デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 

群飲  


先月から手にしている本を読んでいて、最近、群飲(ぐんいん)という言葉に目が留まった。
群飲というのは古代中国の漢代において「3人以上がいっしょになって酒を飲む」ことである。漢代の法律では群飲は禁止されていた。(群飲の記述は『史記』に出ている)
禁止の理由としては3人集まって酒を飲んだら社会に対する不満を吐き出し合いその共感から色々と意気投合し、それが謀反の計画が立てられかねないことに繋がるゆえに群飲が禁止された、のが主な理由だそうだが、しかし官吏が群飲をしている例が史料中に出てくることなど珍しくない。実際、私が目を通した『史記』のなかに郡や町や村の官吏や庶民に酒を飲ませて、あたかも行政としての仕事をしないことを問題視するが実は、などというエピソードもあったのを覚えている。
集まって酒を飲んだらいけない、という法律があったことを目にしたとき、私はどういうわけか古代の「旧約聖書」のバベルの塔の話を思い出した。自分でも不思議なくらい突飛なことだと思いはすれど。
ノアの洪水のあと、ノアとその子孫が神から「たくさん産んで子孫を増やし地上全体に満ちて(満遍なく)住みなさい」と言葉をかけられたものの、東からやってきた同一言語をあやつる民がシンアルの平原に住み着いて天まで届く塔のある町を建てて有名になろう、そこで地上全体じゃなくてそこに集まって住もうとして建てたのがいわゆるバベルの塔だが、「同一言語をあやつる民が集団で住む」ことが神のいうところの「地上全体に満ちて(満遍なく)住みなさい」に反しているがゆえに、神が同一言語を民があやつれないように言葉を混乱(バラル)させ、塔を完成させようとしても言語が混乱したから企てはボツとなり、町の建設は行なわれなくなった、というのが「旧約聖書」のなかにあるバベルの塔のエピソードだ。
しかし、これって、結局のところ、人の子が集まっていろいろ企てると強大な力になるがゆえに、それを防ぎたいがための、最初から人を集めないようにしようという神による裏工作に他ならないといえると思う。もっとも、「旧約聖書」を書いた時代の人の事情としては、多くの人が集まった新バビロニアが隆盛を誇っている頃(ちなみに新バビロニアはユダ王国を滅ぼした)であり、地上のあちこちで遊牧で生計を営む羊飼いや族長文化が色濃い砂漠の民のためのような宗教としては、バビロニアの都市のようなものが嫌でたまらなく、人が集まってできたバビロニアの栄華の象徴の高い建物を批判の対象にしたのだろう。あたかも遊牧の生活をおくり、ひたすら神を崇めるのがまっとうな生き方で、都市にすごい建物をたてて栄華を誇る他の文明など堕落したものだと、いいたかったのではないか、と思う。
漢代の法律での群飲禁止と、「旧約聖書」の神が人の子の言葉を混乱(バラル)によって人の住む場所を散り散りバラバラにさせることは、統治のための手段と神話や文芸で描かれた神との約束事との違いという意味で完全に一致するものではないのは分かってはいるが、ただ、なんというか為政者や権威的な立場の人が庶民や大衆に対して意識的にしろ無意識的にしろ抱いている恐れや疑心、つまりは自分の立場を危うくする存在に不安を抱き続けているものだという点においては、古代の東西を問わず同じだったのではないかと感じた。それに現代だって、3人以上で酒を飲むどころか、街なかで友人と立ち話をしていただけで体制に対して都合の悪い集団とみなされ逮捕・拘留されたり、宗教上の戒律を盾にした治安維持と称して自分の勝手な印象だけで暴力を伴う取締りを行なっている国や地域もあるわけだから、やっぱり昔も今も人間は大して変化・進歩はしてないと思ったのである。


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