塩野七生の「ローマ人の物語」第7巻『悪名高き皇帝たち』の感想。
この『悪名高き皇帝たち』に登場する皇帝は、アウグストゥスよりあとの、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロである。年譜でいえばキリスト教のイエスが生きていた頃を含め西暦68年に至るあたり、である。
『悪名高き皇帝たち』は、当時のローマ市民や後世の研究者たちに評判が悪い皇帝たちの治世が実際はいかなるもので、あたかも悪い皇帝として断定されがちな彼らの汚名返上を買って出る信念で書かれたようなような本だった。だから、おもしろいといえばおもしろい。その分、本を読んだ人間に訪れる塩野イズム?の影響が強いことも否定できない(笑)。
なぜ、彼らは後世から悪評を被ったのか、一つには当時の記録を残した歴史家が皇帝のことを悪く書いているからといえると思う。しかし、記録を残すような歴史家(表現者)の目に映った世の中というのは一概に悪い世の中とはいえないこともある。本には「悪しき皇帝たち」の時代が、著述業でメシを食っていない多くの一般市民にとっては平和を享受できた世の中でもあったということが強調されている。
上に羅列した皇帝のなかで、とりわけ有名なのがカリグラとネロであると思う。カリグラはA・カミュが戯曲にしたことでも有名だが、本当のところ根っからの暴君であったのかは判断が難しい。
ネロについては、多くの人が「あぁ、あのネロか」と思うことだろう。多かれ少なかれ、ネロはやりすぎた部分もあったなぁと私も思う。しかしなぁ、本で何度も引用されている「悪しき結果に終ったことの多くは、そもそもは良き動機から発していたのである」というカエサルの言葉のとおり、誤解キングともいえそうな、かわいそうなところがネロにはあるのではないか。それに血のつながりだけで若くして皇帝にさせられてしまった、当人は本当は竪琴弾いて詩を詠って生涯をすごしたかったかもしれぬと思うと、ちょっとやりきれない。
しかし、芸術家の一面もあれば政治家として功を成した一面もネロにはある。通貨改革はその後もしばらくは改変される必要の無いしっかりしたものであったそうだし、また有能な配下のお膳立てがあったとはいえ、パルティア王国との外交で一定以上の成果をあげ、平和をもたらしたところなど、政治家としてやることはやったのだ。
現代は世界四大宗教の一つであるキリスト教を信仰する人が多く、古代ローマの研究者達もキリスト教の立場からネロを評価することが珍しくない。実際、ローマの大火の責任を当時少数派だったキリスト教徒になすりつけたのはネロだし、歴史的にいえばその後のキリスト教徒迫害の先鞭をつけたとはいえる。
いわれのない罪で犠牲になったキリスト教徒は200~300人ぐらいだったそうだ。しかし、この数をどう捉えるかについては、多神教と一神教の違いや、その後のキリスト教社会が他の宗教を信仰する人々とどのように向き合ったかを前提にしたうえで、もっと議論があってもいいのではと思う。
話が前後するが、そういえば、イエスもローマの法律に則って裁かれていたのなら、現代にまで脈々と続いている悲劇は回避できたのかもしれないなぁと思う。歴史に「もし」はタブーだが(笑)、時の総督ピラトがイエスの問題で対処を誤らなかったら、この世はまだだいぶマシなものになっていたかもしれない。ピラトは自分が判断して起こってしまった結果の影響がのちのちまで、そして帝国の宗教自体をも変えてしまうことにつながるとは、思いもしなかったろうなぁ…。
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