古代ギリシアでの話。
3人の美しい娘が
“私たちの一番大切なものを、ただで差し上げます”
という看板を掲げた店を出した。その看板を見た男は欲情し、胸を躍らせて店に入った。
席に着くと、一人目の娘が一杯の水、二人目の娘が一切れのパンを乗せた皿を、三人目の娘は何も入っていない小さな坪を差し出した。男はそれらをたいらげ、3人の娘たちと雑談を交わしながら浮つく心を抑えつつ、ただひたすら「大切なもの」を待っていたが、娘たちが容器に入れて出したもの以外、何も出ることはなかった。男はがっくりと肩を落とし店を出ようとしたが、その際おもむろに訊いてみた。
「君たちの大切なものというのは、一体何だったのかね?」
娘たちは答えた。
「はい。水と食料、そして空気でございます。それらはすべて私たちが生きるのに欠かせない、大切なものでございます。それらをあなたに差し上げることができ、私たちは心の底から満足しています」
娘たちは満足そうな笑みを浮かべ、男を見送った。
この小噺を思い出したのは、先日の金曜日から読み始めた本、S・グリーンブラット著『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(柏書房)を第三章まで読み終えた瞬間だった。(この小噺は哲学入門の本で読み、それをメモにとっておいたと記憶しているのだが、どの本であったかは失念した)
古代ギリシャやローマ人の子孫にあたる人間であるのに、そのヨーロッパ人たちが先人たちの哲学や思想を忘れ去り、文芸復興が起こった後ですらその内容を曲解し、「異教の哲学」として悪し様にののしり続け、断罪してよい対象としていたのは誠に残念である。エピクロス主義(快楽主義)がキリスト教から被っていた誹謗はその最たる例であろう。
第三章まで読み終えて、私個人は、塩野七生の『ローマ人の物語』の「ユリウス・カエサル」に関する情熱的な記述を思い出した。塩野氏の著作を読んだあとで、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』の第三章を読んだなら、塩野氏の書く「カエサルはエピキュリアンであった」というその意味をより深く理解できるのではと思った。指導者に求められる5つの要素(知性、説得力、肉体上の耐久力、自己統制能力、持続する意志)をすべて持っていた唯一の人であり、エピキュリアンであったカエサル。
エピクロスの庭の扉の上に刻まれたモットーは、見知らぬ人に、ゆっくりしていくように促している。なぜなら「ここでは喜びこそ至高の善である」からだ。しかし、この言葉をある有名な手紙の中で引用した哲学者セネカによると、通りかかった人が中に入ってみると大麦粥と水という質素な食事を出されたという。…(中略)…現存する数少ない手紙の中でエピクロスは書いている。「われわれが喜びが目的だと言うとき、放蕩の喜びや、官能的喜びのことを言っているのではない。」…(中略)…喜びにつながる必要な欲求とは何か? フィロデモスは続ける。「慎重かつ公正に尊敬されるように生きなければ、勇敢かつ寛大に節度をもって生きなければ、友人を作り、博愛の心を持たなければ」喜びに満ちた人生を送ることは不可能だ、と。
S・グリーンブラット著『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(柏書房)、第三章
まるでカエサルの生き方そのもの、『ローマ人の物語』の「ルビコン以前」「ルビコン以後」を読み返したくなった人がおられたら幸いである(笑)。
著者が本の中で最も訴えたいことはまだ先に書かれているだろうが、私には第三章の時点で古代ローマと絡めた心地よい琴線に触れるものがあった。それはたしかに一神教の立場からすれば「すべてを変えた」と表現したくなるぐらい単純明快でかつ深いもの、奇跡と神秘と権威がもたらす閉塞感にがんじがらめになっていた世界に風穴をあけると表現したくなるものだろう。また私は、ここで扱っている内容は、なぜ古代ギリシャやローマがかくも繁栄し、文明と人類の知性と肉体的能力のトータルの面で最高点に達したことが、哲学の面でも裏付けられていることを示すものだと思うし、現代にしてなお、すでに知られている事柄がまったく新しい独自の考え方のように感じることがある、という好例のように思う。
本の読了はうまくいって来週かも。
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