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デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 





クラーナハ作品は、画家が絵画工房を立てたこともあり親子でたくさんの作品が残していることもあってか、欧米の大きな有名美術館ではよく見ることができる。
しかし日本でまとまった形で見るとなればそう機会はないのでに足を運んできた。
クラーナハの絵を見ていると同じドイツの画家のホルバインやデューラーの作品の色使いに見えてしまうところがあるけれども、やっぱりクラーナハはクラーナハの作品だなという特徴はあるなと思った。
堂々たるファムファタールぶりでこちらを見据えたサロメとユディトには、くらくらっときそうになった。
「ヘラクレスとオンファレ」は昔愛読したギリシャ神話の解説本に載っていたこともあり、まさか本物を見れるとはと感無量だった。あの腑抜けたヘラクレスの表情に思わず苦笑した。
ほかにもおもしろかったものとしては、クラーナハのともすれば目のやり場に困るアンビバレント(二律背反)な作品や画家としての運命の帰路を思わせる展示の仕方だった。なかでもクラーナハ(父)が宗教改革で有名なマルティン・ルターの肖像を描けたのに対し、ルターの肖像を描くことを熱望していたデューラーはルターの肖像を描くことが叶わず、ルターと対立関係にあった枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデブルク(小)を残すことになったというのは実に興味深い。
展ではクラーナハの影響を受けた現代絵画もいくつか展示されていてそれがなかなかの存在感を放っていたのもよかった。
非常にマニアックな雰囲気の漂う展示でとても充実した時間が過ごせた。

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美術全集で大きく採り上げられている作品が、「一生で一度は見ておくべき作品≒名作・名品」のようにところがあるし、事実それらの刷り込みや手引きがなければ、私などは鑑賞に困る。
しかし、それだけでは面白くないなぁという思いはどこかにあってしまうのだが、今回の松方コレクション展では有名な画集に載っていなくても他では普通に注目されているよ、といった作品が集まっていたように感じた。それは作品リストにけっこう多くの美術館や博物館や企業の名があることかも分かる。
印象に残った作品は多かったが、とりわけG・モローの「ジョット」には三回見入った。モローはギリシア神話や聖書に題材をとった幻想的で神秘的な作品が多いが、まさかのルネサンス絵画の父ともいえるようなジョットの肖像を描いているとは思わなかった。モローの「ジョット」はメランコリックな表情の中に霊感を受けている風ではあるが、色使いが現代のマンガのデザインっぽくておもしろい。
ほか、トロワイヨン、ドービニー、ブラングインらの作品が印象に残ったりした。レールミットの「羊飼いの女性と羊のいる風景」に今なら女性がスマホ触りながら放牧しているような風に見えてしまったり、ダッドリー・ハーディーの「海の収穫」に描かれる網にかかった"機雷"に皮肉と大いなるリアリズムを感じ、ルパージュ「ロンドンの靴磨きの少年」にはこの絵を購入したときの鑑識眼はすばらしいものじゃないかと素直に思えた。

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国立国際美術館




先日、大阪で開催されている「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち(展)」と、神戸で開催されている「松方コレクション展」をはしごした。一日に二つも回るべきでないな、と思えるほど、両展ともに密度の濃い充実した内容だった。
ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」はヴェネツィア絵画好きならたまらない内容だったと思う。
まずは、昔、友人がくれた絵葉書と同じ「受胎告知の聖母」の模写が目を惹き、驚き戸惑ったマリアが右手をピクッと上げる動作の表現を人間味を感じさせるなぁと感じたことを思い出し、懐かしい気持ちになった。
カ・ドーロにあるヴィットーレ・カルパッチョの「聖母マリアのエリザベト訪問」の解説にあった「同信会」という言葉も懐かしかった。ヴェネツィアには今もかつての同信会の建物があり、同信会がカルパッチョに依頼した絵画が飾られているのだ。
ティツィアーノが用いた赤はこの展示でも目立っていたように思う。あの赤色はティツィアーノの以後のヴェネツィアの画家たちにも多大な影響を及ぼしたように感じた。
パオロ・ヴェロネーゼの「レパントの海戦の寓意」は寓意どころかあからさまじゃないかと少し笑ってしまった。ヴェネツィアや「信仰」を表した女性がローマの守護聖人たちに囲まれているのはまだしも、天使がオスマン・トルコの海軍に向けて矢を放ってるのは肩入れしすぎだろ(笑)と。
私の勝手な憶測だが、ひょっとするとヤコポ・バッサーノの工房「動物たちのいる風景」は石版を叩き割ろうとしているモーセの絵では?と思った。
他にもすばらしい作品があって語りきれない。語弊があるかもだが、展はヴェネツィアでどうしても見落としてしまう作品、言い換えれば現地に行ったら必ず見たい作品リストの影に埋もれてしまう珠玉作品たちを見れる機会だといっていい。それはある意味、ガイドブックには載っていない入り組んだ路地に入ったら、たまたま目の前に現れた教会に入ってみたら素晴らしい作品を発見するような機会でもあるように思う。

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ダヴィッド「テルモピュライのレオニダス」(1814),ルーヴル美術館

読書をしていると、かつて旅行先で巡りあえたものに再会することがある。
前回ふれた塩野七生著『ギリシア人の物語Ⅰ』(新潮社)の中で紀元前480年の第二次ペルシア戦役の話が出てくるが、ペルシア王クセルクセスやスパルタ王レオニダスという人名、テルモピュレーという地名が頻出するようになってきたら、あぁあの絵をかつてじっくり見たな、と思い出し、昔のフォルダから画像を引っ張り出してきたくなった。
この絵の場面の背景は第二次ペルシア戦役のテルモピュレーの戦いで、アメリカで制作された映画「300」(2007)でも描かれていることでも知られている。映画の「ペルシア軍100万」はいくらなんでも多すぎとはいえ、テルモピュレー最後の戦闘ではペルシア軍18万を、ギリシア側のレオニダス率いるスパルタの兵300とテスピアイの兵500足らずで迎え撃ち、ギリシア側が玉砕したという史上有名な戦いである。この戦いでクセルクセスは一週間もアテネ侵攻への足止めを食らう屈辱を受け、スパルタはスパルタの戦士の強さを世界に見せ付けたことで大いに自信をつけ、かつギリシア世界から遠い世界への視野を拡げることになった。
さて、ナポレオンのお抱え画家でスポークスマンといっていいダヴィッドによるこの絵は、戦いの場面が描かれているわけではない。中央のレオニダスは、これから訪れる戦闘を前に避けることのできない自分の死について瞑想にふけっている。また画像では分かりづらいが左上で岩に「旅人よ,スパルタに行きて伝えよ,祖国のために命を捨てた者たちがここに眠る」と刻んでいる人が描かれているが、この言葉が刻まれるのは戦闘の後なので少しばかり「異時同図」になっている。
ルーヴルにあるダヴィッドの作品には他にも「サビニの女たち」や「ブルートゥスの家に息子たちの遺体を運ぶ警士たち」などがあり、いずれも動的で感情豊かで劇的な場面を描いた作品だが、そういった作品のなかにまぎれて展示されている「テルモピュライのレオニダス」は一見、戦の場面かな?と思わせつつも、次第に妙に静けさを湛えていることに気づき戦士たちに派手に躍動するようなアクションを見出すことができなくなるので、鑑賞者を困惑させるものがあったように思う。それもあってか、余計に印象深い作品だった。
ところで、テルモピュレーの戦いに臨んだ時のレオニダスは60歳だったというから、絵のなかの彼は若すぎるように思われるのは分かる。しかし、たとえ紀元前でも鍛え上げられたスパルタの戦士ならば、ダヴィッドの描いたような60歳の戦士は存在していたかもしれない?(笑)。

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11月上旬、大阪の国立国際美術館へ「クレオパトラとエジプトの王妃展」を鑑賞しに行ってきた。
見どころはたくさんあったが、個人的に一番印象に残ったのはユリウス・カエサルの胸像であった。
というのは、古代ローマ帝国を目的に行ったルーヴル美術館やカピトリーニ博物館、そしてメトロポリタン博物館でも、紀元前のカエサル像に出会えたことがほぼ無かったからである。大量に作られたアウグストゥスやハドリアヌス、アンティノの像はそれを目当てにしていけば出会える可能性が高いが、個人的にはローマでならまだしも、カエサル像にお目にかかれる可能性はぶっちゃけ低いし、クレオパトラ7世の肖像となるとさらに低くなるように思っているのである。実際、ヴァチカンのキアラモンティでも見つけるのが難しいと思うし、またヴァチカンとなると他にも見たいものがたくさんありすぎて、ついついローマ時代の彫像のことを忘れがちになることもあるのではないか。それに紀元前に制作されたものは公開されることが多くない気がするのである。
しかし、「クレオパトラとエジプトの王妃展」ではキアラモンティ所蔵の紀元前制作のカエサル像をじっくり見れて、プトレマイオス朝時代のクレオパトラ像も3つも見ることができ格別な想いであった。さらにアントニウスとオクタヴィアヌスの像も展示されていて、帝国を巡って争った物語を髣髴とさせた。
展示のテーマはエジプトの女王であって、主役はハトシェプスト、ティイ、ネフェルトイティ。とくに目を惹いたのはハトシェプスト治世のエジプトの繁栄の表す展示だった。また新王国・第18王朝時代アメンヘテプ2世治世の頃に作られた将軍サイシスの像には旧約聖書「創世記」でエジプトに売られたヨゼフはこんな風に偶像化されたのかもしれないと想像力をたくましくした。説明によれば将軍サイシスは上下エジプトの二つの穀倉の監督であったという。七年間もの豊作が続く間に周囲の目をひく作物を備蓄させるためのある種の崇拝の対象となるような奇妙な建造物を国中に建て続け糧秣大臣の威光が増していく、といったようなことを「創世記」を書いた人物が見聞きしていたとするならば、案外この展示に来ていた将軍サイシスのような人物の彫像も見たりして物語創作のヒントにしていたかもしれないと思うと、聖書も何ら根拠のない荒唐無稽話とは決めてかかれないなぁと改めて思った。

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100のモノが語る世界の歴史大英博物館展



来館者へのサービス、ルイス島のチェス駒のレプリカ(拡大版)



ちょっと困っているかのように見える

先月のことだが、100のモノが語る世界の歴史大英博物館展を鑑賞した。
一点一点、密度の濃い展示内容ででとても印象に残った。私は外国旅行をする機会があればなるべく大きなミュージアムを訪れる機会をつくるが、そういったミュージアムでは自分の見たい作品をなるべく効率よく見回ろうとする。しかし自分の見たい作品といえど、多くが世間によく知られた有名な作品であることには変わりなく、そういった有名作品だけ見回っても時間があっという間に過ぎてしまい、もし三日間以上来館できるならばぜひじっくり見ておきたいものが見逃しがちになる。今回の大英博物館展は、もし現地で入館したとしても見逃してしまうであろう展示品が厳選されているような展だったように思う。
ここ5・6年の間に塩野七生の「ローマ人の物語」をきっかけにして古代ギリシア・ローマ文明とエジプト文明のTV特集を見たり本を読むことが多くなったので、今回の展示に自分の見たいものが来ていたのでうれしい驚きであった。
瞠目した作品の一つに「ミトラス神像」があった。展覧会のチラシの下の方に映っている首をのけぞらせた牛の背に左ひざを乗せている男の像だが、この像を見て私はハドリアヌス帝やユリアヌス帝、そしてシンマクスのことを思った。そしてシンマクスの懇願が今ほど切実な響きを帯びている御時勢はないとも。
メソポタミアの大洪水伝説を語る粘土板にはT・マンの『ヨゼフとその兄弟たち』のことを思ったし、ロゼッタ・ストーンのレプリカには考古学や言語学のすごさを感じ取れた。アウグストゥス帝とソフォクレスの胸像には旅先の知り合った人と再会したような気持ちになった。宗教改革100周年記念ポスターにはニヤリとしてしまった。ヘブライ語が書かれたアストロラーベはアンティキティラを思わせたが、その延長線上にあるビーグル号のクロノメーターにはよくぞ日本に来てくれましたと言わんばかりの気持ちになった。
ビーグル号はC・ダーウィンが5年間の世界一周の航海に出た船の名前だが、その船に搭載されていたクロノメーターを間近で見れたのだ。私は人類が経度の測定を手のひらサイズの時計で成し遂げるにあたりジョン・ハリソンという時計職人の多大なる貢献があったという話が好きで、ビーグル号のクロノメーターもハリソンの職人魂が乗り移ったものであったからこそ長期間に渡る航海を成し遂げたと思いたくなった。

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А・クインジ「ドニエプル川の月」(1880)

私の持っているカメラでは中秋の名月がきれいに写らないので、サンクト・ペテルブルグの国立ロシア美術館蔵のクインジの絵を代わりに再掲する。
この絵についてはかなり以前に弊ブログで触れたが、この絵が個展で発表されたとき当時の鑑賞者のど肝を抜いたことは、私でも実物の絵を見て共感できた。本当にカンバスの裏側に何か「光らせる細工」が施されているのか疑うほどだったのだ。
今年の中秋の名月もすばらしかった。月の光も雲の具合もぜひともお月見をしたくなる感じで、ちょいと気持ちが盛り上がって最近触れていない楽器で月をテーマにした曲を奏でてみた。当然、月のようにきれいな演奏には程遠かった。

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ルーベンス『ローマの慈愛(キモンとペロ)』(1612年頃)

昨日、スタインベックの『怒りの葡萄』について感想を書いたが、読了直後に感想こそしばらくまとまらなかったものの、ルーベンスのこの絵のイメージがすぐに頭に浮かんできたものである。ひょっとするとスタインベックはこの絵(エルミタージュ美術館蔵)を見たことがあったのか?と思ってしまった。
今となってみればスタインベックがこの絵を見た可能性は限りなく低いだろうと思う、しかし絵の主題である古代ローマでのエピソードについては知っていたかもしれない。

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60万円で購入の絵画、落札価格6億円に 鑑定の食い違いで

こういった類のニュースを目にすると、現代の美術界が蓄えている豊富な知識で持ってすらどうにもならないことがあるんだなと思うと同時に、映画『おしゃれ泥棒』の始めのシーンとかを思い出す(笑)。
それにしてもコンスタブル?とはたしかに微妙だなぁ。それも彼の弟子ともなると…。

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神戸三宮で開催されている「メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神」を鑑賞。

エジプトの遺跡に関してはエジプト本国で見るのが一番だろうし、大英博物館やメトロポリタン美術館、ペルガモン博物館(ベルリン)ですら神殿や墓の一部を持ってくるのが精一杯(それでも瞠目する規模だ)なのだから、日本に貸し出せる展示物なんてごく一部にすぎない。
今回来ていたのは、ニューヨークのメトロポリタン美術館内ではほぼ素通りしてしまうようなものばかりだが、しかし貴重なものばかりであるのは間違いない。どうしても「有名なもの」や様式美がしっかりしているもの、大きいものに目がいきがちな私にとっては、紀元前15世紀のエジプトの女王の像やエジプトの人々が崇めていた神々の像、エジプトの人々が使用していた楽器や護符、大工道具、化粧品や化粧道具、内棺やミイラ板などを間近に見れたことは貴重な体験だったように思う。
また神々の役割の分かりやすい説明もよかった。古代エジプトもいわば多神教だけれどもその一つ一つにもいろいろな性格があって人間味を覚えさせるところがまたいいのだ。いつかエジプト神話の本を再読したいものだ。

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