Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

首は飛ばずに血糊が飛んだ

2019-07-09 | 文化一般
マンハイムでシラー作「マリアステュワート」を観た。今年のシラーフェスティヴァルの制作作品である。新聞評を読んで出かけたが、その中途半端な評価はその通りだった。ガイダンスではドラマテュルギ―の人が歴史的背景などを説明していたが、演出のポイントは八人の演者がその都度別けあって主役等を演じることだった。

同時に楽屋裏を化粧室として分割ヴィデオで同時中継する。このライヴヴィデオの使い方は音楽劇場ではあのカストルフ演出が有名だ。それよりも監視カメラの様に分割されていることで、寧ろビッグブラーザー感もあった。また化粧室と表舞台という事ではクラウス・グートがフランクフルトでやっていたことと似ている。その効果は、昨今至る所で語られる「そのように見える」ことの裏を見るという意識ともう一つは「覗き見」効果だ。音楽劇場の演出についてとやかく語る人はやはり芝居を徹底的に見て行かないと話しにならないと思う。前回同じような枠組みで観たマンハイム初演の「群盗」ではなく「ウイリアムテル」とは大分異なった。作品も違えば演出も異なる。

どうしても技術的なことに興味が向かう。通常の言葉の明瞭性はマンハイムほどの名門ならば我々がとやかく言うことは無いのだが ― 勿論字幕なども無く、地声が基本である ―、戦略的だったり所謂状況説明分のところは端折る感じが強い。それで当然のとこもあり、もう少し状況を説明するようなところは流さないでもいいのではないかと思った。女性の演出家なのだが、なにか全てが感情表現へとフォーカスが当てられ過ぎていたように感じた。

それでも例えば今回の演出の目玉だった四人が揃って声を合わせて一つのセリフの場面が見ものだった。男女もあって声が上手くハモル様にはなっている。勿論音楽でも無く楽譜も無い訳だから、一体どうやって合わせる練習をするのかなと興味を持った。テムポ感はやはりメトロノームのようなもので数えるのだろう。そこに音節を合わせる作業しかないのだろうかと、改めて思った。余談であるが、キリル・ペトレンコの指揮と言うのはまさにそこを合わせる為にあるようなものでその意味では特段職人的なものでもある。

主役を主に演じた女優は声を割るかと思うほどの叫び声の熱演だったが、意外に終演後の反応は良くなかった。その表現力においてももう一つ後を引くような考えさせる表情が無く、どこまでも絶叫型の熱演を割り振られた形になっていた。演出家は割り当てを演者に任せたというから若干その辺りも方法としては面白いが演出放棄ではないかとも感じた。

原文のテキストに目を通していくような準備が出来ていなかったのも反省で、音楽劇場と同程度に何かを言おうと思えばやはりそこまで下準備しておかないといけないことは分かった。そこまでして芝居に通うようになれば、作品に親しめるようになるのは音楽劇場と全く同じで、どうしてもその場限りの演出や舞台への表層的な批判に終始してしまうのも全く音楽劇場とも変わらないであろう。

音楽劇場の演出や歌手に小言を言ったりというのは所詮エンターティメントの域を出ないという事でしかない。時間と金が余っている老人にはそれでいいのだろうが、やはり劇場に通うという事の意味はそのようなところにあるのではない。古典から学び、新作から学びという事とはかけ離れている。兎に角、次に私がお勉強するのもシラーであり、第九の勉強はそこにももう一度戻って行かないといけないと考えている。

最終列の安い席を購入したので行ってみるとやはり照明音響さんの卓の横だった。暗いので卓の親仁の懐中電灯で照らして貰った。しかし実際には空席が多くて、劇場の人も前へ詰めてもいいよと言うので、六列前の16列まで前進した。15列目に誰もいないところに座ったので視界が効いて快適だった。しかし夕食も急いで済ましてきていて眠かった。上演時間も先の楽劇「サロメ」とほぼ同じぐらいで、休憩なしである。ここでも首は飛ばないが、言葉ではあまりにも十分で、血糊が飛んだ ― 齧り付きなどは以ての外だ。意識も飛ぶことなく無事観通せたが、やはり芝居としてはかなり長い。つまりビッグブラザーのような舞台なので八人とも舞台に出っ放しで何時も観られているというのは大変な舞台だなと分かった。駐車料5ユーロ、プログラム2ユーロでまあまあ価値はあっただろうか。

急に涼しくなった。夜間は締め切って就寝して睡眠は深かった。寝坊したが走っても快適だった。そろそろ晩夏の雰囲気でこのまま涼しくなることは無くても、夜間摂氏20度を超えることはしばらくなさそうなので仕事が捗りそうだ。嬉しい夏、欧州の夏である。



参照:
不可逆な無常の劇空間 2016-01-18 | 文化一般
開かれた平凡な日常に [ 文学・思想 ] / 2005-12-30

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