の立場からネロを評価することが珍しくない。実際、ローマの大火の責任を当時少数派だったキリスト教徒になすりつけたのはネロだし、歴史的にいえばその後のキリスト教徒迫害の先鞭をつけたとはいえる。
いわれのない罪で犠牲になったキリスト教徒は200~300人ぐらいだったそうだ。しかし、この数をどう捉えるかについては、多神教と一神教の違いや、その後のキリスト教社会が他の宗教を信仰する人々とどのように向き合ったかを前提にしたうえで、もっと議論があってもいいのではと思う。
話が前後するが、そういえば、イエスもローマの法律に則って裁かれていたのなら、現代にまで脈々と続いている悲劇は回避できたのかもしれないなぁと思う。歴史に「もし」はタブーだが(笑)、時の総督ピラトがイエスの問題で対処を誤らなかったら、この世はまだだいぶマシなものになっていたかもしれない。ピラトは自分が判断して起こってしまった結果の影響がのちのちまで、そして帝国の宗教自体をも変えてしまうことにつながるとは、思いもしなかったろうなぁ…。

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