デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『トム・ジョーンズ』を読み始めたとたん「イギリス臭」を感じ始めたことは既に書いたが、その典型だなと思った箇所に遭遇した。(以下、少しでもネタ割れがいやな方は読まないことをおすすめする。)

主人公の「育ての親(母)」が夫と死別し、死んだ夫の後釜を狙おうとする宗教家と道徳家が、未亡人の近づくにあたり、道義的な問題はないかと考えるのだが、その際に自分を納得させた「論理」の進め方が、いかにも「イギリス臭」らしいと思った次第である。

…若いころからついぞ美人との評判も立たずしかも今では人生の下り坂のほうに少し踏み込んでいるこの婦人に希望の目をむけるというのは、めずらしいことと思えるかもしれない。が現実の世界では莫逆の友も親友も、友の家の特定の女性に自然に心を寄せる傾向がある――つまり相手が金持ならその祖母、母、姉妹、…(略)…あるいは小間使いに。
 ただし読者諸君は、スワッカムやスクウェアのような人がらの人物が、かたくるしい道徳家からはいささか非難を受けたこともあるこの種のことを企てるのに、まず入念によく調査し、またそれが(シェイクスピアの言葉を借りれば)「良心の問題」であるかないかを考えてみなかった、と想像してはいけない。スワッカムは、隣人の妹に欲情を起こすことは聖書のどこにも禁じてないと考えて、計画さしつかえなしと判断した。また彼は、すべて掟を解釈するにあたってはExpressum facit cessare tacitum というのが原則であると心得ていた。その意味は、「すべての法の制定者がその意図を明らかに書き記している場合、吾人の好き勝手な解釈は許されない」ということになる。されば隣人の持ち物を貪るべからずと定めた神の掟に特定の女性がいくつか挙げてあって妹という言葉が落ちている以上、彼はこの計画を合法的なりと結論したわけである。
(第三巻の六)

私は『ヴェニスの商人』の「契約書にない血の…」という場面を即思い出した。『トム・ジョーンズ』の第三巻の六からの引用は、「イギリス臭」というよりシェイクスピア臭といったほうが適切かもしれない。
なんというか、私はこの論法こそがあの国の秘密であり、未だ世界を覆い尽くしている文による不文律の一形態のような気がした。
もとをたどれば、現代に脈々と受け継がれている法による統治の形をつくったのは古代ローマだ。ということはこの手の論法がイギリスに上陸したのは、カエサルがブリタニアに上陸した時としていいのだろうか?(笑)。
しかし、ローマは論に負けても理に勝つようなことが、より認められていたような印象を持っている私としては、古代と近世とでは性格の相違があるように思えてならないのである。

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