Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

無視にしか価しないもの

2019-07-29 | マスメディア批評
土曜日のザルツブルク初日の新制作「イドメネオ」の新聞評が出ている。先ずはその〆の一節。

「エートスとしてこのような脅威的徒党は無視にしか価しない」

つまり、「ザルツブルクの音楽祭でモーツァルトの音楽へのヘイトであったり、それをごみとして取り扱うことを基本コンセプトとして活動することは要注意だ」としている節に続いている。勿論これは上出来だった演出家のオープニングでの温暖化に対抗する演説内容程に上手く行かなかったその演出内容についてでもある。

そしてまた二年前にトンデモ演奏を繰り広げたクレンツィスが今回は三か所しかスペクタルな演奏を指揮できなかったことについても触れている。つまり、状況の分かっているフライブルガーバロック合奏団を同等のパートナーとしたことで、分かり易く、多面に亘り、表現を聴けるようになったことに反してとなる。合唱の大きな功績や歌手の横においてという事である。

それでも前日のSWR放送管弦楽団演奏会時の出で立ちには至らないが、その足元は明らかに議会外運動家の様相だったとされる。そして、前夜には、そのショスタコーヴィッチの「レニングラード交響曲」を振るにあたって、服装などでその指揮者を絶対判断してはいけませんよと“Don‘t judge a girl by her T-shirt“と書いてあるのと同じだとメッセージを読み取る。

そこでは、そうしたお膳立てが「特別効果」となって、ドイツ軍の封鎖前のレニングラードの平安への賛歌に最初の攻撃的な唸りで以って鞭が入れられる。一体この主題はどのように歌われていた!指揮台の独裁者ムラヴィンスキーでさえ、レニングラードフィルハーモニカーの黄金の弦楽の音色で、戦時下やテロ下でさえ音響的なヒューマニティーを決して失うことは無かったのである。

クレンツィスは、世界大戦をショーにして、その侵略の頂点で弦楽奏者を立たせる。そして、対抗させて金管楽器群、木管楽器群と、その劇場においては、もはや人はなにも聴かないことが謀られているが、体験ジャンカーにとっては更なる刺激の増大が必要とされて、過剰で刺激が麻痺する様になることが謀られる。そしてまた緩徐楽章でも彼は留まることない。なぜならば、掻き毟り、騒ぎ立てる以外に、語り、感情的に表現する技術的な手が彼には無いからだ。

演出に関しては来月の放送で確認するしかないが、少なくとも音楽的には二年前の話題性も何もかもなく、残るのは無様な足ふみを繰り返すこのカラヤン二世指揮者の無能な指揮振りだけだ。恐らくザルツブルク音楽祭史上最低のモーツァルト歌劇による初日だったと思う。あれだけ批判された同じところで上演された小澤指揮の「イドメネオ」でも音楽的には天才作曲家に寄与する指揮であった。

正直なところこのテオドール・クレンツィスと言う指揮者はその指揮だけは一流だと信じていたが、今回序曲からその始終踏み鳴らす音は、まるでルイ太陽王の宮廷楽長リュリが長い指揮棒で自身の足を突いてそれがもとで亡くなった逸話を思い出すほどの無様さだった。勿論、リュリほどの人物では無い事は分かっているのだが、なぜあそこまでやったのかを考えている。前々日のバイロイトでの指揮者ゲルギーエフの鞭入れも不自然極まりなかったが、これはそれが効果として表れるどころか、その堅いベースラインを上書きするように、とても非音楽的な情報となって、この指揮者の基本的な音楽性の程度の低さを示すだけだった。こんなに硬直したリズムしか取れない指揮者とは気が付かなかった。この様子なら精々二流の才能の指揮者で、そのペテンの仮面がこんなにも早く一挙に剥がれるとは思わなかった。なによりもブラック労働で仕込む自身の管弦楽団が無くなったのが致命傷だった。ブラック労働抜きではそれ程しか表現の出来ない指揮者、一体誰だ、あんなものを仕掛けたのは!



参照:
Kein Müll auf dieser Bühne, Jan Brachmann, FAZ vom 29.07.2019
輝く時へと譲るべき大人 2019-07-28 | 文学・思想
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
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